Kingdom of heaven




〜16





 カエデ、カエデと二度呼ばれ、それが自分の名だと気づいて我に返った。それほどまでの時間、シニカルな笑みを残し颯爽と退出して行ったサワキタ 王子の背中を睨みつけていたのだ。
 あの男が獲物のひとつとして自分を狙い定めたくらいのことは、疲労困憊した回らない頭でも理解できる。 根本的な問題はどうであれ、それが戦の習わしであり、征服者の当然の権利でもあることも知っている。 そして、そのサクセンの猛攻を受けて国体を維持できた国が、いまのところ存在しないという事実も。
 それでもルカワはサクセンと王子に対して怖気や嫌悪を感じなかった。そんな細やかな感情が入り込む余地すらなかったともいう。
 戦場においての斬り合いではなく、決戦前の駆け引きがもたらす緊迫感に、まず肌が粟立った。隠した腹の底の探り合いの行く末と、逆に さらけ出して見栄を切るさじ加減と、発した言葉がもたらす効果が気になった。この瀬戸際をマキ王がどう切り抜けるのかと前のめりになった。
 アイルランドとの戦で故郷を明け渡したのはつい先日のことだが、マキ王の手を取り導かれ、父王を見送り、寄る辺を問われ応えに窮し、 未だに、さしたる到着点も見い出していない。自分がなにひとつ決められないでもたついている間に、情報戦の先を制したマキ王は自国を守る決断 のさきがけとして、出会い頭に特大の花火を打ち上げた。
 はったりという名の揺るぎないプライドに興味を覚え、己の首を掛けてノコノコと足を運んだ男もプライドの塊だ。そしてこんなギリギリの局面は、 この国が平定されない限り、この国からアイルランドとサクセンを追い出さない限りいつまでも続く。果てしない戦いの一場面にしか過ぎないのだ。
――いまのおまえとマキさんを比べてどうすんだよ
 そんなセンドウの声が蘇った。あのときもいまも、慰めが聞きたかったわけじゃない。気休めは薬どころか毒にしかならないと知ってる男が、 ガキをいなすみたいに馬鹿にしやがってと思う。ブリテン島を守護する領袖の急先鋒であるマキですら、サワキタ王子の非礼に対し燭台をけり飛ばすことも 出来ない現状なのに。
「……カーマライド」
 オレの祖国と、宙を流離った呟きは言葉となって漂った。マキが聞きとがめるがかぶりを振った。
 アイルランドに蹂躙された碧なす美しい国。
 カーマライドの王子――として。
 いや、ブリトン人として。
 いち、ブリトン人として、自分はなにをすればいいのだろう。
 なにができるのだろう。
「顔色がおもわしくない。疲れたのであろう。もう下がっていいぞ」
 あまりの放心っぷりに心配した王の労いも耳をとおり抜ける。思考もまとまらない。すかさず、その言葉を待っていたかのタイミングで傍に寄ったアヤコが 手を取ってくれた。よくもったと彼女の目が微笑んでいる。ルカワは小さく頷いて肩の力を抜いた。
 そのとたん激しい眩暈に襲われた。実際少しでも気を緩めると体が傾ぐ。あの野郎の目の前でそんな失態は見せられない。退出する王妃に礼を取る騎士たちの 中で、より深く沈みこんだセンドウの後頭部が見えた。直視できないのは己が所業の後ろ暗い理由からか。それともまたなにか含むものがあるのか。
 あの男の心情など推し量っても仕方がないと、ルカワは精一杯顎を上げた。
 大広間から王妃の私室までの距離が異様に長い。いつもは寒々と感じる石造りの薄暗い廊下が、ひんやりと気持ちがいい。ほんとうに 熱が出てきたのかもしれない。その様子は手を取ってくれていたアヤコにも通じたようで、
「いままでの疲れが一気に出ちゃったのかも知れないわね。人生にそう何度も経験出来ないことが押し寄せたから」
 確かに数え上げたら、振り返って思い出に浸ることも出来ないほどの怒涛の修羅場ラッシュだった。それだけでもお気の毒さまなのに、とどめがけさの一件だ。 それにしても今まで聞いたことのないような柔らかいアヤコの声音に驚く。相当心配してくれているのだろうけど、ルカワにすればちょっと不気味だった。
 私室に戻ると彼女はすぐにウィッグを外してくれた。 部屋で待っていたハルコとふたりがかりで、ドレスとコルセットの撤去も手慣れたものだ。そのままのしどけない格好でうつ伏せのままベッドに 倒れ込んだ。ハルコが薬草をお持ちしましょうかと聞いてくる。 それにアヤコがなにかの言葉を返していた。二人の会話が途切れる。途切れた瞬間、ルカワは跳ね起きた。
「どうしたの?」
「……」
「ルカワ?」
「アヤコさん、オレ……」
「具合がよくないんだから。王のお許しも出たことだし、寝ていいよ」
 躰は鉛のように重い。ズキズキとこめかみが痛む。節々が痛い。確かに発熱している。だけど、なんだろう。いま気絶したみたいに眠ってしまうわけ にはいかない気がした。なんの根拠もない。カンと呼べるものでもない。ただ五感がそう訴えた。
「やっぱ、着替える」
 ルカワはすっと立ち上がった。毅然とはお世辞にも言えない状態だったけれど、それでも、肝心な一言を付け加えることも忘れない。
「なんでもいいから、食いもん、先にっ」



 広間を退出した王妃を見送り、それまで黙したままのフジマが壇上を降りて王の前に膝を折った。センドウをはじめ王騎士の面々もそれに倣う。 発せられたフジマの声は糾弾するかのように鋭かった。
「僭越ながら我が君にお尋ね申し上げます。先ほどの特使への対応は開戦への返答と見てよろしいか?」
「そう取ってもらってもかまわない」
「では重ねてお聞きいたしますが、サクセン四万対我が軍一万の圧倒的劣勢の現状、活路はいずこに見い出しておいでなのでしょう」
「それをいまからお前たちと論議するのではないか」
「君におかれましては、奇策をお持ちではなかったのですか?」
「奇策とは異なことを。正攻法に勝る王道はないと、常々口にしていたのはおまえだろう」
「そのような言い訳がましい切り返しは、滑稽だと申しあげておきましょう」
「これはいつになく手厳しいな」
 クツクツと、乾いた王の哂いが広間に響いた。それを睨めつけたフジマの声音はさらに地を這っている。
「正攻法を取るにしましても、相手は城攻めの定石以上の人員で押し寄せて参ります」
「がっぷり四つに組んで、気力だけでしのぎ合えるなどと、お気楽に考えてはおらんよ」
 ならばなぜっ、とフジマは王に一歩詰め寄った。
「先ほどの会見で、上手く矛先をかわし時間稼ぎをなさる余裕くらいあったと存じますが? 私にはまるで、青二才の調子に足並みを合わせていた としか思えません」
「信用がないのだな」
「日頃の行状の賜物でございます」
 それともお得意の、煽られてやったフリですか、と黒衣の軍事顧問は顎を上げた。
 華やかな外見に反し存外気の短い性質を持ってはいるが、公然と王を こき下ろすなんて不敬は絶対に犯さない男だ。虫の居所が悪いのか、先ほどの会見の顛末がよほどお気に召さなかったのか。どちらにせよ、世にも 珍しい、王に絡む軍事顧問なんて図式が拝めると他人事でいると、「王騎士長どの」、と妙なタイミングで矛先がセンドウに向いた。「フジマが 揚げ足を取って議論が進まん。なんとかしろ」とはよく言えたセリフだ。だがその嫌味と 軽口の応酬で他の騎士たちの強張りが解けたのは事実だ。実際ミツイなどは肩で大きく息をついていた。
 なのに、
「フジマさんは敵国特使との会見の場に、王妃を引き出されたのが嫌だったんでしょう」
 言って自分でもアレと思うくらい、その柔らなくなった雰囲気に水を差す程の冷たい声だった。助けろと頼られ瞬時に反発した。思ってもみなかった 訳ではない。瞬く間もなく臨界に達してしまったのだ。得意げになって、相手の鼻先に人参をぶら下げるなんて、危急存亡のときを迎えている領袖の 取る判断ではない、と。
「こんな場合、他国に聞き及ぶほどの見目麗しい王妃は、痛し痒しなんじゃないですか? 戦利品のひとつくらいの興味でしかなかったものがあの王子さま、 俄然やる気が出てきましたって顔で帰って行ったでしょ」
「センドウ――控えろ」
「で、我がデミーティアとしてはどうします? 王妃を筆頭に我が妻を娘を――総ての女たちを守るために、蛮勇を奮って自国を守れですか? そう奮い立たせたかった んですか? そのための贄ですか?」
 やばいと思う間もなくツルツルと嫌みが出てくる。後ろめたさからの反動か。それとも、いままでの鬱積の払拭か。どうも前者という気がしないでも ないが、戦というステージに上がれるのは男だけに許された特権でしょうと言いたい建前はあるにせよ、 これでは単なるヤツ当たりだ。
 ここは王妃に終生の愛を誓った騎士のひとりらしく大いに嘆かなきゃならない場面だろうに、サワキタ王子の興味を一身に受け、その視線を 真正面から捉えて微動だにしなかったルカワに苛立ちが募る。勿論、そんなシーンをお膳立てした王にも、だ。
――しかし
 自分でも御しきれない感情の錯綜にマキの浅黒い顔が不敵に歪んだ。
「フジマ以上に的外れな返しだな、センドウ。いったいなにに囚われて目が曇ってしまったのだ。それこそ湖の騎士どのらしくなかろう」
 センドウの背に冷たい汗が流れた。
 ルカワ以上に疲れきっているのは自分の方かもしれない。それでも溢れ出た想いは元に戻せない。どうとでもなれと開き治って、王の出方を窺う。 王の表情にも同じような色があった。
 瞬時に散った不穏な火花に、常ならばそこで必ず矛先を収めるセンドウが落ちた仮面を拾いもせずにただ立ち尽くす。ピシリと、だれの目にも 避けようのない亀裂が見えた大広間にはしわぶきひとつ起こらない。フジマの表情がみるみるうちに強張る。なにがあったか知らない。 知りたくもない。ただ、王も王騎士長も、こんな局面でなにに囚われて互いの立場が持つ意味を取り違えているのか。
 フジマは二人の横面を張り倒してやりたい気分だった。
「まぁ、詰りたい気持ちは分かりますが、それくらいで勘弁して上げてください。実際、麗しの王妃さまを戦の贄として捧げようが後宮深く隠そうが、 城が落ちてしまえば結果は同じですからね。お調子者の我が君は、自らのケツに火をつけておしまいになったのですよ、王騎士長どの」
 そりゃもう、遮二無二働いてくださることでしょうと、カラカラ笑う。陽気ぶって鎮火に向かうフジマの口調も剣呑なものだから、広間の雰囲気は冷えたままだ。 それを受けて続けられた王の声音は、その場を温めるつもりなど毛頭ないと言わんばかりだった。
「では、自らケツに火をつけたが故の下作でも聞いてもらおうか」
 言いようのない底深さを隠した王の表情に、なにを我が君、謙遜なされてと手を打って喜ぶ騎士はひとりもいない。王は己を見つめる騎士たちの 視線ひとつひとつを集めるように、ゆっくりと歩を進めた。
「いにしえより、圧倒的多数の敵に取り囲まれた場合の乾坤一擲として数えられる策が、当然ながらの援軍の依頼と敵の兵站線の分断だ。フジマ。ヴェニドシア (北ウェイルズ)やコーンウォール、サマセットには使者を送ったのであろう?」
「はい。昨夜のうちに早馬を走らせております。兵站線も同一ルートではありませんが、把握しております。ただ、援軍に関してはどう対処してくれる のか。過度の期待は禁物かと存じます。先ほどのセンドウ卿の弁ではありませんが、このような事態の ために婚姻という絆が必要になってくるのでしょう。ヴェニドシア王の婿という立場をお捨てになった浅慮のツケは大きすぎる」
 そんな糾弾にもマキは動じなかった。おまえは、と続けられた王の声はこの場に不似合いなくらいに優しかった。
「おまえは天涯孤独な身だから、余計に血のつながりに拘るのだ。だが、賭けてもいい。かの国たちは動いてはくれんよ。たとえヴェニドシア王の 娘が我が后になっていたとしても、サクセン相手ではだれもが躊躇する。次に狙われるのが自国と分かっていても、連合してことに当たる方法が 一番だと分かっていても、王はまず一秒でも長く己が国体を維持 出来る道を探そうとする。それは取り立ててヴェニドシア王たちが怯懦に塗れているからではない」
 それに、と王は背後の明かり取り窓を振り返り、眩しそうに目を細めた。
「たとえヴェニドシア王が瞬時に兵を挙げてくださったとしても、間に合わぬという場合もある。現にオレはアヤコの国を守ってやることが出来なかった」
「王……」
「アヤコの嫁ぎ先、ゲルトホルム王は縁故など何の当てにならないとオークの森で嘆いておられることだろう」
 常に泰然と存在し続けていた男の、哀しみの根源に触れ固まってしまっている騎士たちをいま一度見まわし、王は告げた。
「そして、もうひとつの策が敵の懐柔」
「懐柔?」
「そのような隙が敵にありましょうか?」
「ある」
 断言したマキの冷ややかな視線がセンドウに当てられた。
「ベンウィックのお父上とは、その後連絡を取り合っているのか、センドウ」



 センドウの表情から色が消えた。フジマは息を呑み、王っと上擦った声を上げたのはアカギだった。 ミツイは何も言えずに王に詰め寄り、ジンの視線は王とセンドウの間を泳いでいる。事情の分からない他の騎士たちにとって、日ごろの寵愛ぶりを 捨て去った王の変貌にただ戸惑うばかりだ。薄々察せられた王妃への恋着が所以か。それ以外の理由があったのか。なんにせよ、この期に及んでの 王と王騎士長の諍いなど見たくはないだろう。
 なによりも士気にかかわる。フジマが諌めようとるすよりも早くマキ王はさらに言葉を重ねてきた。
「ベンウィックのバン王は義に厚い方とお聞きする。自国を憂いそれでも否応なく敵国に身を置く、そのご心情はいかばかりかと」
「袂を別ってからこの方、親交を温める機会など一度もありませんよ。残念ながらね。それはよくご存じのはずだ」
 ならば温めに行ってもらおうかと、まるで遠足にでも行くかの暢気さで、うっすらと哂った王に、フジマの躰は怒りに慄いた。
 この男はひとの皮を被った鬼だ。
「王っ! それはあまりにも――」
「死ねと言っているようなものではないですか……」
「センドウひとりで、いったいどうやって事を成し遂げられるとお思いかっ」
「ならばそのお役目、センドウだけでなく、我が部隊にもお与えくださいっ」
 他の騎士たちが激昂してくれたお陰で、センドウの頭が冷えてきた。冷静になれば見えてくるものと、手繰り寄せなければならないものがある。
 間違いなく王は、センドウとルカワとの関係を疑っている。いや、もう感じとっているかも知れない。まさかルカワが泣きついたとも思えないが、マキ王の 思考経路と行動はいつもセンドウの予想の遥か上をゆく。いままでの会話のやけに棘のある含みは、なにを察しろと言っているのか。
 感づいていたとすれば、こちらの気まずさを逆手に取った、見事としか言いようのない論法だが、単純に嫉妬に狂った顔でも見せれば、まだ可愛げも あるというのに。そんな場面、どれほど長生きしようが、一生お目にかかることはない。
 いや、嫉妬はあるだろうと、センドウの思考が一巡した。掌中の珠とは文字どおりの意味だ。いつまでも己が掌の中で慈しんでいたい。オレのものだと 言い放った言葉はただのアヤではない。一線を越えないだけのギリギリの端境。
 越える越えないは、想いの深さが所以ではないとセンドウも知っている。
 では、王の真意はどこにある。
 まず、どこに敵の目があるかも分かったもんじゃない。敵国の草の目を意識しての道化芝居ならば、ここは盛大に仲違してセンドウの寝返りを演出する場面だ。 だが、そんなお安い手にあの王子が引っ掛かるはずがない。間違いなく、投降した瞬間にセンドウの胴と首は泣き別れになるだろう。では策を弄さずに、 父親とはいえ、敵国の将帥にどうやって会見を持てと。
 どうやって相手を油断させろと。
 なにがフェイクなのか。だれを騙そうとしているのか。どれがフェイクに見せかけての真実なのか。実際はどの戦略を狙っているのか、掴めない。 掴めないながらも、あ、そうか。オレは信用されてるんだ、と瞬時に理解して、哂いが出た。
 それも特大の親愛だ。
 センドウに余裕が戻る。
「王のご命令とあらば、どんな窮策でも死線をかい潜り、作戦を遂行させるのが騎士たるものの務め。で、運よく、父と再会できたとしましょう。 現状を冷静に鑑みて、オレがそのままあちらに留まったらどうします?」
「ソールズベリには、おまえが終生の愛を誓った唯一の貴婦人がいたのではなかったか?」
「いますね。だったらドサクサに紛れて王妃を奪って逃亡という手は?」
「そのままサクセンに投降すれば、王妃はあのクソ生意気な王子のものだろうが」
「だれもサクセンに降るなんて言ってませんよ」
「では、どこへ行こうと言うのだ」
「国も身分もなにもかも捨てて、愛の逃避行」
「世迷言だな」
「そう捨てたもんでもないと思います」
 受けてセンドウはクスクスと笑った。そんな未来があってもいいなと思う。けれど、ルカワじゃなくてもだれもついて来てはくれない実態のない 霞のような未来だ。一度言ってみたかっただけです、と胸に片手を置いて一礼し、センドウは続けた。
「ひとつお願いがあります。やはりここは王妃さまを私にお預けくださいませんか?」
「手土産とする気か?」
「どうせならもう少し、敵の鼻先にニンジンを近付けた方が効果的だと思います」
「センドウ、貴様っ。一国の王妃を撒き餌扱いするかっ!」
――撒き餌か。それは言えて妙だなとセンドウは思った。生きるも死ぬもまさにその一点に尽きる。サクセンが王妃に拘れば拘るほど、身動きが 取れなくなるのだ。
「落ち着いてください、アカギ卿。王が掌中の珠を惜しげもなく敵の眼前に晒されたんだ。身を切られる思いの丈は、我々のそれを凌駕しましょう。 だから王のお覚悟を受け止めて戦術レベルにまで引き上げる。オレと王妃のふたり連れならば父も、そしてその背後で成り行きを見守っている 王子も油断するというもの。その状況で父に会見できれば第一段階は突破だ」
「パン王にお会いして、そのあとどう説得するつもりだ?」
 マキ王は黙って目を閉じていた。落ち着きを取り戻し、そう問うてきたのはアカギだ。
「さて。どうしましょ」
「さてっておまえ」
「父はオレとは違って一本気な性格でね。王としてのプライドよりも、たとえサクセンの属国になり果てても国の存続を優先させた。その父にいまさら 祖国を取り戻しましょうと持ちかけても同意するとは思えない。それよりも、そんな提案はあのときの父の苦渋の決断を踏みにじる行為でしかないんです。 オレにはできませんよ」
「ならば、いったい――」
「懐柔は無理です。でも相手の懐まで潜り込めたら、うまくいけば王子の首級くらいは上げられるかもしれない」
 場がざわめいたのと同時に、木造りの扉がギシリと泣きルカワ王子が姿を見せたのはちょうどそのときだった。なんでこのタイミングでとセンドウは 小さく舌打ちをする。青白い顔をして立っているだけでも辛そうなのに、なぜ戻ってきた。取り決めが終わって、何事もなかったように やり過ごそうと考えていたのに、計算違いもいいところだ。
「敵将の首を狙える距離に近づく前にお前の躰が八つ裂きにされてしまうぞ」
 ルカワの入室に気を取られていたアカギが話を戻した。
「それでも――敵陣営を混乱に落とすくらいの効力はあるんじゃないかな」
「そのような捨て身の戦法しか残されていないのか」
「無茶だ……」
「そうですか? でも王はそう望まれていますよ。なにせオレはこの場で唯一の他国人ですから」
 無言をとおしているマキ王にセンドウはチラリと視線を合わせた。王は是とも非とも答えを返さない。ことここに至ってアカギも気づいた。 センドウの自嘲ぶりとマキ王の無慈悲さがあまりにもらしくないのだ。強い齟齬を感じるわけは、ふたりの気が四方に散っているからだ。では、センドウは いったいだれに向かってこの作戦を説明しているのか。だれの耳を気にしているのかと。
 アカギはフジマの視線を捉えて、目で問う。この広間に、叙勲を賜った自国の騎士数十人が集う間に、敵国の草が紛れ込んでいる可能性を。察した フジマは小さく首を横に振った。否定の答えではない。可能性はゼロではないと言っている。
「本当に帰って来るのだな、センドウ」
 アカギは腹の底から絞り出すような声を出した。センドウはわざと返事をしなかった。
 ルカワの、痛いほどに強い視線を浴びていたからだ。



 散会の言葉と共に王が足早に退出してゆく。それをフジマが追い、アカギたち王騎士も倣った。他の騎士たちも口数も少なく散り散りになる中、センドウ とルカワだけがその場に留まっている。厄介だなとセンドウは重い嘆息をついた。状況を少しも理解していないこの王子さまは、きっと 自分の納得のいく答えを欲しがる。それが一番労力を使う。実際、ルカワを説得している暇はないのだ。王やフジマとの間にまだ細かい取り決めを行って いない。
 なのに。
「本当に王妃を連れてくつもりか?」
 と、ルカワは一歩踏み出し単刀直入に問うてきた。困りながらもセンドウはその腕を掴み壁際まで引っ張って行った。大広間のど真ん中で交わして いい会話でもない。
「オレはもう二度とあんなカッコしねーぞ」
「分かってる」
 言ってセンドウはルカワを壁に縫い止めた。吐息が触れるほどの近さで相手の瞳に見入り、不意にけさ方の情火が蘇る。ルカワの怒りとセンドウの 脅えが交錯した。そのベクトルの違いに気づいて、センドウは身を引いた。精神衛生上、これ以上近づくべきではないだろう。
「身代わりを立てるんだよ」
「だれを」
「おまえの背格好によく似た、従騎士のだれか――だろうな」
「なんで、んなまどろっこしいことする。ふつーにオレにしとけ」
「他国の王子、いや王をそのような危険な場所へお連れするわけにはいかないんだよ」
「じゃ、そのオレの背格好に似た従騎士はいいのか」
「国の存亡がかかってるからね」
「カーマライドとかデミーティアとか関係なく、オレだって一端のブリトン人だ。そういう括りはできねーのかよ」
「王がお許しにならない」
「マキの許可なんか必要ねー」
「オレが嫌なんだよ。おまえひとり、なにがなんでも守ってやるって、絶対に言えない」
「だれが守ってくれっつった」
 センドウがつくった隙間なんか気にするふうでもなく、ルカワは彼の襟首をねじり上げた。
「てめーはてめーの立場だけ考えとけ。オレはオレの責任を全うする。てめーが立てた作戦に一番必要なのは誰だ。オレじゃないのかっ」
「ルカワの責任うんぬんを言うなら、おまえの立場も考慮に入れろ。『トロイの木馬』みたいに敵の懐深く入り込む作戦の囮に、ホンモノの王を 同行する馬鹿がどこにいる」
「バカじゃねーの」
 ルカワは薄く哂うと不敵に口の端をつり上げた。
「なんだって?」
「だってそうだろ。生きて帰ってくる可能性、捨ててんじゃねーか。戦闘力と確率と足し算の問題だ。てめーの言う身代わりはオレより強いのか。 オレより下回ったら、それだけ生還出来る確率が低くなるんだぞっ」
 センドウは目を見張った。ルカワの口からこんな長いセリフ、初めて聞いたかも知れない。王位を嫌い厭だとごねながらも、色々な人物に影響を 受け成長していく姿が――こんな状況であっても微笑ましい。ちゃんと大局を見据えようと、自分らしくあろうと、彼は彼なりに足掻いているのだ。
 じゃ、オレはおまえのどの位置を占めているんだろう。センドウは両の掌でルカワの頬を左右から挟んだ。襟首にあったルカワの手が力をなくし、 代わりに漆黒の瞳がまっすぐにセンドウを捉える。毅然と睨み返す沈黙すら、愛おしさが募る。それは、揺るぎない、確固たる信念を胸に抱きつつある 者に対して、余りにも不釣り合いな感情だった。
「オレとおまえとじゃ、どうしたって相容れない部分がある。オレの敵はサクセン。だからどんなに無理でも命を賭してでも、遂行しなくちゃならない。 けど、おまえの敵はアイルランドだろう。サクセンじゃない。こんな場面で命を危険に晒しちゃだめなんだ」
「いまここでサクセンに滅ぼされちゃ、アイルランドどころじゃねー」
「これは小手調べの戦だ。壊滅させようとは相手も思ってない」
「どっから湧いてくんだ、その自信」
「理由はあるさ。まず、作物の収穫できないこの時期の進軍。現地調達もままならない。だから兵站線を断ってしまえば本国からの物資の供給が滞る。敵は四万の大軍だ。 戦闘が長引けば食糧不足で士気が低下するのはサクセンの方なんだよ」
 その場限りの言い逃れもいいところの詭弁だったが、そう大きくは外れていない気がしてきた。けれど楽観視はしない。糧秣補給を 気にする必要のない短期決戦に出られたら太刀打ち出来ないからだ。だから、とセンドウは口づけするほどの近さで囁いた。
「おまえの力が必要になるのはむしろ、兵站線を断つ戦闘の方だ。機動力がものを言うからな」
「イヤだ」
「またお得意の科白が出たな」
 ちょっと成長したと思えばすぐそれだ、とセンドウは小さく笑って、昔話でもしようかと続けた。
「オレの故郷のベンウィックは、ブリテン島とドーバー海峡を挟んだフランク領の一部でね。父はユーサー・ペンドラゴンと昵懇の間柄だったから、即位 間もないころのマキ王の後ろ盾になったりと、ブリテン島統一に関して並々ならぬ尽力を尽くした立派な方だったよ。勇猛果敢で情に厚い。理想的な 領袖であられた。四年前、おまえに出会うほんの少し前、ベンウィックはサクセンの猛攻を受けた。それは見事な強襲で身動きが取れなかったとき、 マキ王はすぐに海峡沿岸部まで援軍を差し向けてくださったよ。けど、その当時のマキ王だって、アイルランドへの牽制で首都ソールズベリをカラに するわけにはいかなかったんだ」
「だから、なに?」
「もうちょっとだから聞きなさいって。えっと、そうそう、父はオレの誇りだった。あれは虚を捨て実を取る英断だった。 裏切り者と臆病者の誹りを受けても、領民のために国を滅ぼすのは忍びないとサクセンに膝を折るなんて、なかなか出来ることじゃない。 けど、しばらくして前サクセン王の妾腹の姫とやらが、母が正妻がいるにも関わらず嫁してこられた。 父は講和のためにそれも受けられた。けど、オレを産んだ母の祖国は、そのサクセンに滅亡させられたんだ」
「……」
「身の置き所をなくした母は、ほどなく尖塔の上から身を投げたよ」
「センドウ……」
「だからオレは、国を出奔した。父以上に臆病者のオレは父への憎しみで塗れてしまう前に逃げ出したんだ」
 余りにも近くにあるセンドウの瞳が薄ら暗く光る。それに気を取られ、ルカワは頬に添えられていた右手が外された事に気づかなかった。 ぽっかりと空いた空洞。薄ら寒さを感じる。外されたそれが一度頬に戻り、親指が緩やかな軌跡を残す。何度も何度も頬を撫でていた指が消えたと 気づいた瞬間――
 肩を起点に後ろに振り上げられたセンドウの右手は、拳となってルカワの腹部にめり込んでいた。
「ぐっ、あっ――」
 衝撃で背後の壁にぶち当たった。吐き気と同時に膝が戦慄く。傾ぐ躰。襟首にあったルカワの手がもう一度縋りつこうとするが、彼のチュニックに 皺を刻むことしか叶わず、支えを失ってズリ落ちていった。
「て、めー……」
「父上に再会してしまうと、オレ、きっとカッコ悪く取り乱しちまうよ。んな姿、おまえに見せられないだろ」
 壁に背中を預けしゃがみ込んだルカワの肢体が崩れ落ちた。その拍子に投げ出された指先に、片膝をついたセンドウが手を添える。触れられ流れ込んで くるのは慈しみの情なのに、途切れる意識の下、聞きたくもない言葉が呟かれた。
「さようなら、ルカワ」
 愛してるよ、と。
 それを無理やり聞かせる男の傲慢さと、気を抜いた己れの間抜け具合に歯噛みする時間すらなく、ルカワの意識は途切れていった。



 ゆっくりと立ち上がるとセンドウは、二度と振り返ることもなく足早に大広間を出て行った。絶望的に時間がない。束の間の逡巡ですら、総ての苦悩 が無に帰す。途中、哨戒役の小姓にアヤコへの伝言を頼み、センドウはまっすぐに王の執務室へと向かった。その場に居たのは王とフジマのふたりだけ だった。おそらく、他の王騎士たちはすでに作戦の指示を受け、出立準備のために散って行ったのだろう。
「御前を辞する許可を頂きに参りました」
 入室するなり膝をついたセンドウは、頭を垂れて静かにそう告げた。決意の速さと潔さに、さすがのマキ王も二の句が継げないでいる。王の 傍を離れ一歩近づき重い静寂を破ったのは、その意を汲み取ったフジマだった。
「ミツイ卿とジン卿の二師団で敵の兵站線をぶった切り、他の師団にはソールズベリを護って頂くことになりました。ミツイ卿たちの出立から目的地 撃破まで一両日。その期間、耐えて頂ければ、ソールズベリに待機していた師団を総動員し、サクセン軍の排撃とセンドウ卿奪取に取りかかる。そういう手はず になっています」
「一両日ですね」
「そうです」
 フジマの必要以上に丁寧な口調が作戦の困難さを物語っていた。二箇所の兵站基地を同時に叩く作戦で、その兵力と期日で可能なのかという 当然の杞憂は捨て去ることにした。いまは他の騎士たちの手際を信じるしかない。
 センドウはすっきりと顔を上げた。
「我が君にして、ブリテンをしろしめす無二の王に、トゥアハ・デ・ダナーンのご加護がいつまでも続きますようお祈り申し上げます。 君の英知はサクセン王の比ではありません。君の栄誉と名声と恩寵があまねくこの島に行きわたり、ブリトン人による治世の永遠を願っております」
 すらすらと言祝ぐと、総ての感傷を引きちぎるようにセンドウは立ち上がった。そして告げる。
「まだ本人の許可を取り付けていないのですが、サクラギの同行をお許しください」
「カエデの身代わりに、か?」
「そうです」
「あちらの方がかなりゴツイようだが?」
「なに、変装させりゃ、分かりませんよ。父はカエデ王妃をご存じない。要は兵站線撃破が明るみになった後の逃走の際の戦闘力です。ルカワに 匹敵するほどの機動力と瞬発力を持つ従騎士はアイツくらいしか思い浮かばなかった。 膂力に至ってはサクラギの方が上ですしね。無事に帰還しましたら、叙勲、叶えてやってくださいね」
「よりによって、サクラギが身代わりとはな。後で知ったルカワ王子の怒り狂うさまが目に浮かぶ」
「それを宥める役目はマキさんでお願いします」
 マキ王はフッと目を細めると、隣の王子の部屋へと視線を送った。バタバタと何人もが駆け抜ける沓音に混じって、アヤコの声がする。
「ルカワ王子はどうした? 食ってかかられたんだろ」
「えっと、あの後、気分が優れないご様子でアヤコさんに看病を頼みました」
「ほぉ、なるほど。気分がね。で、気づいたときには手遅れか。これはもう怒り狂うどころじゃ済まないな。館のひとつくらい、持っていかれるかもしれん」
「大丈夫ですよ。彼もいつまでも子どもじゃいられませんから」
「それをおまえが手助けした、と」
「滅相もない。彼の成長を見守っていただけです」
「どの口が言う」
 クスリと笑った王は――ルカワに何をしたとは絶対に口にしなかった。センドウも答えない。聞かれたところではぐらかす。それは支えなければ ならない王としての矜持だからだ。
 では急ぎますので、と踵を返したセンドウの背中に、のんびりとした声がかかった。
「ひとの機微に敏感で聡いというのも考えものだな」
「――なにを」
 仰ってるんですかと、センドウは振り返る。振り返った先、死地へ赴く騎士に向けるとは思えないほどのひとの悪い笑みを張り付けた王の顔が あった。
「卿ならばあの場での雰囲気を正確に理解するだろうと思っていた、という意味ですよ」
 聡すぎるが故の貧乏くじです、と剣呑な瞳を向けたセンドウに、代わって答えたのはフジマだ。
「説得は無理だと先ほど仰ってましたが、卿とてただお会いしたいでしょう、パン王に」
「運よくお会いできたなら、よろしく伝えておいてくれ」
 マキ王の言葉にセンドウは目を見開いた。
「と、天の邪鬼な我が君は卿に詫びを入れているつもりらしいです、これでも」
「マキさん……」
「パン王うんぬんを抜きにして、この過酷に過ぎる使命は卿がいなければ別のものになっていたことでしょうから」
 フジマは王の傍まで戻ると壁に立てかけてあったひとつの盾を手にして、センドウの前まで進んだ。プリウェン―― 聖処女の絵姿を描いた煌びやかなそれは、マキ王の逸品のひとつだ。
 下賜された盾をセンドウは片膝をついて受け取った。
「そしてわたしからはこれを」
 と、フジマが差し出したのは、オーク(樫の木)に宿る神聖なるやどり木の枝だ。
「典礼に法り期日を決めて手折ったわけではありませんので、聖性が失われている可能性がありますが、呪符ほどの足しにはなるかと」
「酷い僧侶があったもんですね」
 クスクス笑うとセンドウは受け取った枝を腰ひもに吊るしてある携帯袋の中にしまい込んだ。気づくと、いつ執務机から離れたのか、驚くほどの 近さにマキ王の姿があった。
「なにもかもがつけ刃の出たとこ勝負のような展開だ。だが、おまえとサクラギは我々が全力で守る」
 だから――と王はさらに顔を近づけ、
「その盾は父王の形見なんだ。傷ひとつつけるなよ」
 無理難題を平気で押しつけてきた。
「いつもの調子でのらりくらりと敵をケムに巻いて、さっさと帰って来い。オレにあの乱暴者を押さえつけておけとは、職務怠慢にもほどがあるぞ」
「御意」
 センドウは深く叩頭した。



 ルカワは目覚めた。途切れそうになる意識を無理に引き戻しての覚醒だったから目覚めは最悪だった。いったいどれほどの時間を無駄にしてしまった のだろうと、部屋を見回しても、館内はひっそりと静まり返ったままで、彼の疑問に答えてくれるものはいない。まっすぐに起き上がることすら出来ず、 肘で支えて横回転し、勢いを殺せずに寝台からドサリと落ちた。満足に受け身も取れず背中を強かに打ちつけて、泣き面に蜂とはまさにこのことだ。
「くっそぉ」
 よくも本気で殴ってくれたなと吐き捨てた。せり上がってくる胃液の苦みに顔をしかめながら、どうにか立ち上がる。水差しから直接水を含み真鍮の ボウルに吐きだした。怒りも過ぎると全身が痛いのだと知った。慈しみという名の労りが、いまは尖り矢となって身を苛む。鳥籠に囲われて 庇われて、いったいどこの騎士が喜ぶと言うのか。王子だとか王だとか、後方で真綿に包まれて生き永らえる地位など、絶対にいらない。
 もう一度水を含んで今度は飲み干した。まだ間に合うかも知れないという想いだけで、ルカワは躰を引きずるように自室を出た。
 王の執務室にマキ王はひとりでいた。山積みの書類と格闘していた彼はルカワの入室に驚いて目を上げた。執務室の、中庭に面した開けっ放しの扉 から差し込む真昼の日差しに目が慣れない。陽の位置がこの高さだと、あれからの経過は二、三時間というところか。ルカワは目算をつけて王に近づいた。
「エラく満身創痍だな」
「あのバカ、本気で殴り倒して行きやがった」
「それはそれは。深い愛に包まれているではないか、カエデ」
「んなんを愛だとかぬかすあんたらの根性が理解できねー」
「それを無碍に突っぱねるおまえがお子さまだという事実だ」
「なんでオレだったらダメなんだっ」
 ダンっと机に両の拳を叩きつけてルカワは叫んだ。いまからあのバカを追うとの申し出は、許可が欲しかったわけではない。ただの宣戦布告だ。 だからそのまま出て行こうとする背中にマキ王の重い声がかかった。それはルカワの足を止めさせるに十分な重さだった。
「おまえはおまえの立場を明確にしていない」
「立場?」
「おまえはいったい何者だ?」
 カーマライドの、と言いかけて頭の中が真っ白になった。そんな国、いまはない。アイルランドに攻め滅ぼされた国の名だ。おまえは間違いなく カーマライドの王だと言い切ったセンドウは、ルカワの精神的な寄る辺を示そうとした。それより以前マキ王は、ルカワの無念と少しの時間を預からせてくれ と言った。
 いま何者だと問われれば、亡国からの食客といったところか。どこにも属せずだれにも忠節を誓わず、束縛がない代わりに責任もない。だから なんの手段もない。マキ王にぞんざいな口を利いていられるのは、まったく別の理由からだ。明確な立場。ルカワが厭い後回しにしたもの。 センドウが押しつけようとしたもの。
 後回しにしたもの。
 薄く紗のかかった視界がゆるゆると晴れてゆく。
 そう。カーマライドを取り戻すには時間がかかるから。
 いまはこの国を守らなければならないから。
 カーマライド人としてではなく、ブリトン人として。
 オレは王だ。
 けれど、いや、だから。
 祖国のことはいまは捨ておかなければならない。
「マキ」
 いや、マキ王と言い換えてルカワは王の前に傅いた。
「いますぐ、儀式をやって、あんたの騎士に封じてくれ」
「いまか?」
「略式でいい。時間がねー」
「騎士見習いの分際で、こんなにエラそうな叙勲拝命者もおらんだろう。しかもおまえは叙勲に値する働きをしていないが?」
「これからする。前借りだ」
 真剣な眼差しで詰め寄るさまに、吹き出しそうになるが、マキ王は懸命に耐えた。なにかに突き動かされて、これでも最良の策を模索中なのだ。
「ったく。これまでのような勝手気ままは通らないぞ。上意下達は当然だ。理不尽だろうが総ての命令に服する覚悟がおまえにあるのか」
「あります」
 本気、なのだろう。取りあえずその一点だけは信じられる。マキは自らの愛剣エクスカリバーを抜き払ってルカワの前に戻った。
 祭壇もなければフジマもいない。それでも王は短い祈りを捧げ、差し出されたルカワの項から肩にかけて愛剣をかざし、剣の峰で三度打ちつけ、 略式の叙任式は終了した。
「では、我が騎士ルカワ王子に最初の使命を伝える。いますぐセンドウを追うことは許されん。もうすでに作戦は始動しているからだ。おまえは アカギの師団に組み込まれ、ミツイたちの作戦成功の報を聞いたのち、センドウたちの救助に向かえ」
 ハッと弾かれたように瞳を上げ暫くの逡巡のあと、ルカワは小さく承諾の旨を告げた。「御意」などど、本当にらしくない言葉を。そしてそのまま踵を 返す背中にマキ王は声をかけた。
「オレの騎士となったおまえの望みはなんだ」
 立ち止りルカワは反身を返す。剣呑さを隠そうともしない強い視線は騎士に封じたところで隠しきれるものでもなく、
「あの野郎の顔面を一発殴って、サクセンを退けて、カーマライドを取り戻す」
 その答えを引き出せて安心しているマキ王がいた。
「いいだろう。この際だから、オレの分も合わせて二発にしておけ」
「分かった」
 言い捨ててルカワは出てゆく。勇猛なるダーナの裔にさらなる加護を。その背を見送り急に殺風景になった執務室で、山積みの書類の前に戻る気になれないマキ王は、まだ風冷たい中庭に 出た。実戦さながらの演習の流れから、ミツイとジンの師団はあり得ない早さで出立を済ませている。いまはその吉報を待つだけのもどかしさを 抱えて、アカギ・ハナガタの両師団はひっそりとうずくまっているのだ。
 兵站線襲撃の報はすぐにもサクセン側に知れるだろう。サクセンの出方が早ければ、ミツイたちが戻るまでもなくマキ自身が出撃する つもりでいた。言い切ったのだ。センドウたちを守ると。その祭には、アカギの師団を引き連れて行かなければ、一生あいつに恨まれてしまう、と 笑んで王は自らを戒めた。
 どうやってもあれには甘いようだ。
 執務室からフジマの呼ぶ声がする。一陣の風がリラの紫色の花弁を揺らした。それを見送ってマキは戻る。散ってしまわぬようにとは、これから 大地を血に染め命運をかける者の感傷ではない。ただ、と思う。知力と死力の総てを動員し、最大の危機を回避してきたつもりでも、新たな波は次から 次へと襲い来る。これは長い戦いの序章にしか過ぎないのだ。
 ブリテンのものをブリテンに帰する。
 当たり前の希求を叶えるために、生ある限り駆け続けてゆく。心をひとつにした彼らと共に。
 生ある限り。






end








ビバ仙流の日! 一日遅れ!
ようやく終了しました。こんなダラダラと時間がかかったシリーズにたくさんの 拍手とお言葉ありがとうござました。
楽しみに待ってるからと言われて、励みになりました。なのに全然進まなくって、申し訳ない限りです。
お話としてはこれからなんですが、ルカワの決心をひとつの区切りと最初から考えてましたので、ここでエンドマークを見ました。 最後まで読んでくださった方には心からの感謝を。
次は楓ちゃんシリーズを書きたいな〜と