Jesus!
〜あのヤロウに神の鉄槌を







 あれからどうやって家まで帰り着いたのかほとんど覚えていない。
 いつもは寝ぼけながらアチコチにぶつけたりしてるマウンテンバイクに新たな傷はなく、怒りのために 障害物を避けて一直線にこいで帰ってきたんだろう。やれば出来るんじゃないという母親の声が聞こえて きそうだった。
 その代わり、駐輪スペースへと向う際、その前にデンと鎮座ましましている父親の外車にハンドルを引っ掛け、 倒れようがお構いなしに自転車を放置すれば、閑静な住宅街にあっては結構な物音がする。
 勢いよく玄関を開け放つとリビングから飛び出してきた母親とかち合った。
「なに乱暴に扱ってるのよ。買ったばかりでしょ、あのマウンテンバイク。もっと大切にしなさい」
 だたいまも告げずに自分の部屋へ消えようとするひとり息子の不機嫌さに溜息をついた母親は、母性の成せる 技で聞いてきた。
「こんな時間までまた練習?」
「……」
「クラブの練習が休みならちょっとは勉強なさい。いくらバスケが出来てもね、赤点ばかりだと試合に 出させて貰えないんでしょ」
「してる」
「嘘ばっかり。そんなことを続けてるとね、卒業も危なくなってくるのよ。高校も満足に卒業できないような子に、 アメリカなんて語る資格ないんですからね。で、ご飯は?」
「食った」
「どこで?」
「友達んち」
「友達ってだれ? あんたに晩御飯をお相伴に預かる友達なんていたの?」
「うるせー」
「楓!」
 踏み抜く勢いで階段を駆け上がり、叩きつけるみたいに扉を閉めた階下から、あなたがなにも仰らない から楓があんなになるんじゃないですか、と父親を詰る母の声を聞いた。流川はもう一度うるせーと 呟くとベッドにダイブして頭から布団をかぶった。
 どいつもこいつも。
 シンと静まり返った自分の部屋。
 母を宥めているであろう父親の穏やかな声はこれで聞こえなくなったが、お陰で先ほどのあのヤロウの ヒソリとした声と、押し当たられた生温かいものの感触が一気に思い出されてしまった。
「くそっ!」
 バン――と枕代わりのクッションを扉に向って投げつけるが、それほどの衝撃は与えてくれないし、このモヤモヤ した気分を払拭してもくれない。
「ヤロウ、ふざけやがって!」
 ムカツク。ムカツク。ムカツク。
 うつ伏せのままイヤイヤをするみたいにシーツに顔をこすり付けて、あの感触を捨て去ろうとする。けれど もそんなことをしても、シーツに擦れてジンジン痛いだけで、消えてなくならない。
 流川は暑苦しい布団をはいで仰向けに体勢を変え、手の甲をそこに押し当てた。
 毒に犯されたためにきっとタラコみたいに腫れ上がっている。触れたものを溶かし焼き尽すみたいな 強酸性の毒。痺れが残っているのはそのせいだ。
 熱が上がったみたいに熱いのもそのせいだ。
 戸惑ったような困ったような焦ったような、でも蕩けるような視線で見つめられ。
 ムカツク。
 寝転んだら追いかけるみたいにヤツの両肘が降りてきて。
 一、二発じゃ収まらねー。
 気づいたら伏目がちの仙道の瞳が小さくなにかを語りかけていて。
 次の瞬間なにかがスパークした。
 流川はすっくと上体を持ち上げた。
「仙道のヤロウ。ぜってーぶっ潰す!」
 己れの貧困なボキャブラリーは棚に上げておいても、やはり言葉はそれしか出てこない。
 そうとしか言えない。
 流川は気炎を上げた。
 この借りは百倍にして返してやる。と言っても逆に押し倒すという意味ではない。その辺りの報復手段を 間違ってはいけない。ぶっ潰してひれ伏すのはコートの上にだ。顔が変形するくらいにボコっても、 大したダメージを与えられないだろうし。
 そうなるとバスケの勝負でしかない。ボールを見るのも厭なくらいに打ちのめして、立ち上がれなくしてやる。 ヤツのプライドはズタボロ。ウインターカップで陵南は腑抜けたエースで戦わざるを得ない。湘北にとっても 流川にとっても万々歳だ。
 よし、完璧。
 と、流川は少し首を傾げながら握りこぶしを掲げた。



「先輩ちょっと、相手してほしーんスけど」
 翌日の部活終了後、新キャプテンの宮城と三年生ながら冬まで残った三井とが打ち合わせをして いるところに、珍しく流川が割って入った。いつもは黙々と個人練習に励む流川に、
「どーいう風の吹き回しだ?」
 とスカシた顔をしたのは三井。自分と三井を指差して、どっちにと聞いてきたのは宮城だった。
「出来ればふたりまとめて」
「あ?」
「流川、てめえオレら舐めてんだろ」
「違う。ディフェンス、よえーから」
「弱くもねーだろうけどよ」
「どーしても止めたいヤツがいる」
 切羽詰まった様子にふたりは同時に顔を見合わせた。
 以前仙道に言われた言葉が蘇る。
――流川の課題はディフェンス時に途切れがちな集中力と体力だけど、これをオフェンス並みにやられちゃあ、 立つ瀬ないな。
――集中、切れてねー
――うん。切れてはないと思うよ。これもオフェンスに比べたらの話だ。意識の違いだな。ディフェンス だって攻め気だろ。死ぬ気で止めてみろ。
 止めてやらあ。
 流川は三井にボールを放り投げた。
 やれやれといった感じで三井は、ゆっくりとそれを手に馴染ませるようにドリブルを繰り返す。腰を 落としてそのタイミングを計る流川の怒気の先になにを思い描いているのか。
 夏のインハイ神奈川県予選でベストファイブに選ばれたルーキーは、生半可なフェイクには引っかからない。 流川の上を抜くと見せかけて足元に叩きつけたボールは、片手を挙げて上の軌道を防ぎながら、くるぶし近く まで下げられた右手に阻まれた。一度小さいジャンプを入れながら、腰を落とすという正反対の動きにも、 鋭さは失われていない。
 三井は高い口笛を吹いた。
「三井サン、なにやってんスか。んな生意気なヤロウの鼻っ柱叩き潰してもらわにゃ困りますよ」
「るせー」
 その途端――宮城の揶揄る言葉で隙を見せた流川の顔の横を掠め、オレンジ色のボールは宮城の腕に収まった。
「ちっ」
「おーさすが老獪」
 ボールを受け取った宮城は、低いドリブルを繰り返しながら流川を呼び込むように人差し指をクイクイ と曲げる。その挑発を流しながら、宮城の右手とフロアとを行き来するボールの動きが、コマ送りのような 視覚で捉える。不思議な高揚感があった。
 いかに仙道と言えど、宮城の腰の低いドリブルはそう簡単に防げない。三井ほどの正確無比なスリーポイント を持っている訳でもない。けれど集中力を見せたときのパス回しと、どんな窮地に陥っても周囲を纏める 統率力と、研ぎ澄まされたゲームメイクとそして、ここぞというときに見せる爆発的な得点力との統合は、 他の追随を許さない。
 あれほどバランスの取れた選手はどこにも見つからなかった。
 だから唯一天才という名を冠している。
 流川は背後の三井を背中で牽制する。左に走るのか手前に折れるのか、その気配と同時に宮城の視線の動きを 見据えていた。来ると判断するよりも半拍早く三井のシューズがフロアを蹴った。
 外されたタイミングでノールックから出されたそのボールをキャッチすることは叶わず、それでも指先ほど に引っ掛けて弾き、転がるボールに三井より早く食らいつき、唖然と固まる先輩たちを見上げて彼は思い至った。
 そう。
 もう一人いた。
 神奈川の帝王が。
 湘北いちのスピードを誇る宮城を抜き、赤木の体当たりを弾き飛ばす怪物が。
 タイプは違う。けれど神奈川県予選常勝軍団を率いたあの男は、『日本一』に一番近い場所にいた。
 流川はあるかなしかの笑みを浮かべ、取り戻したボールを宮城に放り投げ、そして「あ、した」と、 一応の礼を送り二人に背を向け、体育館を後にする。その背後に先輩たちの罵声が響き渡った。
「てめ! 流川! 先輩舐めんのもいい加減にしろ!」



 当然あれから土日がやって来ても、次の土日が巡って来ても流川には会えなかった。無理だろうなと 思いつつも仙道の重い足は例のストバスコートへと向いてしまう。そこに鮮やかなあの姿はなく、溜息なんか つかないようにその場をあとにする。
 ほとんど日課のようになっていた。
 教えてから二、三度しか鳴ったことのない彼の携帯は、ここぞとばかりに欲しくもない知人の名を 否応なく伝え、軽快にメール受信音を鳴らし、彼が待つ『公衆』表示が示されることはなかった。
 ウインターカップを控え新チームの主将になった身でありながら、どこか取り落としたような日常。 無論、力は抜いていない。ひしめく強豪たちを相手に二年生だけで迎え撃たなければならない陵南だ。 最上級生が総て残る翔陽。帝王牧と高砂を残した夏のインハイ全国二位の海南大附属。そしてその日へ 向けて仕上げてくる桜木を加えた湘北。
 どこが勝っても可笑しくない激戦区なのだから。
 一瞬足りとも無駄には出来ない。
 なによりもアイツが許さない。前を走る存在であり続けると盟約したあの男に、と仙道はフリースローライン からゆっくりとスリーポイントを決めた。
 空を描いている時間が長い分、そしてフリーで打てる確率が高い分この練習は集中力を要する。 まるで禅の修行のようだと、そういった精神論が嫌いな自分に自嘲しながら、なんどもフォームを 確かめた。
「さすが仙道さん。きょうも調子エエみたいですね。近頃遅刻もしはらへんし、率先して居残り練習してはるし、 越野さんなんか、天才に主将としての自覚が出てきたら、無敵やって言うてはりましたわ」
 関西出身の彦一が一息ついたのを見計らったかのようにタオルを差し出し、顔を綻ばせてきた。ここ 一週間ほどの心情を裏返したような真面目っぷりは、いいように解釈されていたようだ。少し安堵して仙道はその タオルを手に取った。
「珍しいんちゃいまっか。仙道さんがフリースローの練習してはるとこなんか初めて見た気がします」
「ん。そっかな。なんか落ち着くんだよな、これ」
「仙道さんほどのひとでも、心乱されることなんかあるんですか?」
「おまえね、そりゃ、あるよ。オレだって」
「冬の大会が目の前で、神奈川の四強、がっぷり四つに組んで凌ぎを削り合いっちゅうとこでんな。夏の雪辱は 早いとこ晴らさなあかん。いまから予選が楽しみですわ」
 新主将としてのは展望はどうですか、と一直線な後輩は好意的に解釈してくれたようだ。それを否定するのも 忍びない。
「どこも厳しいよ。翔陽はインハイ予選の雪辱体制で気合入りまくりだし、海南は牧さんが残ってるし、 赤木さんが抜けたからって湘北の底力は計り知れないし。福田は相変わらずディフェンス弱いし。 植草の頭は触り心地悪いし。監督に任せておきゃいいのに越野はセンターラインをどーすんだって口煩いし。 彦一はなかなかレギュラーの一角に切り込めないし。夜も眠れないってこのことだよ」
 越野さん。あんなこと言うてはりますよー、と彦一は自分のことは棚に上げ、体育館の入り口付近で仲間と だべっている越野に告げ口をするように振り返った。ほんとのことじゃん、と仙道はふんわりと笑う。
「またまた。そんな目尻下げてても試合になったら顔つきガラっと変わらはるからなー。仙道さんがどこまで悩んでるなんか、 こっちが計り知れませんって。夜寝られへんのは別の原因ちゃいますの」
「ひこいち〜。おまえも言うようになったな」
「ハイ。ワイらの想像を遥かに越えた大物の仙道さんのことやから、真剣な顔してなんも考えてはらへん かったり、ヘラって哂いながら強かに戦略を練ってはったり、例えば女の子と別れた日でも爆睡して体調整えて 出てきはるやろ。一筋縄じゃいかんってこのことや。もう、真似しとうでも無理ですわ」
「だれだよ。おまえにそんなこと吹き込んだヤツは?」
 仙道は肩にかけていたタオルを外して彦一の首に巻きつけそのまま肘を絡めて捻り上げた。ぐえっと 大げさな声を出しながら、そんなん、チェック済みやーと、仙道を崇拝している後輩は軽快な声を上げた。
 越野が気づいて『学校内で人殺しなんかするなよ。出場停止になんぞ』と向こうの方から声をかける。 それに対して彦一は『仙道さんに殺されるんやったら本望です』と返している。
 流川の嫌いそうな過剰なスキンシップ。同じチームに属する者同士なら当たり前の光景で、現に彦一は こんなにも素直に楽しんでいる。それがつうじない。違う。彦一たちとは完全に趣を異にした、凡そスキン シップとは呼べない歪な感情の揺れ。それが目の前にちらついて、それでアイツの態度を頑なだと感じるのだ ろうか。
 肩肘張らせているのはオレのせいかと、どこかがチリリと痛んだ。
 けれどそんな心情など露ほども漏らさない仙道に彦一は情報収集に余念がない。
「やっぱ一番手ごわいのは海南ですか? 夏のインハイでまたひとつ実績を積まはったし」
「ん。けど絶対負けちゃなんねーのは湘北じゃねえ。桜木は間に合うんだろ?」
「その日に向けて懸命にリハビリを続けてはるらしいですわ。そや。湘北っていうたら、なんでも流川くん。 海南の牧さんに勝負を挑みに行ったらしいですよ」



「へえ」
 彦一は爆弾発言投下の意味を分かっていなかった。
「やっぱ流川くんは飽くなきチャレンジャーや。あんなスゴイプレイ出来ても、まだ高みを貪欲に目指す。 全日本ジュニアの合宿でも、神奈川から選ばれたんは牧さんと神さんと流川くんだけやったから仲ようならはってん やろうな。牧さんも面倒見がエエ人やからきっちり相手しはったらしいし」
 その報告をふうんと割と冷静に聞いていた。一言で言えば、そうか、牧さんかだ。オレに飽きちゃったって のは洒落にならなかったらしいな、とも。
 牧に劣っているだとか流川の目標から逸れてしまったとか、そんなことはどうでもよかった。あの相手を 射殺しそうな視線の先に存在し続けられると、なんの根拠もなく信じていた己の楽観さにただ呆れた だけだ。
 流川が勝手に彼をライバル視して勝負を挑んできた。それは流川からの一方的な強制で、それを受け止め 嬉しいと純粋に感じ、その思いを飲み込んで自分なりに咀嚼した結果があの行為だ。徐々に暖めていた ものがふいに弾けた。
 驚き丸く膨らんだ切れ長の瞳。
 それを目の前にしてただ、愛しいと感じた。ライバルへ感じる想いではない。
 けれど、流川は仙道にそれ以上のものを求めていなかった。ただ憤慨し、頬と腹に殴りを入れ呆れて立ち 去った。
 オレの歪な思いを抱えきれずに、だから牧さんなんだと再度心に刻みつけるみたいに反芻したら、ああ、 これが失恋ってヤツかと胸に落ちた。
 大切なことは何も告げていないのに、手の中から零れ落ちてしまった。
 意外とあっけない。
 縋ることも出来やしない。
 去る者は追わず体質だから、きっといつの間にか諦めてしまうのだろうと、ぼんやりとそう思っていると、 その消沈気味の仙道のに更に追い討ちをかけるような彦一の声がかかった。
「せや、忘れてた。今週の土曜日、その海南と練習試合が決まったって、さっき監督から報告がありました。 ガツンとやっつけてしまいましょ」
 あちゃーと彼は頭を抱える。
 一体、どんな顔をして会えばいいものやら。
 見上げた体育館から覗く初秋の空はやたらと青かった。




continue