空に戯れる 〜1









――受命於天  命を天に受く
――既寿永昌  寿(いのち)を既(まっとう)して永(とわ)に昌(さかえん)



 この世に伝国の玉璽と呼ばれる白玉がある。
 かつて秦の始皇帝が良工に命じて鳳凰が棲むといわれた石を研がせ、方形四寸の印章をつくりあげた。 以来それを所持する者は一身つつがなく栄えると言われ、その印章を人は伝国の玉璽と呼んだ。
 歴代、帝位に就いた者の手から手へと受け継がれてきた印章が、混乱に紛れ一人の武将の元へたどり着く。
 孫堅文台――当時長沙の太守だった武将の手に。
 しかし、一身つつがなく栄えると言われたその所持者である孫堅は、発見からわずか二年後の 初平三年、荊州進撃中に矢を射かけられてあえなく歴史の舞台から姿を消し、孫家のことは 玉璽もろとも若干十七才の嫡子孫策の手に委ねられた。
 その後、時の権力者董卓の栄華も長くは続かず、寵臣であり義理の息子呂布によって誅殺の憂き目に合う。 逆臣の死により新たな都長安はその後釜を狙う者たちで混乱を極めた。
 乱世は終息へとは向かわなかった。



 月日は流れ、血気盛んな孫家の当主は父の代からの宿願であった江東平定を成し遂げ、遂に建安三年、 朝廷は孫策を討逆将軍に任じ呉公に封じた。
 小覇王と畏怖された二十三才の若き獅子はまさに旭日昇天の勢い。
 丹陽、呉郡、会稽の諸郡を支配下に治めたのちも一所に落ち着くことはなく、曲阿に駐留し 近隣を伺っていた。
 その大本営に呉公がお呼びとの知らせを受けて帷幄へと向かう男の姿があった。
 けして大柄とはいえないが、その物腰は戦場を駆け回っている武将とは思えないほど瀟洒にして雅やか。 周囲が振り返るほどの煌びやかな軍袍を身に纏い、それがこの男の実用一辺倒でない質を物語っている。 目鼻立ちのはっきりとしたやや甘くなりがちな容姿を一分の隙も見せない眼差しで引き締め、 顎を上げ気味で颯爽と歩を進める。
 彼が到着を告げると主君の帷幄にはすでに先客がいた。無骨な男の厳めしい顔を確認して 彼は意外なという表情を見せたが、まず膝を折る。
「周瑜公瑾、お呼びと聞きまかり出ました」
 慇懃に礼を送る場の雰囲気がふと和んだ気がして面を上げると、にやりと不敵な笑みが返ってきた。 彼はついほころびそうになる口元を慌てて引き結ぶ。
 突然子供のように突拍子もないことをしでかすこの笑みは要注意だ。またぞろロクでも話を言い出すぞ、 と緊張を走らせる。
「そのように身を硬くして一体何に備えているんだ、公瑾よ」
 呉公討逆将軍孫策が前のめりに顔を近づけてきた。



 秀麗と呼んでもおかしくない整った顔立ちに、はったりの効きそうな傲岸さを備え持っているものだから、 せっかくの美貌がどこか崩れた印象を受ける。しかし近隣の豪族の娘や奥仕えの女たちが騒ぎ立てるのも頷ける。 その粗野な部分がいいらしい。
 そんなふうに相手には困らないはずなのに二十歳を超してまだ妻帯はしていない。
 それに関しては周瑜も言えた義理ではないが、総領ともなると跡継ぎがどうのと話は違ってくる。 明日をも知れぬ乱世の武将ならば、できるだけ早く世継ぎを残しておくに越したことはないのだ。
 だがこの孫策伯符という男、惚れたはれたと大騒ぎしても長続きした試しがない。何度母公や側近たちが 一喜一憂したか知れやしない。彼とて周囲を困らせようと思っているのではなく、ただ単に色恋沙汰よりも 狩りや一騎打ちの方がお好みなだけ。
 主君としては異常に困ったヤツだ。
「我が君におかれましてはご機嫌麗しく、周瑜歓喜の念に耐えません。君の名声と勇名は日に日に富み 天下に轟き渡っております。今は亡き孫堅閣下の悲願、江東における孫家の版図拡大も着々と進行中。 またこの地の備えは盤石と言え、今現在の行軍の首尾も士気も上々。皖城の劉勳もさぞかし縮み上がっている ことでしょう。このままの勢いで進軍を続け、皖城攻落を我が君にご報告できる日も近いと――」
――ぴしり
 くだくだと並び立てる口上に辟易した孫策が手にしていた鞭を周瑜の鼻先でしならせた。
 砂塵に少し目をやられる。
「白々しい挨拶も大概にしろ! おまえに心にもないご託を並べられると苛つく!」
 臣下が述べるごく当たり前の口上を時間の無駄だと極端に嫌がる。さっさと本題に入れとこれまで 幾度遮られたことか。しかし、それでも主従関係を周囲に明確にする為には必要なのだと諫言してきた。
「何度も申し上げましたが口上一つをバカにしてはなりません。主公の前に進み出る使者の、 あるいは臣下に下ろうとする者たちの技量はもとより、それまで歩んできた心根が意外と見えて くるものなのです。真か偽か瞬時に読みとってこそすぐれた将帥となり得るのですよ」
 両膝をつき礼を取る周瑜の目前にまで顔を近づけ、孫策は低く呻く。
「くどいぞ、公瑾」
 真摯な、それでいてどこか鬱蒼とした暗さを秘めた瞳がすぐ近くにあった。



――おまえは特別だ。
 傲岸さと無垢な部分との奇妙な同居。数多の武将を統べるであろう器量の持ち主ながら孤高を嫌う。 精神的にやや不安定な主。
 天下を伺う視線を張り巡らせながら、友情などと青臭いことを平気で言うものだから頭が痛くなる。
――おまえを臣下だとは思っていない。
 孫策の周瑜に対する寵愛は、先代から長きに渡って仕えてきた参謀幕僚たちにとっておもしろうはずが なかった。その微妙な立場をもう少し理解して頂けたら、と周瑜は嘆息をつきながらも声の調子をあげた。
「此度は私に何をせよと仰せで。たしか以前には虫の好かない和睦の使者を落とす穴をつくれだの、 気にいられた娘御の侍女ごと私に籠絡せよだの、どちらが早く従者を振りきって遠くまで駆けられるかだのと、 命令される私の身にもなっていただきたい。出立前にしても母公さまの小言から逃げ出されて、 身代わりに叱られたのはこの私だったのですからね。ご帰還の暁には、何を置いても母公さまへ お目通りを頂くようきつく申しつけられました。この際だから言っておきますが、私は主公への 小言の防護壁でも窓口でもありません」
「そんな昔の話を蒸し返してどうする。それに母上にとっ捕まるなんざ、おまえも人がいいというか どんくさいというか。もう一つ、俺が言ってもないうちからあれこれと心中を詮索する癖をなくさないと 、おまえ早死にするか禿げるかだぞ」
 瞬時に満足そうな笑みを浮かべる主君の屈託のなさに戸惑いながらも、自分にはない何かを見つける。
「私が心労で早死にするか、主公が無防備で飛び出して討ち死にされるか、どちらが早いか見物ですが、 私は主公の方と見ますな」
「仮にも主君の俺より長生きをする気か? それに俺が矢を射かけられたら、おまえ盾になるんじゃ なかったのか? 義兄弟の契りを結んだときはそう言っていたぞ」
「それこそそんな昔の話ですよ。あのときは多少酔ってもいたし、私も若かったのでしょうね。 実際行動が予測できないあなたの盾になど、神出鬼没な神仙でもないかぎり不可能と申し上げておきましょう。 あなたはいつも気軽に飛び出していかれるが、護衛の任につく者たちの心労は涙なくしては聞けませんな。 それに今では太史慈という頼もしい豪傑の登場で、私はお払い箱ですよ。ありがたいことに 共倒れを食うのだけは避けられそうだ」
 聞いたか太史慈、と孫策は中程に控える武将の名を呼ぶ。
「周瑜がこんなに冷たいヤツだとは思わなかったぞ」
 おそれながら、と低いいらえが返った。
「周瑜どの流のご心配の仕方だと思われます」
 そんなことはわかっている、と孫策はそっぽを向いた。律儀に返答するヤツがあるかと巨漢をからかった あと真顔に戻って続けた。
「残念ながらおまえとのんきな口喧嘩をしている暇はない。おまえ、兵二千を率いて寿春に行ってくれないか」
「寿春? 袁術の――」
 西の皖城の間違いではないのかと問いただすが、孫策は嬉しそうに寿春だと言い張る。



 かつて孫家は袁術の配下だった。
 袁術公路。ただ名門の出身というだけで乱世を今まで生き抜いてきた武将だ。
 少なくとも彼らはそう見ている。
 しかしいくら能力と人望が地に落ちていてもその兵力は増大で、六年前に父孫堅が他界し 十七才の双肩に孫家の行く末がのしかかってきた時、しようと思えばできた隷属という措置を 目こぼしされただけでも僥倖に値する。あの狸じじいに借りができてしまったわけだが、 孫策とていつまでも名門を嵩にきた男の下につく気はさらさらなく、独立の機会を虎視眈々と窺っていた。
 そして遂に彼は強硬策にでる。
 亡き父の悲願、江東平定のために父が残した兵を返してほしいと申し出た。それもあの玉璽を質にして。



 貸し借りの問題だけなら孫策が玉璽を差し出す必要はどこにもない。
 しかし吝嗇家の袁術のこと、何やかんやと言い訳をつけて引き延ばしにかかると読んで、 あれをちらつかせて即断を迫ったわけだった。
 孫策にとって兵が必要な時期は今このときだ。何年後かに返してもらっても意味はなさない。 彼は今を生き戦場を駆け回っている武将だからだ。
 呆気にとられたあと袁術は高笑いをいつまでも続け、そして酷薄な笑みで承知の旨を告げる。 くちばしの黄色い青二才に、江東平定などできるものかといった嘲りも含まれていた。
 後々袁術はその認識能力の甘さに臍を噛む結果になるのだが、玉璽が手に入ったことで気をよく、 し昨年本拠地寿春で皇帝に即位、都を九江に置いた。
 だれもが気に留めるとこもない独りよがりな皇帝の誕生だった。
 袁術が皇帝になって積極的に行ったことと言えば、後宮をつくり美女を侍らせたことと、 贅の限りをつくし宮殿建設に腐心したのみという有様。
「あの親父が皇帝を僭称してくれたお陰で、それを機に魯粛たちがあれを見限って俺についてくれた。 俺にとっては失った玉璽より得た者の方が大きかったわけだ」
 何れの武将も己の主君を選定する権限は持っている。
 呉公孫策といえども家臣の豪族集団が傅いてこそ主君と呼ばれ、見限られたが最後、主の座は呆気なく その最も力ある家臣の一人に持って行かれるのが常だ。
 だから周瑜が孫策を選んだ。その経緯を懐かしそうに語る気分屋の機嫌はいたって穏やかで あると見えた。



「寿春に出向いて皇帝陛下にご機嫌伺いでもすればよろしいのですか?」
「これはまた美周郎とも思えないほど血の巡りが悪いな。俺は兵二千を率いて行けと言っている」
「二千の兵で寿春を襲撃できるとも思えませんが」
「だれが襲えと言った。狸親父に一泡吹かせる作戦だ」
 周瑜は大仰に嘆息をつく。当たって砕けろ精神が脳味噌を充満している孫策に、相手を翻弄する 作戦が考えつくとも思えなかったからだ。孫策の射るような睨みが入った。
「おまえあからさまにバカにしたな」
 察しがいいのも困りものの一つだ。こめかみを押さえながら周瑜は促す。
「その首尾とやらをお聞かせ願えますか? 仕方ないから聞いて差し上げましょう」
 慇懃無礼甚だしい周瑜の物言いに、ふふんーと鼻で笑ってから彼は唯一の朋友であり随一の寵臣を 傍近くまで呼ぶ。
「袁術の拠り所は己が玉璽を所持しているの一点につきる。俺は兵を借りる質としてあれを差し出した。 その兵と引き替えに玉璽を返せと言えばどういう反応を示すと思う?」
 束の間、周瑜の思考回路が停止した。
 やはり浅薄この上ない。
 それは一泡吹くだろうが、何があっても敵はぬらりくらりとかわしにかかる。結果は目に見えている。 そして何よりも、切迫したこの局面で数少ない兵力を差し出す余裕がどこにあるというのだ。
 つい、周瑜は先客である男――太史慈を睨みつけた。さほど興味なさそうに黙って今のやり取りを 聞いていることからして、恐らく彼は主君から先にこの話を持ちかけられたはず。 なぜなら未聞の下知ならば立場を弁えながらも、一言も聞き漏らすまいと前のめりになる律儀な 質を持っている男だからだ。
 周瑜はなぜ反対しなかったのかと目で問いかけるが当の男はどこ吹く風だ。
「見物だろ?」
「それは見物には違いないですが、今さらながらの嫌がらせで、それで今現在我が軍の最優先 事項である皖城攻略にどう優位に運びますかな」
 周瑜の言葉がつい険を帯びた。孫策の瞳がもちろんと言っている。
「玉璽など返してもらってどうなさる? ただの印章ではないですか。主公らしくない。 あんな物に未練でもあると言われるのか?」
 孫策の瞳がひっそりと影を宿した。まさに軽快さと残虐さとの表裏一体。寵臣とはいえ気をつけなければ その変節に痛い目を見る。しかし周瑜も追求の手を弛めなかった。
「確かにあれは亡き孫堅将軍の遺品かもしれない。あれを孫家の家宝にとの仰せだったですからね。 でも主公は虚を捨てて実を取られた。ご立派な決断だったですよ。その家宝と引き替えに戦力を 得て江東平定を実現された。もう家宝としての役目は十分果たしたではないですか。 あれはもう過去の遺品と言っても差し支えない。それを得て何をどうなさろうと言われるのか?  今は皖城攻略に向けて一丸となろう時。私を抜きにしてことを進めないでいただきたい。 それにそんな役目は外交が得意の文官にでもお申しつけください」
 孫策はゆるりと口の端をあげた。