空に戯れる 〜2









 ひっそりと沈黙が落ちた帷幄の中で、孫策が穏やかに哂う。
 違う、と思った。
 いつもの彼ならここで端正な顔を歪めて激昂している筈だ。 何が飛んできてもおかしくない。
 しかし涼しげに周瑜の視線を外し、帷幄の外を流れる風の音でも楽しむふうの主君には余裕が感じられる。 統率者としての自覚が出てきたのだろうか。人間突然丸くなるなど信じられない。
「あれは禍を生む」
「はー?」
 深まりゆく秋を楽しむような長閑な調子。この主君の横顔を美しいとも怖ろしいとも 計り知れないとも思う一瞬だ。
「あれは劉姓に拘るのか? 劉姓でない者が持つとろくでもないことになる。父は早々に亡くなり、 その前の所持者董卓は見るも無惨な屍を晒し、袁術は凋落の一途だ」
 ひんやりとした汗が周瑜の背中をつたう。
「だれに送りつけてやろうか? 公瑾」



 束の間――葉ずれの音だけが帷幄の中を通り過ぎる。
 意を決した周瑜は両膝をついたまま上半身を起こすと、自然と見下ろす格好で孫策を捉えることになる。 彼は顎を上げて見つめ返している。太史慈も同じ色を宿した瞳を向けていた。
「私見を申し上げるといま兵を割くことは得策とは言えません。ですが西を牽制しつつ仰せのとおりに 北を目指しましょう。それでよろしければ出立の許可を戴きたい」
 おまえのさい配に任せる、と孫策は即断を下した。
 もう一つ、と重ねて周瑜は問う。
「なぜ、いまなのでしょうか。皇帝即位から一年もたったいまなのです?」
「なぜも何も、きょう思いついたからだ」
 口の端をつり上げて笑う主君に、そういう人ですよあなたは、と言い残して周瑜は太史慈と連れだって 帷幄を後にした。



 一歩外に出ると河面を渡ってきたであろう西風が落莫と通り過ぎていった。
 風の臭いで季節の移り変わりが分かる。大河から無数に枝分かれした湖沼地帯で生まれ育った者の 嗅覚だ。
 ふと周瑜は太史慈の名を呼んだ。
「御前では申し上げられなかったが、どうか主公のことよしなに願います」
「あなたにお願いされなくとも我が身を呈してお守りしますよ」
 いたって孫策心酔度が高いこの武将は皮肉な笑みを返してきた。
 太史慈。字は子義。かつて敵将だった男だ。
 四年前、孫策軍は曲阿の劉ようを攻め、両軍は神亭山をはさんで対峙していた。その緊迫感溢れる状況で、 あろうことかというか、いつものことというか、数名の供を連れただけの孫策が狩りを楽しんだというのだ。
 敵の大将を生け捕るチャンスと見て、劉よう配下の武将太史慈が討って出てきたのはいうまでもない。
 何度も槍を打ちあったが決着はつかす、挙げ句の果てにはその槍を放り投げて殴り合いに発展したという。
 両方に援軍が到着し、まさに一発触発の様相を呈したが、命令を出す当の大将が殴り合いの喧嘩をしている。 矢を射かけるにも接近しすぎて味方の将に当たるかもしれない。
 だれもが固唾を飲んで見守っていたそのとき、ありがたいことに突然雷雨が起こり、 一旦その場は引き上げたという頭の痛くなるような出来事だった。
 形相を変えながら、しかも嬉しそうにその喧嘩の実況を語る孫策を叱りつける周瑜を制して彼はこう言った。
「骨のあるヤツだったぜ。あいつを召し抱えたい。いい方法を考えてくれ」
 周瑜は急きょ『太史慈生け捕り作戦』を考案する羽目になった。一計を案じられまんまと策にはまった太史慈も、 孫策の八方破れな人となりに敬服していたらしい。
 当たり前だ。自ら一騎打ち――そんな高尚なものではない、ただの殴り合いにでしゃばる大将が そういてもらっては困る。
 彼は拝跪して臣下の礼をとった。



――どうかしている。



 殴り合いの果てに誕生した当時十九才と三十一才の主従を、周瑜はどこか冷ややかに傍観していた記憶がある。
「周瑜どのは主公をあまり信用なさっていないでしょう」
 過剰なまでの心配はその裏返しだと、偉丈夫は前を見つめたままで突然言い放った。
「信用、はしていないだろうな。主公とつき合っていると、同年なのに一人歳をとった気分 にさせられる」



 一緒に決起してからこの方、戦闘中ならいざ知らず平時においても枕を高くして寝ていられた 日々の何と少なかったことか。
 いやむしろ平時の方が気が休まらない。あの主君には暇を与えてはいけないのだときつく学習させられた。 そう言うと太史慈はうらやましい限りだと呟いた。
「うらやましい?」
「主公は周瑜どのがいてこそ、無茶も無体もし放題なのでしょう。あの方は聡いからわかってらっしゃいます」
「本当にわかっているならもう少し謹んでもらいたいものだが」
 それでは主公が主公でなくなる、と太史慈はやや相好を崩した。
「いつも思うのだが御辺は主公を甘やかし過ぎだ。武将たる者が母親のように丸抱えで慈しんでどうする」
「然るに私は孫策伯符という方のみに仕える者であると自負しております」
「――? 私もそうだが」
「周瑜どのは呉公討逆将軍にも仕えていらっしゃる。お気づきでしょうが今回の任務、 確かに外交担当に任せればよいのです。しかし主公が文官ではなくあなたに任ぜられたのは、 あなたが主公個人の希望も、呉公としての宿願も叶えてくれると思われたからでしょう」
 周瑜は小賢しいとばかりに眉根を寄せて前方を見据える。
 そんな意味のない憤りの視線などこの巨漢には通じない。
「躊躇してしまうのは、私が出張ったところでその先が見えないからだ。どう転ぶか読めないのだ。 そうだろう? 董卓の専横虐殺も孫堅将軍の不運も袁術の凋落もただの結果だ。 あれを所持しようが残る者は残る。消える者は消える。袁術のように所持して平静でいられなくなる 阿呆もいるだろうが、そんなやつは放っておいても乱世に飲み込まれて消えてゆくのが必定。 それに手を貸してやる必要もないし、また我が方にしてもそれに割く時間も人員の余裕もないのは 主公も承知だろう」
 上背のある太史慈が周瑜を見下ろした。
「僭上ばるようですが、策略と兵力だけの戦に飽きられたとか?」
「そんなもの、飽きるなと言いたいが、あの方の場合あり得る」
「そうなると怨念の籠もった玉璽を方々の武将に献上して思念で抹殺を図るのですな」
「楽な戦い方だ。我々は商人よろしく各地に出張ればよいのだからな」
「まず昔年の怨みで袁術。そして――」
「その次は父君を直接手に掛けたこ黄祖、それが終わればさしずめ董卓追撃の際に 魁を切られた先代に対して、粮秣を供給しなかった袁紹という順番をお考えだ」
「天下統一を伺うなら、天子を擁している曹操を真っ先に狙うべきでしょうが」
「そこまで行く末を見てらっしゃらない」
「私怨に優る動機はないわけですな。しかしご自分は淫祠邪教、まじないの類をお信じにならないでしょう」
「信じていないのでなく、お嫌いなのだ」
「なるほど――」



 何が楽しいのかいつもは不愛想な男がやたらと機嫌がよい。それにも増して口数も多かった。
「そう言えば周瑜どのとお話する機会が今までありませんでしたな。接点もなかった。あなたと私とでは天と地。 眩いばかりの陽の光に蛍の灯火。大輪の椿に雑草とでも申しましょうか」
「嫌味なヤツだな。丹誠込めなければ育たぬとでも言いたいのか?」
「邪推なさいますな。が、確かに雑草の方がつぶしは利きますな」
「どうつぶしが利く? 御辺のような灰汁の強い草など食えるか」
 真顔の応酬は少々怖い。
 無言の恫喝のあと、二人は同時に視線を外した。
「僭越ながら先ほどの会見において、周瑜どのは長江を越えて北へ進軍される気がないと踏みましたが?」
「御辺、今度は私に釘を刺すつもりか?」
 滅相もないと無骨な武人は遜ったが、どうだか知れたものではない。
 周瑜は孫策の帷幄を振り返った。
 命令違反をするつもりはないが、太史慈の言うとおり袁術の元に急行するつもりもなかった。
 いまの大事は江東での基盤づくりのこと。
 長江を渡らずに対面している敵を牽制し刺激すれば合戦になると踏んだ。 そうなれば孫策とて寿春だの袁術に一泡だのと言っていられなくなる。
 けして二兎は追わない。それが信条だ。
 しかし確かにいまなら、どさくさに紛れて奪えるかもしれないとの考えも過ぎる。



――なぜいまなのです?
――きょう思いついたからだ。
 恐らく孫策も同じ考えだったのだろう。



「くどいようだが主公からけして目を離されるな。どこぞに忍ばれる場合でもだ」
「一番難儀なことを簡単に申される」
 さらりと言う太史慈を睨みつける。
「気の短い主公のことだ。私が二の足を踏んでいると寿春に駆けつける可能性がある。 いま劉勳に隙を与える訳にはいかん」
「肝に銘じて」
「御辺の使命ぞ」
 そう言い切って周瑜はさっと踵を返し自らの幕舎へ向かった。


――了





以前、先輩サイトさまでかっちょいい孫策兄ちゃんのイラを拝見して、急にむくむくと兄ちゃんが 書きたくなったんです。
基本的にクールビューティー(手塚も蒼紫も孔明くんもね)が、何を仕出かすかわからんってのが 好きなんですが、「いてまえ!」キャラもね〜。書くと楽しいよね〜。
白状しますと、これって昔書いてた小説の一部なの。かれこれ7、8年前。あたしの一号機95ノートから 引っ張って書き直しました。
昔っからこんな文章だったのね〜。(激硬!)