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「あの、趙将軍」
 諸葛亮の隋人として付けておいたその男が、消沈ぎみで調練場に姿を見せたときから趙雲には嫌な予感があった。 だが、いかに向こう見ずな男といえども、のこのこ出て行く短慮な行動はすまいと目を離したことと、信用した 己に舌打ちをする。
――俺だって、暇じゃない。
 実際騎馬隊一軍の修練と、行雲踪跡定まらない軍師のお守りを同時にこなせる筈もなく、それを分かって勝手に 振舞うあの男と、それを命じた主公に愚痴の一つもかましたくなる。どうにか理性でそれを飲み込んで、趙雲は 修練場を後にした。



 霞深く、朧三月。
 漢の左将軍宜城亭侯、劉備玄徳が閑寂とした山間の村から連れ出したその男は、新野の城で 相好を崩した主公から初めて諸将文官に紹介された。
 主公の彼に対する寵愛と執心ぶりは先に城内を駆け巡り、仮初めの人物像と噂は尾ひれをつけて浸透し、 顔見せのその場では股肱の臣からあからさまな嫉視が振り注いだ。 しかし、その年若い男は泰然自若と自己紹介を恙なく終え、諸将のやっかみなど最初から存在しなかったかの 落ち着きぶりだ。
 どこか超然とした物腰と、触れようものなら瞬時に切っ先に変化しそうな怜悧な美貌に加え、的確な事務処理能力 の才を持って、文官たちの畏怖と尊敬をすぐに掌に収めたようだ。
 彼が文官として就任したのなら新野城を上げて狂喜しただろうが、生憎彼が賜ったのは文武を束ねる最高職。 お飾りで収まるつもりも、それぞれの責任者と連携して、山積する諸問題を解決しようという可愛げもなく、 独自の情報収集能力と判断力を持って単独行動に出た。
 主公は相好を崩しっぱなしだ。それこそ彼に求めていた推進力だったのだろうから。



 襄陽は彼の庭のようなものだと、嘯いた小憎らしい笑顔が蘇った。



「軍師というお役目を仰せ仕りましたが、この際ですので、独自で行動する旨をお許し願えないでしょうか」
 主公の御前、傍にいるのは関羽、張飛の両義兄弟と趙雲のみという議場で、やおら彼は切り出した。
「軍のことはわたしには分かり兼ねますので、御三方にお任せ致します。わたしには補佐して頂ける官を一人と、 護衛の武官を少しお借りしたい」
「一体何を始めようという気だ」
「この新野という土地柄、いつ南下してくるやも知れぬ北からの脅威に常に晒されております。はっきりと申し上げて そうなった場合、襄陽は頼みにならないでしょう。主公がここで軍事力の強化を許されている理由からも、我々は 捨石も当然の扱いで――」
「お待ちくだされ」
 独壇場になりつつあった場を関羽が引き戻した。この男が理路整然と語り出した場合、的確な反論を口に挟めるのは 関羽くらいしかいない。主公はさながら聞き惚れているし、張飛が細部まで理解しているかは定かではないし、 趙雲はいつだって我関せずの姿勢を崩さない。
「曹操が大軍を率いてこの地に迫ったとしても、荊州の牧は捨て置くと言われるのか」
「諦観される方がまだマシかも知れません。下手をすると双方から挟み撃ちという危惧もお含みおきください」
「そのような卑怯な振る舞いを――」
「それほど曹操の力は強大ということです」
「では孔明は何をしようというのだ」
 諸葛亮は少し前のめりの姿勢のままゆっくりと歩き出した。
「荊州の軍事力は我が劉備軍を除けば、各豪族たちが掌握しているといっても過言ではありません。またその総て が襄陽城に心酔しているわけでも、阿ねているわけでもないのです。各豪族間の結束などあってないようなもの」
「つまり――」
「はい。我々の意に賛同して頂けるよう説得工作に参ろうかと」
 議場は水を打ったように静かだった。



「説得と申されるが孔明どの。我らと生死を共にする盟約を取り付けるのに、彼らに何の見返りを用意されるおつもりか」
 珍しく、本当に今まではあり得ないことに趙雲が口を挟んだ。
「残念なことに主公にはそれを成す権限がございません。それとも今より襄陽をお取り遊ばしますか?」
 歩みを止め、彼は主座を振り返った。劉備は身じろぎもせずその視線を受け止めている。その下駄の預け方はないだろ うと一同の方が気色ばんだぐらいだ。
「時期的に難しいのではないかな、孔明よ」
 先に視線を外した劉備に諸葛亮はあるかなしかの嘆息をついた。返される答えを知っていて投げかけている。 姑息なと趙雲の眉根が寄った。
「今から襄陽を手中にしたところで、そなたの言う豪族たちを掌握するには時間が掛かりすぎる。下手をすれば 混乱のさ中に曹公を迎える事態にもなりかねん」
「統治者に力があれば人心は速やかに安んじましょう。ご懸念には及ばないかと思われますが」
「孔明、そなたはこの地に十年近く居を構えていたと聞いた。その慣れ親しんだ襄陽を戦場にする勇気があると言うのか」
「さすれば主公は襄陽城という拠りどころなくして、曹公と立ち向かわれるご所存でしょうか」
「逆に聞くが、孔明。襄陽の城に立て篭もって曹公と一戦交えて勝つ策があるのか?」
 なるほどなぁ――と張飛がポンと手を打った。
「それで豪族たちを帰順させようって魂胆か。襄陽城だけでなく荊州全土で反乱の狼煙を揚げるんだな」
「それこそ不可能ですよ、張飛将軍」
 折角先読みをしてご満悦の張飛の出鼻が途端に挫かれる。不満そうな表情のままで張飛は固まっていた。
「荊州の豪族たちはそのような策に乗りはしないだろうて」
 関羽も渋面を送る。
「じゃあ、あんたが言っていた説得工作って何なんだ?」
「先ほどの趙雲どののご質問の答えにもつながりますが、荊州は自由の気風を尊ぶ土地柄。敢えて言うなら、彼らが 荊州に住まうわけは、この地が比較的他方に比べて長らく戦禍に塗れていないからなのです。荊州全土に散らばる 豪族の一体幾つが話し合いに応じるかは定かではありませんし、生憎彼らに与えてやる見返りも用意できない。 また住み慣れた土地を離れる選択を強いることにもなる」
 そこで一旦言葉を切って、主公劉備に向き直った。
「主公に重ねてお尋ね致しますが、曹公南下の際に我が劉備軍は戦端を開かずに、逃げる方向で一貫してよろしゅう ございますね」
 導かれたこの結論に、既に二人の間に取り決めがあったかのようだった。関羽と張飛は互いに見つめ合いながら 息を呑んでいる。混乱している二人には構わず彼は続けた。
「兵力は千でも二千でも確保したい。豪族たちには我らと共に逃げてくれるよう頼むつもりです。反曹操色の強い 御仁に目星はついておりますので――」
「ちょっと待ってくれ兄者。一戦も交えずに逃げると言ったのか、いま」
「そういうことになるな」
 劉備は事もなげに言う。
「戦わずに逃げて何処へ行こうと言うのだ」
「我が軍単独で曹公と事を構えるのは無謀というもの。可能な限りの戦力を得て、東呉と連携したいと 考えます。そのためにも荊州の兵力をこちらへ引き入れる説得が必要なのです」



 それからの彼の行動は早かった。表立って交渉の場に出られない劉備に代わり、見当をつけた豪族衆すべての 所在地に出向くと言う。諸葛亮が挙げた名簿には、穏健派から急進派に至る組織力の詳細が書き込まれていた。 そのうちの一つを指差しながら彼は表情を引き締める。
「荊州で一番数多く部曲を抱えているのがこの陳氏です。劉表さまの前のご内室と縁続きだとか」
 自然、趙雲の眉根も寄る。その勢力に比例して、尊大で侮り難い首魁が率いているとの情報も聞き及んでいた からだ。
「陳氏が反曹操派だという噂は聞いたことがありませんが」
「はい、ですが荊州の軍事面を束ねているのも事実かと。こちらが靡けばその後の説得が容易に運ぶのですよ」
「この陳英という男、傑物だとの専らの噂ですが、大人とは到底言えませんよ」
「存じております」
「お知り合いか?」
「ええ、徳操庵で何度か顔を合わせたことがあります」
「旧知を頼みに応じてくれるような御仁なのでしょうか」
 即答は返らない。一筋縄ではいかないというのは事実らしい。
「孔明どの。この陳氏の元へ赴く折にはわたしがお供仕ります。重ねて申し上げますが、放恣な行動は慎まれる ようお願い致します」



 そう、強く念を押したにもかかわらず、趙雲が騎馬隊の副官に呼ばれ目を離した隙に、彼は消えていた。


continue






近頃長文体質に更に磨きが掛かってきたような気がします。
今回のお話は、危ないって分かってるのに、 勝手に出て行く先生とそれに激怒する趙雲さんってだけの構図なのに、なぜにまださわりだけ?
わたしの中では先生が落ち着きを見せるのは、成都に入ってからに なってるんです。それまではこんな自分勝手なヤツってことで。
要するにそんな先生と 呆れる趙雲さんがが書きたいだけなんスよ。