〜2


「どうぞこちらへ」
 古参らしい家人の案内を受けて諸葛亮はゆっくりと歩を進めた。
 荊州一の財力と武力を誇る陳氏の館。どっしりとした重厚なその構えは他を圧するものがある。
 陳英の生業が武器の中間取引や馬喰というのは表向き。鉄や塩などの専売品の裏取引をも行っている という事実はだれもが周知していた。その荒業によってこの大層な館の管理と、最大数を誇る部曲は 養われている。
 その利に聡い男が学徳にも暁通し、しばし司馬徽師の庵やホウ徳公の屋敷に顔を出していた。もっとも、 荊州のみならず各地から名士や有力者が集う社交場のような役割も果たしていたから、人脈を取り付ける ために足繁く通っていたのだと想像に難くない。
「お久しゅうございますな、孔明どの」
 健康的に浅黒く日焼けした壮健な男が、相好を崩して彼を迎えてくれた。



「ご健勝の様子、察せられます。まずはお喜び申し上げて、早速ですが、 単刀直入に話を進めさせていただいてよろしいか、陳英どの」
「おやおや、久方ぶりの邂逅だというに、お顔に似ずせっかちなお方だ。折角お会いできたのですから、 ゆるりとされるが宜しかろう?」
 慌てなくてもわたしは逃げませんよ、と当主手ずから茶を点てる。室内は、意識が揺らぐほどの芳醇な香りに 包まれた。
「江東からの交易品で極上の茶が手に入りましてね。まずは一服喉を潤されよ」
「わたし共がどれほど崖っぷちか、貴殿は荊州の主よりも熟知してらっしゃる。それ故に 早く早くと急いても、わたしの欲する答えをくれそうにないのは承知しています」
「そう、我らはどちらでもよいのですからな。荊州の主が曹公に代わったところで、商売には何の影響も ありません」
 茶器を差し出され、かしこまってそれを受け取る。陳英が自慢するだけあって、庶民が口にできないような 一品だった。まろやかな香りが鼻腔から目の奥にまで抜ける。一口すすって諸葛亮は続けた。
「どちらでもよいというのは嘘ですね。貴殿はただの商人ではない。諸子百家に通暁し、六韜を諳んじて、 三略を論述された。その上、曹公の功罪を厳しく論じられていたではありませんか」
 お分かりになりませんかね、と陳英の瞳が昏く伏せられた。
「人の思想はほんの一瞬で変わることもありますし、あれはあの場にあなたがお見えだったが故の、 わたしの精一杯の虚勢だったのですよ」
 何を――と問う諸葛亮の体が僅か斜めに傾いだ。揺れる視界の訳にはたと思い当たる。
「陳、英どの。あの茶に、何を――」



 陳英の冴えた視線を撥ねつけて、意識を手放すまいと奥歯をかみ締める。
「だれよりも機知に富み、朧たけ、俊英であったあなたは、司馬徽師門下でも図抜けておりましたな。 しかも諸刃の剣のように研ぎ澄まされておいでだった。あなたのような方に出会えて快哉したものですよ。 なのに、劉備如き凡夫に傅いて牙を失くされたか、諸葛亮どの。 以前のあなたなら、敵か味方かも知れぬ相手から差し出された茶に、口をつけるような愚は犯さんでしょう」
 確かにそのとおりだ。
 説得のみに気を取られて、胸襟を開けば活路が見出せると楽観し過ぎたのではないか。 陳英の人となりが、論戦を好み論破を果たした相手に敬意を払うと当たりをつけたなど、最早ただの いい訳だ。
「初めてお会いしたときからお変わりになりませんな、あなたは。高邁でいっそ不愉快なほどの 理想主義者であられた。私ども商人は武将に生命線を握らせるような愚かな真似は致しませんよ。 曹公に荊州が蹂躙されるのは、大層口惜しゅうございますが、致し方ないと諦観することも大事なのでは ないですか。わたしにも食客たちを養う義務がありますからな」



 卓に手をつき、崩れそうになる体を何とか支えている諸葛亮の方へ、陳英が手を差し伸べた。
「品性や知性の欠片もない武人たちと行動を共にするなど、似つかわしくない。血に塗れてしまうなど忍びない。 あなたの論理を彼らは 理解できるのですか? あなたの才覚は劉備軍で生かされておりますか?」
 私どもと共に版図と勢力を広げて参りましょう、と頬に触れた陳英の手を諸葛亮は 渾身の力で跳ね除けた。
「――見くびってもらっては困る」
 肺腑から絞るような声も掠れる。それでも精一杯毒づいた。
「貴殿に――この身を委ねてもわたしの宿願は――この乱世を終息へと向わせるという願いは 叶わない。凶暴にも身の内に棲むこのうねりは到底ご理解頂けまい! 曹公で仕方ないとは、利に聡い 商人の仰ることか。治世者を選ぶ権利があるんだ、あなた方には! どちらが利に有益か見極めるために 慧眼を養われてきたのではないのか。それを無に帰すおつもりか! 放棄されると言われるのか!」
 束の間、呆けたような表情のあと、ふいに陳英は体を折り曲げるように笑い出した。目に薄ら涙さえ 浮かべ、さも可笑しそうだ。
「ご立派だが、この状況でどうしてそうも吼えられるのか、わたしにはそれが理解できませんよ」
 そう哂って一歩近づくのを嫌って後ずさりする。このまま意識を失えば、あられもない姿を晒すか、 首と胴が離れても文句は言えない。 痺れる指で卓上の茶器を叩き割った。その意図を読み取って陳英の腕がそれを押し留めた。
「その身を傷つけてまで、呪縛から解き放とうとなさるのは、ご遠慮願いたい。これでも血を見るのは 嫌いでね。特にあなたが傷つくなど、卒倒ものだ」
「似非平和論者が――」
 崩れる――そう知覚したのと、重厚な扉が開け放たれたのとはほとんど同時だった。



 巨漢の家人が激突した勢いで扉が開かれた。もう一人、同じように室内に転がり込む。 辺りに塗れた血臭の中、肩で息を弾ませている趙雲が立っていた。
 芳醇な茶の香りが一気に霧散して、それでも安堵から愁眉は開く。
 呼気を整え、正面を切り、諸葛亮は当然のように言い放った。
「遅いぞ、趙雲!」
「申し訳ございません」
 少々手間取りました、と畏まり冷然と受け止めている。
 くるりと方向を変え、趙雲の切っ先が陳英へと狙い定められた。場慣れした商人は、それに対して別段驚き もせず次の行動を待っていた。
「我が軍師に、これはいかなる所業か、お聞かせ願おう」
「何も申し開きする義はございませんよ。陳家と劉予州との協議はただ今決裂致しました。軍師どのご不調のわけは その辺りにあるのではないかな」
 趙雲は陳英の喉元を狙いすましたまま、斜め方向から諸葛亮に視線を送った。彼は片手を卓につけたままで、 もう片方の手の痺れを確かめている。何度か握り返しているうちに感覚戻ってきたようだ。
 僅かに体を傾けながらも陳英の眼前に立ち尽くし、陳英が好むであろう艶然とした笑みを趙雲に送る。
「陳家は大勢に阿る方針で貫かれるそうです。我が力が至らないばかりにご理解とご協力は得られませんでした。 が、それでも曹公支配化における陳家の永の繁栄と栄達をお祈りしましょう」
 構えていた槍を下げて、趙雲は傾いだ諸葛亮の手を取った。その手を借りて彼はいま一度陳英を捕らえる。
「過酷なのは留まるも進むも同様かと思われ、麻のように千々乱れた現世において、安息の地は自ら掴み取らねば なりません。私は前に進みますよ。あなたが知性と品性の欠片もないと仰った彼らと共に」
 諸葛亮の笑顔から凄みが消え、まろやかな視線のその先には過ぎ去った日々への追憶に満ちていた。
「水鏡先生の庵では若気の至りとも言える理想を語り合いましたね。そのときの机上の空論を実践してみよう というのだから、あの当時の青臭いまま、わたしは成長していないのでしょう。しかし、それを手に入れる機会に 恵まれた。それを封印してしまったあなたを置いてゆきますよ。ご一緒できないのがつくづく残念だ」
 慈しみに似た笑顔を向けられて、陳英の顔がほんの少し歪む。
 くるりと背を向け部屋を出て行く諸葛亮の手が扉にかけられた。思い出したように振り返りにこりと 陳英に言い放つ。
「この地を離れる際に、私どもはコソコソ出てゆくような真似は致しません。高らかに宣言して参る所存 ですので、もし気が 変わられたのならどうぞご一緒に。ほんの少しですが、熟考される猶予はありますよ」



 陳英の屋敷を出たところで趙雲は諸葛亮の体を支えていた手を離した。気まずいとは思っていたが、 その唐突さがさらに助長するのは当然の報いだ。
 無言で二頭の馬の手綱を引いてきた趙雲の目がまともに見られない。
 どう切り出せばいいか分からない。
 ただのその一言がすんなりと口に出来なかった。
 その様だけに満足できるほど趙雲も人がよくないし、追求の手を緩めて甘やかす気も毛頭ない。
「誠にご立派な演説、感服したしましたが、何かわたしに仰りたいことがあるのではないですか?」
 だからつい、水を向けているのか追い詰めているのか分からない口調になってしまった。 消沈して素直に項垂れている彼の様子は、 先ほど陳英相手にはあれほど冷然と嫌味を放っていた人物と同じとは思えない。
「勝手な振る舞い、申し訳、なかったと……」
「それだけですか?」
「報告しようとしたんですが、あまりに将軍がお忙しそうだったもので、つい――」
「心外ですね。何に忙殺されていようと、孔明どののご用件を蔑ろにしたり後回しにした覚えはありませんが」
「だからです。だから余計に申し訳なくて。趙雲どのを待っておられる多くの兵士たちに対して。 いつもわたしが独占しているようなものですから」
 趙雲の険しい表情が更に増す。怒気に当てられて思わず後ずさりをするほど。
 しかしそれすら許されず、伸びてきた趙雲の手に捕らえられてしまった。
「それほどにわたしに気を使われては任務に支障を来たします。主公にお願いしてあなたの主騎を外させて頂く。 変わりに関羽どのを推挙させてもらいましょうか。それとも仲のよろしい張飛がいいですか?」
 思わずゲッという、凡そらしくない言葉が口をついた。慌てて空いた手で口を押さえるが、 普段は取り澄ました男の慌てるさまにほんの少し溜飲が下がる。しかしここぞとばかりに追い討ちをかける 趙雲の日頃の鬱積も相当なものだ。
「お二方ならさぞかし立派に役目を果たされるのでしょうな。あなたのご政務も恙無く進みましょう」
 わたしなどより、と視線が遠方へいってしまっているのを認めて、血圧が下がる音を聞いた気がした。
 背中を見せて二頭の馬と歩き出した趙雲を縋るように追いかける。痴態めいて悔しささえ募るが、この際矜持を取っ払わ なければ大変な憂き目にあってしまう。



「ちょっと待ってください。困る。いえ、その、お二方がどうとかではなく、趙雲どのでないと困ります」
「わたしは別に困りません」
「わっ、困るんじゃなくて、趙雲どのがいい。そう。傍にいて頂きたい。是非とも」
「殊勝なことを仰るのも最初のうちだけですからね。信用ならない」
「勝手な振る舞いは慎みます。出掛けるときは趙雲どのの判断を仰ぐようにする。必ず守るから――」
 どうしてここまで卑屈になるのか分からない。去ってゆかれるかも知れない不安からか、前をゆく趙雲の 背を追った。
 突然ピタリと停止されて、足早だった諸葛亮は趙雲の背に取り付く形になる。その大きな背に手を置いて、 立ち止まったまま身動きしない彼の言葉を待つ。
「もう一度仰ってください」
 小さな声が背中を越えて届けられた。何をと聞かなくても即座に口をついた。
「子竜どのがいい」
「いつまで」
「動けなくなるまで」
「もう一度」
「いい加減にしろ! ほんとに性格悪いぞ」
「今更でしょう」



 添えていた手を思い切り突っぱねてその背から離れる。自身の馬を貰いうけ、そのまま真横に並んだ。
 向けられた笑顔から目を逸らすことはもうない。
 春待つ風はまだ頬に冷たく、駆け去るのが惜しいほどの冴えた大気に暫し包まれていた。
 天は長く地は久しい。
 共にある時間が存在する限り、願わくば別たれることがないように。



 地に在りては 願わくば――。


――了






もっともっと危険な展開になるはずが、ご都合主義炸裂ですみません。とことん卑怯なヤツを 書くのって得意じゃないですね。主義主張が違うだけで、同調できないってお約束の展開です。
でもこんな勝手なヤツはいっそのこと(オイ)とも思ったけど、趙雲いぢめっ子モード炸裂でよしと しました。
サブタイトルは「もっと怒れ! 趙雲」ですね。