鬼の住処    〜序章



 建安六年。
 この年何度も小競り合いを繰り返していた河北の袁紹と、すでに天子を擁して自らを漢の丞相と称した曹操とが、都 許の北の地で真っ向から衝突した。
歴史に名高い、官渡の戦い――である。
 数の上では総勢十万の名門袁紹軍が絶対有利と見られていた。それに対抗する新興勢力の曹操軍はわずか一万。 しかもその中には、官渡の戦いの前哨戦ともいうべき白馬や延津での負傷者が、二〜三割も含まれていた。



 白露も過ぎ、寒露の声も聞かれようという頃。両軍の睨みあいが一望できる小高い丘の上に、二人の青年の姿が あった。身なりは質素だが粗末ではない。二人が送る目線の先は同じ。腕組みをしたままで陣構えの観察 といったところだ。
 前に位置した、少し年嵩の男は徐庶元直。襄陽の司馬徽師の一門。立ち位置を後ろに控えた長身痩躯の男、 諸葛亮孔明とともに、物見遊山も兼ねて慧眼を養いにここまで足を運んできた。
 その徐庶が漸く後ろを振り返った。
「曹操軍はまさに青息吐息だな。先の戦で顔良や文醜といった名将を失った後遺症は、袁紹軍には見えない。 これは時間の問題か」
 今、まさに曹操陣営前に土嚢を築いた袁紹軍が、矢の雨を情け容赦なく降らせる。それに対して曹操軍は動く気配を 見せなかった。
「少し性急すぎやしませんか」
 強い風に煽られる後れ毛を片手で押さえながら、諸葛亮がそれに応えた。
「呉子曰く――兵を用いるの害は、猶予最大なり。三軍の災いは狐疑より生ずと言うではないか。仕掛けは迅速且つ、 大胆が定石。機を見て、ここで一気にかたをつけようとしたんだろ」
「そうですかね。本来なら数にこれだけの差があるなら、持久戦に持ち込めば曹操軍はジリ貧で戦力が削がれていく筈。 大軍を用いて出しては引っ込める。それを何度か繰り返すだけで曹操軍の消耗と疲労、兵士の集中力と士気は削がれる。 一気に大軍で叩くにしては布陣が間延びしすぎているし、これだけの部隊を前線に配置する必要はないでしょう?  粮秣の無駄遣いだ。それよりも機を見るのなら、ここは兵を半分に割いて曹操軍を官渡に釘付けにし、 もう半分で許を急襲して 天子を迎えるという作戦の方がどれほど天下に近いか。それを進言する左右の者がいないのか、いたとしても耳を 貸さないのか。後者だとすればその辺りに綻びが生じるかもしれないな」
「袁紹軍にその人ありと名の通った武将を先の戦いで二人も失っているんだ。曹公憎しの一念なんだろう。 是が非でも怨敵の首を落とさねば気が済まないといった感だ」
 返事は返らない。
 一気にまくし立てて、あとはじっと袁紹軍の猛攻と、それに耐える曹操軍との鬩ぎあいに集中していく諸葛亮に、 徐庶は肩を竦めて見せた。こうなると話しかけたところでうわの空なのは何度も経験済みだ。
「曹公は耐えている」
「そりゃ、おまえ、この状態じゃ耐えるしかの方法はないだろう。打って出れば壊滅だ」
「ただ、待つこともできる男なんだ、曹公は」
「何を?」
「風向きが変わるかも知れない一瞬を」
 巻き上げられる風で舞った砂塵に目をやられたのか諸葛亮は眉をひそめた。
 穏やかであれば秀麗な彼の面差しが、束の間凄みのある怒気と敬服に支配される。その両極に別たれた感情の 揺れが恐ろしいと徐庶は思う。



「この戦局、どう見ます?」
 先に見せた度し難たさは見間違いかというくらい軽快な調子で聞いてきた。それも含めてのこの男だとも 知っている。
「自分で答えを出しているくせに人に尋ねるその癖、止めた方がいいぞ、孔明」
 嫌味ったらしくて仕方がないと徐庶は吐き捨てた。クツクツと笑いながらも諸葛亮は、二人の距離が出始めているのを 承知で今一度後方を振り返った。
「予想や想像はつきますよ。でも何が勝敗を決するのか、それが知りたい」
「もう十分堪能しただろう。おまえの探究心に付き合ってここまでやって来たんだ。いい加減にしないと、斥候か何かに 間違われても知らんぞ」
 だから早く帰ろうと告げた徐庶は、弟弟子の顔に浮かんだ虚無的な笑顔に眉根を寄せた。また碌でもない考えに 基づいた、突拍子もない行動が待っていそうな気がしたからだ。
――予想に違わず。
 諸葛亮はひらりと身を返すと徐庶とは反対方向へと歩き出した。ギョッとした徐庶が留めるもの聞かず、軽快に手を 振った。
「徐兄は先に帰ってくださって結構ですよ。僕はちょっと迂回して、袁紹軍が陣を引いている陽武へ行ってみます。 得心いくまで帰らないですから。何故かこのまま見過ごすのは勿体ない気がして」
「馬鹿か、おまえは。そんなところへホイホイと出かけて何をしようと言うんだ!」
 小憎たらしいほどの笑みが陽の光に映える。身の程知らずだとか、無鉄砲だとか、浅慮だとか、咎める言葉は 幾らでも出てくる。それをあの男が素直に聞くとは思えなかった。
 ちっと吐き捨て徐庶はその後を追う。結局振り回される。
 幾度舌打ちしても、し過ぎることなどないと思った。


continue




曹操と孔明君をどこで出会わせようかと、年表睨めっこした挙句の苦肉の策です。(苦笑!)
丁度年齢的にも美味しいし、大事件を掠る設定が好きですし。
ホント、長文体質でごめんなさい。ただ、出会って ちょっと惹かれるだけなのに。だらだらと序章をつけてしまいました。ただの自己満足 です。