鬼の住処



 問答無用で矢が射かけられた。
 頭上を体の脇を情け容赦なく雨のように降る中をただ逃走する。
 だから言わんこっちゃないと、今は足の赴くままに別れた自分勝手な男に毒づく。届く筈がない。 届いたところでニコリとお得意の余裕の笑みで一蹴されるがオチだ。
「割りにあわん!」
 林間に徐庶の咆哮が轟いた。



 至弱をもって至強と当たる。
 曹操と袁紹の雌雄を決する一戦。
 その顛末を目の辺りにしたいと、言い出したら聞かない我侭な男が言えば、 危険だからと周囲が諌めるのに好奇心の芽をもたげた兄弟子が付き従った。二人が居を構える荊州は襄陽から、 黄河より少し南に位置するこの地に、それこそ何日も駆けてやって来た。
 馬鹿げた行為だと正気の沙汰ではないと、何度も反芻し自問自答し、それでも己の物見高さに苦笑する 徐庶だった。
 官渡で曹操軍の陣構えを睥睨したあと、袁紹軍の本営がある陽武にまで足を伸ばすという諸葛亮を 止められなかったことを今更ながらに悔やむ。首に縄をつけてでも引っ張って帰ればよかった。ただ、その無事を祈って 徐庶は駆けたのだった。



 下草を掻き分け枝を払いながら諸葛亮の方も逃げていた。射手の追っ手をまくには狙いにくい林間に限る。 が、それも相手よりも持久力があっての勝負だ。息があがり足も縺れんばかりになって、漸く背後に気配が なくなった。
 ぬるりとした感覚と激痛に気づいて目をやると、上腕辺りからの出血でしとどに濡れていた。多少は抉られた かも知れない。どこか近くで沢の流れが聞こえる。とにかく傷口を洗わなければと、その音の方向へと鉛のような 足を引きずって向かった。
 漸く視界が開けた。最後の枝を払って鬱蒼とした森林を抜けた途端に、矢のような叱責が飛んだ。
「何やつ!」
 眩い陽の光に射られてかざした掌の向こうに、煌く青龍刀が綺麗な弧を描いて近づいてくる。最期は打ち首か、と 意識を手放す瞬間に、確かにそれを止める声を聞いた気がした。それもどうでもいいことだと、諸葛亮はその場に 倒れ伏した。



 寒気と吐き気が同時に湧きあがった。
 最初、隆中の我が家かと錯覚した。寒いので湯を沸かして欲しいと弟の均に伝えようとして、飛び起きた。 即座に起こる激痛から呻き声が迸る。肩で喘いでいる諸葛亮に低い声がかかった。
「気づいたか」
 ぼんやりと灯された燭台の下、瞳を瞬く先に胡床に座して杯を上げている武将の姿があった。牀の上の諸葛亮には 目もくれず次々と杯をあおっている。どれほど嗜んだのか、陣幕内に充満している酒精のむせ返りで知れようものだが、 当の武将は酩酊している様子はない。固まったまま凝視している諸葛亮に、その男は牀の傍らを顎でしゃくった。 綺麗にたたまれている着衣一式。そして己の体のあちこちに施された治療の形跡に漸く我に返った。
「私をお助けくださったのですか?」
 何故――と感謝の言葉より先に疑問が口についた。なおも杯を重ねる男はクツクツと自嘲気味に嗤う。
「ただの気まぐれだ。今更斥候の一つや二つ、屍を晒したところで、何ら状況に変化はない。感謝するには及ばん」
 それに――と鋭い眼光が諸葛亮を射抜く。獰猛な獣のような、それでいて深淵をたたえた水面に似た澄んだ瞳。 畏怖と憧憬が混在する。諸葛亮は指先の震えを気取られぬよう、上掛けの裾をぎゅっと掴んだ。
「おまえのような浅慮で覇気のない草や細作を遣わすほど、袁紹もヤキが回っているとは思えんからな。何者だ。 あの場で何をしていた」
「知的好奇心の探究のためと申せば、ご理解頂けましょうか」
 諸葛亮は瞬時に理解した。この武将は曹操孟徳その人なのだと。



「巫山戯たことを」
「そうでしょうか。戦において数の上で互角で向き合えるのは稀なこと。格差は生じます。しかし 此度のように十分の一の戦力で巨大な敵に挑まれた場合、何時までも多数が優勢であるとは思えません。 多数勢力にも綻びは存在しましょう。必ず転機は訪れます。それが何時なのか、どういった形なのか、それを認識し どう利用されるのか、知りたいと思いました」
 武将は酷く嫌悪も顕わな眼差しを向けてきた。
「察するに、三略六韜を修学し終えた学士が、机上論だけでは飽き足らなくなってのお遊びか。やはり浅薄この上ない。 素人が戦場に土足で踏み込む ような真似をするな! 学士は学士らしく、庵で水掛け論でも興じておればいい。おまえのように頭だけで物事を考える ヤツを見ると虫唾が走る。今宵は血は見たくない。儂の気が変わらぬうちに早々に立ち去るがよい!」
 激昂されてなぜか肝が据わった。呷っても呷っても酔えない酒なのだと気づき、余裕がでてきた。
「待つしか手はないとわたしも存じ上げます」
 ガタリと音を立てて胡床が蹴飛ばされた。次の瞬間には喉元近くで戟が唸る音がした。首の薄皮一枚、つつっと 血が滲む。しかし不思議と戦慄は覚えなかった。間近にまで迫った武将の目が心底冷え切っていたからだ。
「ふん、一端の軍師のつもりか。小賢しい」
「敵も大軍。ほんの僅かな糧秣の不足からくる不安は、こちら比ではないと思われます。満ち足りていたからこその 安堵が、足りないとわかるとじわじわと大軍の足元を掬いましょう」
「何だと?」
「失敗しても何度も敵の輜重を襲っていらっしゃるのでしょう? 奪えなくとも焼き払えるだけで、敵の 動揺は計り知れない。千丈の堤も蟻の一穴と申します」
 武将は手にしていた戟をかなぐり捨てると、牀の上の諸葛亮ににじり寄った。
「おまえ、儂に取り入って幕格にでもなろうという魂胆か」
「それほど身の程知らずではありません。丞相閣下の左右には、私如き若輩が侍る隙はないでしょう。先ほどからの ご慧眼どおり、一書生が物見高さ から実地検証に参っただけのこと。丞相閣下にお目通りが叶いましたのは、ただ僥倖にございました」



 曹操は、諸葛亮が想像していたよりもずっと小柄な男だった。遠くに居ると余計にそう感じた。だが今、間近に接してその 五体に漲る生命力と、周囲に張り詰める圧迫感に飲み込まれそうになる。
 曹操の手が伸び、彼の喉を鷲づかみにする。捻り上げられれば購えない。気に食わぬの一言で、片手で易々と絞め殺す 果断さも持ち合わせている。 彼は初めて戦慄を覚えた。
「傍に侍れと申したら、いかがする?」
「わ、私は飼い殺しにされるのを好みません」
「逃げれば殺す」
「持して死を待つより、逃げおおせて見せましょう」
――口の減らぬヤツだ、と曹操は喉にかけた手に力を入れる。ぐうっと諸葛亮の顎が仰け反った。
 治療のため麻布が巻かれただけの上半身。男のものとは思えぬ白い肌が垣間見える。漆黒を宿した双眸と、豊かな 黒髪がそれをさらに引き立てた。投げ出されたしなやかな四肢。滑らせればさぞかし手に馴染むのであろうと喉が 鳴った。女人ではない証拠の抗いの眼差しに、男の持つ加虐性が刺激されたとしても不思議はない。
「何時までその矜持が保てるか試してみるか。女日照りが続くむさ苦しい兵舎に放り込むのも一興。ここで弄りものに するのも酒肴の一つだ。さぁ、どう逃げおおす」
 首筋への圧迫感はそのままに、耳朶のあたりに吐息がかかった。そのまま落ち着くことなく唇は流離う。 両手を突っぱねて押しのけようにもびくともしない。
 曹操は、獲物を前に口の端を上げて愉しそうに嗤った。
「ち、力ない者を、弄る暇が丞相閣下にはおありか。戦況の変化は昼夜を問うてはくれません。機を見るのに舜な方が 何事に気取られる。ここで朽ち落ちて、天下を睥睨する野望を袁紹如きにくれてやるおつもりか。袁紹軍の先端は着々と この本陣へと前進しております。それでもどこかで風向きが変わるのを待っておられたのでしょう! その瞬間を 五感を研ぎ澄ませて張り巡らせなければならないのではないですか! 小さな取りこぼしがやがて大きな災厄の うねりへ変わることをご存知ない丞相ではないでしょう!」
 身を守るだけとは思えない純粋な怒りに曹操の動きが束の間止まった。だが、強く引き寄せられ抱きしめられ、 貪るように降りてきた荒々しい口付けに呼吸すら満足に与えられず、息苦しさから涙が伝い落ちる。贖う手足は無常にも 宙をかき、相手に何の打撃も与えてはいない。
 永遠に続くかと思われた瞬間、突然牀の上に放り出され、したたかに背を打ちつけた。むせ込んだ諸葛亮を斜め方向から 見下ろして曹操は言い放った。
「減らず口に興が削がれた」
 肩で呼吸を整え、向けられる強い視線に負けまいと睨みつける。それを愉快と一笑して曹操は続けた。
「今宵のうちに儂の前から消えうせろ。戦場でおまえのような者は目障りだ。だが、覚えておくがいい。何れ決する 袁紹との一戦が収束したのち、草の根を掻き分けてもおまえを探し出してくれる。おまえは儂のものだ」
 歯の根が噛み合わない。
 それは何に対する畏怖なのか。その在り処の所在なさによるものなのかも知れない。
 一度もその名を尋ねず、存在のみを頼りに探し出すと言い切る男の強い眼差しから、視線を外せない諸葛亮だった。



――了



「赤と黒」隆之さまのサイトの『プロジェクトS』に献上させて頂きました。訂正、押し付けました!
生意気孔明くん、喋る喋る。今後もその舌先三寸で困難を乗り切って頂きたいものです。
相変わらずの寸止めぶりで、中途半端なものでひたすら懺悔。でも、これに味をしめてしばらく草稿かも。
(趙雲はどうした?赤壁は何処へ行った?)