風が方向を変えた。 束の間、二人は身じろぎ一つできないでいる。 危ぶんでいた。だが、信じていた。 過信ではないと思いたかった。だが、畏れていた。 しかし希求は風を呼び確かに形となった。 策を弄し手立てをつくした僥倖という形となって。 周瑜は諸葛亮の腕を掴んでいた手を離すと、船べりから身を乗り出し、高く挙げていた手を一直線に烏林に 向けて指し示した。それは中継を経て黄蓋たちへと伝わり、歴史を変えるべく何艘もの単舸は長江の水面を 滑り出す。 まさに身震いするほどの歴史的瞬間。 至弱をもって至強と当たる至尊の戦い。 かつて河北に一大勢力を張っていた袁紹の軍を、その十分の一の兵力で曹操が敗走せしめた戦があった。 それは飽くなき勝利への渇望と、どんな綻びさえも逃さない研ぎ澄まされた感覚と、後ろを見る訳には いかなかった観念とが呼び込んだ必然的な奇跡。 それを今度は当の曹操が受ける側に立つ。 時の流れは残酷で、あの猜疑心の強い曹操にも僅かな慢心が生まれていたか。それとも裏の裏をかき過ぎたかは 分からないが、黄蓋を載せた佯降の船団は、揺るぎない大河を木の葉のように進む。 敵の壊滅を目指し一直線に。 彼はこの場に身を置く幸運を感じずにはいられなかった。 しかし刻限。騒然とし出した旗艦の船べりに周瑜を残し引き際を知る。彼は周瑜に背中を向けるとそのままの 状態で、ご武運をと小さく告げた。 周瑜も彼を振り返ることはない。 手を伸ばしたところで届かないと周知していたからだ。 どれ程渇望しようが手に入らないものがある。どれ程言葉を重ねても届かない想いもある。相容れない運命 だと諦観するしかなかったこの数日。 自分が劉備に劣っているとは考えられない。劉備の見せる懐の広さを同じように示せる自信だってある。 用兵も人心を掌握させる術も、そして武人として政治家としての均衡も、曹操に迫るものがあると自負している。 それをみすみす劉備如きに。 彼がここに留まらない些細な理由を己の資質の中に感じなくもないが、考えたところで益体もない。 ただ。 そう、己がもう十ほど年嵩だったらどうなっていただろうとは思う。年輪は彼の中で度量というふくらみを 見せ、違った結果をもたらせたかも知れないが、いま、この年齢でしかこの戦は出来なかっただろう。 曹操の侮りも見られなかっただろう。 だから彼はもう一度益体もないと呟いた。巡り合ったときを恨むなど唾棄すべきだ。 彼は大都督の顔だけで、背中合わせのままで、劉予州からの使者としての諸葛亮に言葉をかけた。 「いまは非常時。しかも戦場である。間もなく火の手も上がろう」 まだ、不気味な薄闇の中に煙る対岸を望んで周瑜は続けた。 「どういう経路で樊口に戻られるかは知らぬが、何れ 敵味方が錯綜する修羅場は避けてはとおれまい。敵陣の真っ只中を進むような真似はするまいが、 烏林から樊口方向に進む船を素通りさせるほど我が兵たちは甘くない。また、この事態に 御辺の安全を保障させる瑣末な命を出す暇もない。心してかかられよ」 「そのお言葉だけで十分です」 諸葛亮は心の底から頭を下げた。 ここで背後から斬り捨てられても、周瑜の名聞は何ら傷つかないというのに。 怒りに任せて刃を振るわれたところで、防ぐ術はないというのに。この稀代の勇将は背を向けているうちに 進めと温情を見せてくれた。 彼に詫びる言葉など見つからない。 「都督はどう思われているかは分かりませんが、いま、この場で、この戦であなたという将帥に出会えた 僥倖は生涯消えることはないでしょう」 ふと出会い、惹かれ目覚め、確かに交じり合い、いまは背中で鼓動を聞く。 ただ、こんなにも見事に軌跡を残されて、己を引き裂いてわが道をゆく。それを惜しいとはいまさらもう 思わないが、あなたと渡り合えた己を誇りに思います、と。 次に会うのは互いを屠る戦場かも知れない。けれどいまは感謝させてください、と言葉にならない願いの ような想いが去就した。 「ご武運を」 もう一度言い切って諸葛亮はその場を後にした。 周瑜の言葉は、もう返らない。 日は西の彼方に傾きかけ、黄蓋を載せた単舸(小型の船)は刻一刻曹操に近づいている。ヒタヒタと迫る 緊張感が高まる中、長江の水面は恐ろしいくらいの静寂に支配されていた。 旗艦から別の船に乗り移り、湖面に近づいて彼は思う。船を進めるようにこぎ手に命を出して少し躊躇した。 いまならまだ灯りを頼りにせずとも対岸にたどり着ける。というよりいましかない。寸刻の遅れは 己の生死に関わり、救助に向ってくれている趙雲との合流も難しくなる。 それでも彼は迷っていた。 北の対岸に視線を送り、心は東呉の船団にまだ残されていた。 船は背高い葦を進み、少しでも戦禍を逃れようと対岸へ向けて進む。 安全圏へ、劉備の元へと導く。 しかし、このまま―― 逡巡から握り締めた手に汗をかき始めたそのとき―― 突然、開けた葦の茂みから一艘の船が出現した。こぎ手に緊張が走る。彼も身構える。臨戦態勢を取るには ここには護衛もいない。 しかし、その舳先に身を乗り出すように佇む武人の姿を発見して、諸葛亮は膝から崩れそうになった。 「軍師どの!」 「――……」 安堵から声が出ない。姿が近づくだけで両手を伸ばしてしまいそうになる。何度もその名を口にしそうになる。 かの国にあったときのように、趙雲、趙雲と。 よくここまで。この場まで迎えに来てくれた。 刻限は切らなかった。場所も定めていない。だが東呉の船団にいた彼が劉備の元へ帰るとしたら、 この方向しかないと当たりをつけてくれていたのだろう。 矢もたてずに船を出してくれたのだろう。 舳先と舳先が出会いあい、脈打つ鼓動すら間近に感じられ、伸ばしかけた腕をそのままに彼はまた拳を握る。 その姿を認めて決心がついた。安心からの甘えに肝が据わる。 よくぞ、この場に、この瀬戸際の刻限に。 開き直った諸葛亮は、趙雲――すまないと、まずその言葉をかけた。 「ここで会えてよかった」 少し安堵の表情を浮かべた趙雲は彼の言葉を読み違えている。迎えてくれたことへの深謝だと思っている。 「違う。心底、誠心誠意、殊勝にも掛け値なしに謝っているんだ」 「は? いったい、何に対して?」 「申し訳ないが、少しだけ、少しだけ私に時間をくれ。ここで待っていて欲しい!」 「何を言っているんですか? 間もなく戦端が開かれるんですよ。ここで待てとはどういうおつもりか、 お話いただかないことにはあなたの願いは聞き届けられません。殴ってでも連れ帰る。私は私の使命を まっとうするまでだ」 当然ながら趙雲の形相が変わった。しかし、それに臆している暇はない。 「時間がないんだ。やり残したことがある! いまでなければ後悔する。ときが経てば言葉は届かなくなる。 それよりも、そんなに長い時間放って置く訳にはいかないんだ! これは私個人の問題。どんなに罵倒されても いいから、もう見捨ててもいいから、行かせてくれ!」 歯噛みの音が聞こえてきそうなほど、趙雲の端正な顔が歪む。本気で殴りつけそうな怒気に満ち溢れていた。 「本気か?」 「気が触れたと取ってくれても構わないが、相変わらず向こう見ずなだけで居たって平常だ」 「分かりました。では、こちらへ」 「厭だ!」 趙雲から差し出された手を払いのける。稚気にも等しい態度に趙雲の怒りは臨界点を越した。 「喧しい! 時間がないんだろう! 四の五の言ってると、襟首つかんで引きずり込むが宜しいか!」 「ちょ、――」 「早くこちらへ移られよ。東呉の兵にはお帰り頂いて、何処へだろうが私がお連れする。この答えでご満足で あろう?」 殴りつけるのは後でも出来ると、彼は言葉どおり諸葛亮の腕を渾身の力で引き寄せた。 その沸点の高い怒りから腕の付け根がもげるかと思った。 「趙雲……どの」 「早く! 行く先を指示されよ!」 趙雲は呆気に取られている東呉兵に労いの言葉をかけ、随行していた少年を兵に任せ先に帰した。 諸葛亮は兄が座している船の所在を聞く。 思ってもみなかった方向性とそのやり取りを、趙雲は前を睨み据えたまま聞いてきた。 東呉の船団が動き出した。多数の単舸が彼らとすれ違うように北岸を目指して進む。その中を逆行する彼らに 誰何の声をかける者も少なくはなかった。初めの一、二度はキチンと対応していた趙雲も、度重なるにつれ無言で 前方を睨むだけになっていった。その気迫に恐れをなした者もいただろう。 実際趙雲は背中で怒りを表現している。あれから無言の圧力をかけていた。だが、その背に覚えるのはやはり 安堵のみで、彼に頼りきっている己の浅ましさに苦笑するしかない諸葛亮だった。 教えられた船の船腹に張り付き、まず趙雲が乗り移る。敵襲かとざわめきたった様子が見て取れたが、 諸葛亮がたどり着く前に、彼は片膝をつき礼を取り、大声で呼ばわっていた。 「劉予州が臣、趙雲子竜と申す。諸葛瑾どのに早急のご相談があって参った所存。どうか、我が軍師の願いを 聞き届けられよ」 決戦を前にしてかく乱のつもりかとの声もかかった。実際そう取られても仕方がない状況だ。 殺気立つ東呉兵が不穏を隠さず色めき立つ。二人はたちまち剣を抜き払った兵に取り囲まれてしまった。 その中をかき分け現れた兄の声が届かなければ、よくて縄目。運が悪ければ一太刀浴びせられていただろう。 「待て! これなるは間違いなく我が弟。剣を下げよ! 静まれ!」 一体何事なのかとかける言葉もなく、息せき切った兄は肩を上下させながら、ほとんど無法者と化した 弟に視線を向ける。その傍らで趙雲が大きく息を吐いて立ち上がった。諸葛亮に誹謗を込めた一瞥喰らわ せたのは、もう条件反射のようなものだ。 取り合えず第一段階はどうにか突破出来たようだ。 「お前は劉備どのの元へ戻ったのではなかったのか。なぜ、ここにいる?」 その言葉を聞き、彼は兄の前に膝を折った。その殊勝な態度に趙雲は目を見張る。 「亮――」 「東呉兵たちを悪戯に騒がせたことをお許し下さい。ただ、私としましては兄上にどうしても詫びておかない ことには戻れないと気づき、こうしてまかり越しました」 「……おまえは何を――」 「先だって兄上をご不快にさせた言葉の数々、年甲斐もなく余りにも己の未熟さに汗顔の至りでありました」 「そのことならもうよい。事実であった。そなたの追った深手を気にしつつも、この地に残れとは心無い 一言であったと思っている。許してもらわねばならないのは私の方だ」 立ってくれと差し出された指先だけを見つめて彼は続けた。 「いいえ。我が身に降りかかった難は、いくら幼くても己で切り開かねばなりません。それをただ不在だったというだけで あなたのせいにして、痛みまで押し付けようとした。あなたに知っていて欲しかった。それでいて、いま 笑っていられるのは、己の技量のみで立ち直ったのだと気づかせたかっただけなのです。あなたの背中ばかり 追っていた小さな私が、あなたを越えたと顕示したかっただけ」 諸葛亮の声が掠れる。目を合わせないように努めていた趙雲も惹かれて視線を下げた。子供に戻ろうと でもしているのだろうか。彼の背中が小さく震えていた。 「多くの書物を読み解き、多くの知者の教えを乞い、数多の大綱を解したつもりが、人としての 何たるかをこれほど欠損していようとは。曲がりなりにも一軍の軍師となった身でありながら、 幼子の心のままであなたに合いまみえた未成熟さが情けなくあります。あなたと別れたときのまま 私は何ら成長していない」 一際高く上がった歓声に趙雲は辺りを見回した。船団は前進を続け、長江対岸に火の手が上がる。 とうとう始まった。一刻の猶予もない。だが、この不器用な兄弟を急かす言葉を彼は知らなかった。 「成長していない訳がない。立派になったものだよ、亮。お前は昔から突出した能力を持ちながら 周囲の顔色を見て取れる子供だった。貪欲に前を見据え、少しでも早く、誰よりも早く、この世の理り総てを 吸収しようとしているかのようだった。だからかえって私にはお前の心が見えなかったものだ」 「誰もが私に期待した。誰もが私の将来に夢を託した。誰もが私を褒めそやした。封じた訳では ないけれど、それに応える術しか知らなかったのです」 「そう。誰もがお前の頭を撫でたな。立派な官吏に、そして素晴らしい男に成長するだろうと。だが、頭を撫 でてその分どこかが歪に縮む。押さえつけてしまうのと変わりない」 「兄上……」 「いい大人になってとお前は言う。だが、幼い頃より泣き言を封じてきたお前が、私に当たらないで 誰に当たろう。誰がお前の鎧を外してくれよう。あのとき私は確かに哀しんでいた。それはこれまで お前の心底からの言葉を聞いたことがなかったからなのだよ。だから哀しくもあり、叶えられて嬉しくも あった」 あなたに労われては、また私は慢心してしまうと、彼は更に深く頭を垂れる。 「慢心の塊だった私が、殊勝にもここに来られたのは我が主公の影響でしょう。あの方が私のささくれを少しずつ 取り除いてくれた」 そうか、そうかと諸葛瑾は目を細めた。趙雲も同じように彼を見ている。 「お前は優しい。お前は脆い。しかし畏れるのはその事実ではなく、それを知りえない心貧しさだと 私は思う。お前にそれを教えてくれたのは劉予州どのだったのだな」 諸葛瑾は弟を立たせると戦局の拡大しつつある対岸を指差した。もうこれ以上は限界だ。 「行け、亮。弱き心を持ったまま進みなさい。それを忘れずにお前の道をゆくがいい。何処にいても 私はお前を見守り続けるよ」 「感謝しております」 その言葉を聞くよりも早く趙雲は東呉の若き重鎮に一礼すると踵を返した。諸葛亮もそれに倣う。 彼らを乗せた単舸が見えなくなるまで諸葛瑾はその背中を見送った。 目の前に点在し出した曹操軍を焼き尽くす紅蓮の炎。高らかな咆哮を上げて進む東呉の船団から 外れて彼らは彼らの帰る場所へと進む。災禍に巻き込まれないように目指した対岸は、趙雲が兵を 待機させておいた場所から離れざるを得なかった。 方向を確認し、趙雲は短く舌打をする。騎馬隊と合流するには相当の距離を両足で駆けねばならなかったからだ。 彼は無言で諸葛亮に手を伸ばし、その少し熱を持ったかそけき指先を握り締めた。 疲労の極限を超えていようが発熱していようが、これは彼の無謀の結果に起因する。多少無理を押しても そこまで連れて行かねばならない。 「足が折れるまで駆けて頂きます。喩え心の臓が破られようと、先ほどあなたが見せた男気に比べると、 困難は比ぶるまでもないでしょう?」 「丁寧な嫌味ありがとう。否定はしない。何処までもあなたについてゆくさ。お咎めはその後だろう」 「無論です。容赦しませんから覚悟しておいて下さい」 「想像するだけで、ここで敵に捕まった方がマシかも知れないなと思うよ。私なら丁重に扱ってくれるだろうし」 「それだけ憎まれ口が叩けるなら上等だ」 趙雲はヘラリを余裕の笑みを浮かべると、その手を引いたままで駆け出した。縺れるように動き出す。 鼓動は指先から伝播し彼の荒々しい息遣いまで伝えてくる。 趙雲は諸葛亮の足並みを鑑みない。ほとんど引きずられる格好だ。彼の危機感が猶予がないと伝えている 結果だと思う。あるいは意趣返しの一つかも。 それでも前だけを見て進む武人の膂力の強さに涙が溢れそうになった。彼はどんな想いも叶えてくれる。 己のために危険を顧みず走ってくれる。何処までも迎えに来てくれる。 そして叱り飛ばしてくれる。 彼がある限り全身で守り刀と変化してくれる。 ――趙雲。 あなたは私の南天燭そのものかも知れない。 やっと見つけた、私だけの守護神。 枝というよりも隆々とした大木のような存在が、これからもきつい日差しから防いでくれるのだろう。 この総てが注ぎ込まれるような感情をなんと呼ぶかは彼は知らない。 だが、バクバクと脈打つ心音を聞きながら、そんな発見が嬉しかった。 ――了
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な、なが! 漸く終了しました、MY赤壁。3、4話と言いながら楽しくて延々と書き続けたかった気分です(まだ?) ちょっと、補足といい訳ですが、諸葛兄弟の叔父、諸葛玄は予章で亡くなったという説と、 怪我をおして襄陽まで戻って亡くなったという説があるみたいです。で、あたしは前者を 選びました。 そしてラストの赤壁。諸葛瑾兄ちゃんが前線に出張ることは絶対ナイでしょう(苦笑!) 孫権とともに柴桑にいた筈。ま、お許し下さいと言うしかないです。 三国志で一番長い話になってしまいました。ここまでお付合いくださって感謝の言葉も ありません。(平伏) ラスト近くになってようやくチョコラーらしくなったので、ちょっと、後日談なんか書いてみました。 二人の激しい(全然別の意味で)愛のメロドラマとなってます。 短いのでこちらからリンク貼りました。 間違っても期待しちゃダメよ。 →おまけ 読んでみる? |