〜おまけ





 バキッという無骨な音がしたと思ったら、まず目の前が無数の星で埋め尽くされ、弾き飛ばされ背中から もんどり打って倒れた。 たどり着いた先が地面でも、皮衣を敷いた天幕内でよかったと変な気を回しながら、それでも暫くは背中と頬と、 双方から来る痛みに声も出ない諸葛亮だった。
「だからって何も拳で殴ることないでしょう!」
 腕を組んで彼を睨みつけている武人に向ってそう罵ったが、口が上手く回らない。彼は思い切り 顔をしかめた。その行為も痛みからままならなかった。
 易々と劉備軍の軍師を張り倒した張本人は、当然とばかりに薄笑みを浮かべている。
「申しあげた筈だ。容赦はしないと。本当は鞘で殴ってやろうと思ったのだが、それでは頬の骨が砕けて 本復に時間がかかりますからな。それは私の本意ではない」
「何を言っている。口中血だらけだ。骨、折れたかもしれない」
「喋れるなら大丈夫ですよ。暫くは羹が口に出来ないでしょうけどね」
「信じられない。顔だけが取り柄なのに」
 趙雲から差し出された布に口の中に充満する血を吐き出して、頬に手を添える。きっと明日には 紫色に腫れ上がっているだろう。揶われるにきまっている。その先陣である主公にどうやって取り繕おうかと 思案する諸葛亮だった。



 あの後、長江の北岸烏林一帯はトグロを巻く炎に包まれ、敗走を始めた曹操軍の追撃に転じた劉備軍と どうにか合流を果たした。残党狩りの様相を呈した駆り立てではあったが、惜しくもあと一歩のところで 曹操を取り逃がし、それでも上げた戦果の大きさに沸きかえった劉備軍だった。
 ほんの二、三ケ月前とは気色が違っていた。
 我が身が巻き起こした騒動などすっかり忘却の彼方だった頃に趙雲の訪いを受け、 出会い頭に問答無用で拳をお見舞いされたのだった。
「んとに執念深い。てっきり忘れてると思っていたのに」
「私はね、一度受けた恩義を忘れるような武人にだけはなるまいと心に誓ってきたのですよ。同様に 恩讐もそれ相当の手段を持って当たるのが筋というものでしょう。違いますか?」
「おん、って。そこまで言われるか」
「相談を受けたときには、理性がブチ切れて縊り殺しそうになった。私の精神修行の賜物に感謝なさい」
 そう言ってから彼は片膝をついて、床に胡座をかいたままの諸葛亮に濡れた布を差し出した。応急処置も 用意した上での腹いせだったようだ。
「手回しがいい」
「顔だけが命なのでしょう? 私としても形相の変わったあなたを見るのは忍びない」
「殴ってから言う科白か?」
「手加減するつもりだったのですよ、これでも。しかし、あなたの安心しきった顔を見ると、怒りが フツフツと沸いてきて、気づいたら渾身の力を出していた」
「何が精神修行の賜物だ。め一杯俗物じゃないか!」
「そう在りたいとは願いますが、悟りを開くには甘美な誘惑が多いもので」
 殴られた方とは反対の頬に趙雲の手が掛かるのを、諸葛亮はじっと見ていた。相変わらず節だった 荒々しい手だ。しかし、この手でなければ彼は助からなかっただろうし、この手でなければ縋ろうとも 思わなかった。
 槍を持つ者の手だ。
「修行が足りないな、趙雲子竜」
「その言葉、甘んじて受けましょう」



 まだ血の滲んでいる口角に趙雲の唇が添えられた。ゆっくりと押し付けられてそれでも痛みが走る。 思わず顔をしかめた彼に、舐めときゃ治りますとは正鵠を射ているだろうが、制裁を加えた者に 言われたくはない。
「これもお咎め? それとも拷問の一種かな」
「それほど加虐傾向はないと思われますが、近頃自信がない」
「清冽で鳴らした趙将軍らしくもない。あなたを慕っている兵卒がむせび泣きそうだ」
「泣かせときゃいい。誰も他人の心情深くまでは分からないのだから」
「惜しむらくは、その叙情的表現といまなさろうとしている行為が結びつかないことだな」
 背中に手を添えられゆっくりと身体を傾けると、圧迫するように覆いかぶさる男の身体から 日向に干された草の香りとともに、汗の匂いが迫り来る。その熱に包まれていたくて、彼は初めて 己から手を伸ばし趙雲の背をかき抱いた。
 意外なものを見るように趙雲の動きが束の間、止まる。跳ね上がった鼓動が心地よく、更に 力を込めた諸葛亮だった。
 初め――と、趙雲は腕に閉じ込めた筈の男に抱きしめられ、彼の肩口辺りに言葉を吐き出した。
「初め、行かせてくれと言われて、てっきり大都督の元へ戻られるのだと邪心いたしました」
「それは嫉妬と受け取っていいのかな?」
「どうとでも」
「でも私が兄に伝えたいことがあると言わなかったのに、あなたは行かせてくれたじゃないか」
「孔明どのが我らを捨てて、東呉に組するおつもりなら、それでもいいと思ったのですよ。 あなたが心底からそれを欲するなら、叶えて差し上げるべきだと」
「優秀な主騎だ」
「実際私の懸念どおりになっていたら、あなたと周瑜どのが並び立つ場を見てしまったら、 どうしていたかは想像もつきませんがね」
「東呉は総崩れ。曹操軍は力を吹き返し、周瑜のあだ討ちに躍起となった孫権も出陣しての泥沼と 化していた訳か。想像するだけで身の毛がよだつ」
 私は勝負の見えている戦をするほど浮世ばなれしていないんだと、諸葛亮はクスクス笑った。
「けれど、嫉妬深い主騎を持つと苦労するな」
「手の早い主騎もでしょう」
「そう、殴りつけておいて組み敷くなんて恐るべき人非人だ。外道のなす業だな。主公が知ったら 憤死されるのではないだろうか?」
「その外道にしがみ付いているあなたも業の深いことだ」
 天幕の外を駆けるように過ぎていった風は、何処からきて何処へゆくのだろう。暫くその方向に 想いを馳せながら、この痺れるような刺激に身を委ねている己が一番罪深いと、諸葛亮は総てを享受する ために目を閉じた。




――おしまい ♪