身じろぎ一つ叶わない沈黙の中、変わる筈のない北東からの風が軍旗をなぶり、彼らの間を過ぎっていった。 周瑜は少し勿体ぶるような間をおいて、荊州から下ってきた三人を確認するべく視線を移す。 最後に選ばれたのは諸葛亮で、その面にピタリと合わせたままで彼は劉備に伺いをたてた。 「諸葛亮どのには、ここで一緒に帰られてはどうかとお尋ねしましたが、いま少し我らと行動を共にする と断言されました。ことの顛末を見届ける義務があると。私にとりましても、ご一緒頂くと心強い。 もう暫くお借りしても宜しいでしょうか?」 使者としての諸葛亮の務めは終わっていた。これ以上の長逗留は、 ある意味劉備が曹操の大軍に恐れをなして寝返らないための人質ともいえる。位置的に両陣営に 挟まれた格好の劉備軍には、東呉の背後をついて孫権の首を手土産に、河北からの大勢力 に帰順するという選択肢もあるからだ。 尤も、この歴戦の将がその手段を選ぶとは周瑜も考えていない。 人質などとただのいい訳。 それは、いま少しと願う余りにも哀しい感情の発露だった。 なにものにも忖度しない劉備はニコリと笑みを返す。 「大都督さえ宜しければ、我らとしては一向に。尤も縄をつけて連れ帰ろうとしても、なんやかんやと 言葉を重ねてその縄から逃れてしまうような男ですからな。命を挟む余地などござらん。これに関しては、 野放しが一番。何れ帰って来るだろうと、放蕩息子を持ったような気持で待っているに越したことはない のですよ」 「ご信頼が厚くていらっしゃる」 「信頼もなにも他に取るべき道がないですからな」 劉備の低い呟きに周瑜は小さく目礼をした。では、と立ち上がりかけた彼らに向って、いままで無言を 通してきた男が、諸葛亮に言葉をかけてきた。 「何かご不自由はありませんか」 「大丈夫、ないよ」 「では、お手伝いすることは?」 「何れ、頃合に」 「承知」 久し振りに趙雲の声を聞いたと思った。長く長く失っていた彼の言葉一つ一つに包まれている浮遊感を 感じずにはいられない。そしてさらに、彼の優秀な主騎が彼の僅かな変化も見逃さない真摯な視線が 痛くもあった。 あからさまに信用していないといった眼差しが。 その言葉に引かれ、帰る足を止めて周瑜が振り返った。 「そちらは?」 「趙雲子竜と申します。我が軍師の主騎を努めさせて頂いております」 趙雲は視線を下げ、堅苦しい挨拶を送る。案じていた以上の周瑜の秀麗さに戸惑っているとしたら、 意外と可愛げもあるのだが、とは諸葛亮。高みからの意見だ。 「ほう、常山の趙雲どのか。長阪でのご活躍は聞き及んでおります」 「勿体ないお言葉です」 「諸葛亮どのの主騎など、並みの胆力では勤まりますまい。ご苦労が忍ばれる」 「ご慧眼痛み入ります。軍師どのの自分勝手な行動に振り回される毎日です」 「皆して随分な仰いようですね。それこそ私は、寸暇を惜しんで、劉備軍の危機を回避する手立てを搾り出す 毎日だというのに」 諸葛亮は少し口を尖らせて三人に視線を這わせていった。趙雲は当然だとばかりに口の端を上げる。 「軍師どのが慎重なのは最初の取っ掛かりだけだと、誰もが周知のことですよ。言いがかりだと言う前に、 ご自分の胸に手を当てて考えて御覧なさい」 「そうは仰いますが、私はかなり計算高く動いているつもりです。多少の無理はむしろ範疇ですよ。 それよりも無茶だとか無謀だとかの形容は、単身で敵に斬り込んでいくようなあなたに言われたくはない ですね」 「わたしは己の技量を熟知しておりますから。大丈夫だと思うから駆ける。身体が覚えている」 「それはこちらの科白だ。私だって自分に出来ることと出来ないことの判別くらいありますよ。現に これまでだって――」 「近頃ね、あなたがいままで無事だという事実は、私の能力の高さを証明するものだという自負が沸いてき ていますよ」 「いけ図々しい」 「いい加減にしないか、大人気ない」 聞いていられないと劉備が二人の間に分け入った。端から聞いているとただの痴話喧嘩だ。 「だいたい、一番被害を被っているのは趙雲だからな。説得力がある。少しは反省しろ、孔明」 「主公!」 いっそ居心地の悪いくらいの長閑な雰囲気の中で、蕩けるようなはにかみを見せた諸葛亮に周瑜は反発を 感じた。この男がこのようなぬるま湯の関係を好むのだろうかと。 己をも傷つけずにはいられない抜き身の刀身が。 味方であろうとも斬るか斬られるかの崖っぷちを楽しむ男の筈が、劉備軍において好意という名の慈愛に 丸抱えにされ切っ先が鈍る。 それは彼の知る諸葛亮ではない。 ただ、周瑜の目には醜悪としか映らなかった。 歪んだ妬心だとの自覚は確かに、ある。 あるが、思い至った周瑜はぞっとするような低い声で趙雲の名を呼んだ。 「南天燭の枝は、あなたが託されたのだろうか?」 醜く歪む己の心根に眩暈を覚える。だが、それを確かめずには、そしてその事実をその相手に示さずには いられなかった。諸葛亮は息を詰めている。劉備は意を掴めないといった顔をしている。 そして当の趙雲は端からは分からないくらいに眉をひそめ、その昏さに応えて余りある声を絞り出した。 「ご推察のとおりです」 諸葛亮の喉がゴクリと鳴った。 それが合図とでもいうふうに二人同時に刀の鍔に手が掛かる。恐らく二人とも他意はない。感情が昂ぶった ときの武人の習い性だろう。彼は獣同士が低い唸り声を上げて恫喝し合う さまを見届け、そして鬱積した怒りが火花を散らすこの場に身を置くしか手はなかった。 「聞けば、魔よけの、そして戒めの護符だとか。あれをどのように携帯していたかはご存知か?」 「存じ上げません」 「すっかり枯れてしまったあれを懐紙に包み、いついかなるときも肌身離さずお持ちだったようだ。そう、 それこそ夜着の中にまで」 場の空気が一気にキンと冷える。 諸葛亮は周瑜を見据えた。その視線を周瑜は受け止めない。劉備はチラリと視線だけを趙雲に向けた。 誰も言葉を発せない僅かな沈黙。それを周瑜は楽しんでいる。 それをこの場で口にするか。 まったく底意地が悪い見事な仕返しだと、喉まで出かけて口籠もる。哂い出してしまいたいくらいの凍り 具合だ。 様々な感情がうごめく中、趙雲は一度緊張を解き、手にした刀のコジリを掌で弄んでいた。 それを抜く筈がない。ここで抜刀すればいままでの算段が総て水泡に帰す。また、劉備軍にとっては乾坤一擲 の唯一といってもいい生存の道を、趙雲が理解していないとは露ほども思っていない。 また、それほど激情に流される性質でもない。 ただ、形の見えない苛立ちをその行為で誤魔化しているようだった。 彼の僅かな感情の揺れに諸葛亮は目を奪われる。趙雲の指の動きから伝播するものに痺れを感じた。 趙雲はキリと音がするくらいの表情で周瑜に向う。続けられた声音は恐ろしいくらいに冷静だった。 「託したことに意味があるのです。それが利くかどうかまでは与り知らぬことゆえ。 それでも私は――厄除けは功を奏したと思われますが」 強い願いが一方通行だろうが交わろうが、そこまでは関与できないと彼は言う。あとは預けた者がどう 受け止めるかだと。 それは確かに諸葛亮の体の中に芽吹いていた。縦横に根付いていた。肝心なときに張られた護身結界に囚われて しまった。 理由なく断言する趙雲に感情の総てが流れ込みそうになった。行方知れずの濁流が出口を求めて体内を駆 け巡る。劉備や周瑜がこの場にいなければ彼に縋りついたかも知れない。 引き裂かれそうになっても、あんなにも心地よく。 こんな、こんな枯れた小枝一つで、よくもここまで。 一人離れて東呉に。その間、一体何度この人の名を呼んだだろう。 趙雲、趙雲。趙雲と。 諸葛亮は一度瞑目し、きっぱりとその秀麗な面を上げた。 「私は知らなかったのですよ」 彼は一度言葉を切り、何がと問われる視線の先に兄の姿を思い浮かべる。 「多くの方から託された様々な思いは、私自身の弱さを露呈させ、目を見開かされることも暫しでした。 甘えて、縋って、強いつもりがまた寄りかかって」 ――こんなにも支えられて。 大都督、と周瑜を呼ぶ。 「大都督のご英断には股慄すら覚えました。必ずや奇跡を呼び起こしましょう」 そして今度はゆっくりとその視線を劉備に移す。 「主公がご覧になられたように、東呉の水軍は数こそ劣っているものの 士気と気概は曹操軍を凌駕しております。大都督も迎え撃つのではなく、打って出るおつもりです。 そのための血路も開かれました。ここは東呉軍の庭も同然です。必ずや、長江は曹操軍の流す血で染まること でしょう。手はずどおり、主公には機を失することなく敗走する曹操軍の追撃を」 「承知した」 彼はもう一度、機を失することなくと重ねた。それは趙雲に向けた言葉。彼なら読み違えることはないだろう。 私を――必ず迎えに来てください、と。 曹操軍は長江を隔てた北岸の烏林に陣を張り、東呉はその南岸の赤壁で帆先を合わせて対峙する。 ジリジリと肌を焦がすような焦燥感の中、彼らは陣を彩る軍旗の向きが変わるそのときだけを固唾を飲んで 見守っていた。船団の最前列に控えるように持している黄蓋を載せた単舸(小型の船)も周瑜の喚呼だけを待っている。 焦れる。 季節にそぐわない汗が流れる。真横に佇む周瑜の顔は蒼白だった。曹操軍の総攻撃は恐らく未明だろうと 斥候は伝えてきている。奇襲で出鼻を挫くしかない作戦で、遅れを取るわけにはいかない。 しかし風はいっかな変わる気配を見せない。 「諸葛亮どの」 周瑜は搾り出すような声音をかけてきた。緊張は二人の間に横たわる空気を震わせ、痛いほどに肌に突き 刺さる。 「くどいようだが、いまならまだ間に合う。単舸を出させよう。劉備どのの元に戻られるがいい。 ここまで付き合う必要はない」 「……」 「雌雄を決する戦だ。食うか食われるか。どちらもが生き残れるような生易しいものではない。そのような 瀬戸際にあって、御辺が拠りどころとした者たちの元に在るのが筋というもの。この私に背を向けると 言うのならここに居るべきではない。そうではないのか」 真横に並ぶつもりもないくせにと、周瑜は前を見据えたままだった。その表情を捉えられない。彼も また視線を交じ合えることなく言葉を返した。 「私は生きますし、我が主公も同じように贖います。離れていてはその安否は窺い知れないけれど、生きて いてくれると希望も持てる。必ず風穴を開けてくれるだろうと曙光も覗きましょう。そのために私はここに 残りました。私が踏みとどまることで主公も死力を尽して戦われる。逆も然りです」 「御辺の詭弁は聞き飽きたわ」 「あなた方の血を吐くような機略に惹かれてしまいましたし、それを見届けるまでは動けない」 「最後だと申した。いま戻らねば二度と御辺の腕を離さぬと言えばどうする」 「都督――」 「生きるというなら背を向けたまま立ち去れ。そうでなければ、死地への道程を諸共にするまでだ。二度と あの男には会えんぞ!」 真っ直ぐに伸びてきた周瑜の指が彼を腕を掴んだ。掴んで離さなかった。ゆっくりと指を辿り、 肘から肩に行き着き、周瑜の面へと辿ったその更に先――。 「周瑜どの!」 なびいていた軍旗が一度勢いを失った刹那――。 方向を変えてたなびき始めた。 |