〜6





 権力欲には皆無な性質だと思っていた。
 まして征服欲もない。理想はあるが、戦乱の世を平定したいという よりも、いかにして戦を減らすことが出来るか。期間を短くできるか。担えるとしたらその程度の力しかない。 それまでの道程はあまりに遠いとの認識。
 では、この周瑜の希いに歓喜する訳はどこに所以するのだろうか。主君にと選んだ劉備よりも、より 強く震える訳は出世欲か。周瑜に惹かれる訳の先に見え隠れする壮大な野望に呼応する訳は。
 諸葛亮の迷いは間近にいる周瑜に直に伝わる。満足そうな笑みに顔が火照った。 言葉一つでここまで篭絡させられて、さぞ満足だろうなと、そう思った。
「お前が選んだ劉備どのがいかに優れた御仁でも、いまから理想を語るには些か老齢に過ぎよう。 だが、お前と私には時間という何よりの強みがある」
 聞きようによっては、孫家を簒奪すると言って憚らない潔さと求心力。喩え手段が苛烈でも目的のために なら老将をも打ちつける。またそれを甘受する将もいて無謀を実現可能な域にまで高められる。
 人徳の人という看板を掲げている劉備にはその英断は無理だろう。その部分で歯噛みせざるを得ない場面は これから何度も訪れる。
 予想できる。
 劉備の劉備たる部分に苛立ちがなかったとは言えなかった。
 周瑜にその迷いはない。必要に応じて斬れと進言すれば、同胞にだって刃を向けられる。同族だからと いって矛先を和らげたりはしない。主君だって同等だ。
 理想的ではないか。
 権力欲を謳歌するためには。
「新たな発見だな。お前はこの程度の言葉で腰砕けになってしまうのか?」
 周瑜は片手で彼の腰を抱き取った。崩れそうになる体は、ほぼその腕に全体重を預けてしまっている。 受け止められる安堵感に視線がかすみそうになった。
 なにも周瑜だけが彼を丸抱えしてくれる訳でもない。同じような熱い腕を体が知っている。
 心も知っている。
 だがやはり、これほど共鳴する男の渇望に酔ってしまいそうになる。理想を語られては陥落は呆気ない。 趙雲の言うどおりだと思った。一人で来なければよかった。
――私は一体誰となにを成し遂げたかったのか
 己が掲げた理想すら霞んでしまう。
 引き裂かれる。
 体中が上げる悲鳴を聞きつけたのか、周瑜の唇が彼のそこに合わせられた。ゆったりと抵抗を失った 体ごと抱きしめられ、バラバラに動く周瑜の指は、そこここに鮮やかな軌跡を残す。
 反応を示し、空を流離った腕は周瑜の背に縋りつきそうになった。
 自ら乞うてしまいそうになる。
 悲鳴は口腔で渦を巻き、嚥下され、蹂躙された直裁な愛撫に――突然、記憶が爆発した。
 覚醒した体が激しく抵抗した。
 脳内が甘受しているのに、四肢が否と突っぱねる。瞳を瞬かせて、なぜだと自問する己がいた。
 同じような周瑜の視線とぶつかる。
 そして弾いてしまう。
 この体は知らない。
 趙雲じゃない。
 瞬時に。
 微睡みが破られた。



 矜持の高さから周瑜はなぜだとは問えない。仮に問われても答えられない。
 これほど欲しいと願ってなぜ手に入らない。
 それは二人に共通する想いだった。
 歪められた周瑜の瞳は憎しみよりも悲しみが勝つ。手の中で暖めたかった珠玉の玉が、突然目の前で 砕けた。ただ、呆然とその事実を見て取るしか出来ない。
 いまは刹那いほどの悲しみも、何れ、憎しみで覆われて牙をむくだろう。彼はそれほど甘くはない。 自分はただの裏切り者だ。ドクドクと激しい鼓動が耳奥で鳴っていた。
――なにがそうさせたのだろう。
 決定的な何かが拒否を示した。これほど共鳴したこの佳人を突っぱねた。
 周瑜とならば迷うことなく理想を貫ける。人望もある。力もある。苛烈さも持ち合わせている。 そして視線の先も見通せる。
 けれども。
――迷うことなく?
 そう、一直線に伸びた見晴らしのいい道が欲しかった訳ではない。迷わないで進んではいけないのだ。 特に自分のように理想で周りが見えなくなる者にとって。
 心に刃を持った者にとって。



 もう二度と交じり合えることはない哀しみに、別の震えが襲い来た。
 周瑜は居住まいを正し彼から体を離した。僅かな隙間がやけに寒々しい。この近さで、隔てられた距離は あまりに遠い。
 その隙間を埋める手は、もう二度と伸ばせない。
「あす、全軍を率いて樊口に上る。劉予州どのが慰労に参られるらしい。会見するつもりだ。その際に、 御辺も一緒に帰られてはどうか?」
 恐らく、周瑜が見せた最後の優しさ。
 逃げろと言っている。彼の憎しみが溢れてしまう前に、その手で斬り裂いてしまう衝動に 動かされる前に、消えろと誘っている。お前を自ら殺めたくはないと叫んでいた。
 だから頼む。帰ってくれ。消えてくれ、と。
 しかし――
「畏れながら、東呉に火種を持ち込んだ張本人として、ことの顛末を最後まで見守らせていただく義務が あろうかと」
 その優しさは受け取れない。資格すらない。
 あなたに刃向かうしか取る道はないと、心の中で頭を下げた。
 周瑜の見惚れるほど美しい顔は歪められることなく近くにある。これほど間近で見詰め合うのもきっと最後 だろう。
「では、好きに致せ」
 最後の言葉は余りにも冷たく。
 残念だと言い残して周瑜は出て行った。
 凍ってしまって涙すら出ない。
 張り詰めていた支えを失って、諸葛亮の背はズルズルと壁を伝い落ちた。体を支える力を使いきり、 そのままぺたんと床にしゃがみ込む。
 そう、確かに。
「残念だった、かも知れない……」
 心底、そう思う。



 翌日、周瑜率いる東呉の船団は長江を遡り樊口に到着した。そこには夏口から移動してきた劉備軍が 陣を引いている。昨日周瑜は会見と言ったが、彼が出向いていくような真似はしない。多忙で 手が離せないから、慰労に来たくば勝手にそちらから赴くがよかろうと高飛車に出たらしい。
 周瑜らしい高慢さだ。
 だが、そんな青臭い挑発に憤るような劉備ではない。残念ながら私の主公の方が一枚も二枚も老獪ですよ、 と船の上で諸葛亮はほくそ笑んだ。
 久し振りに劉備に会える。そう思うだけで顔がほころんだ。どこかが氷解するのを感じる。
 周瑜を退け劉備でなければならない訳は多分その辺りにある。
 彼はそう考えることにした。
 あれから兄の姿を見ていない。従軍している筈だから船団のどこかで彼を目の端に止めているのだろう。
 傷つけたままの余りに小さな弟を。
 兄を思うと頑是無い子供に戻ってしまう。刀身だけは大きくなった抜き身のままの自分を、斬りつけられても 痛いとも言わずに見守っていてくれる。その兄の傷口とキチンと相対しなけれなならない。
 でなければ、いつまでたっても十二の子供のままだ。
 劉備に近づくとそんな殊勝な考えも浮かんでくる。実際、現金なうえに心ごと持っていかれている。苦笑し ながらも顔が綻ぶ。
 これほど依存していたとは自分でも少し驚きだ。
 船が接岸し下船の準備を船べりで眺めていると、背後から沓音高く周瑜が近づいてきた。ピタリと彼の 真後ろで止まり、少し身じろいだ華奢な背を追い越し、岸辺を指差した。
「劉予州どのだ。余程御辺が心配と見える。ここで待っていたようだな」
 周瑜の指差す先、川辺から少し盛り上がった林が切り開かれた場所に騎乗の人物が見て取れた。隋人として ついているのは紛れもなく趙雲。表情など見て取れない距離なのに、痛いほどの視線と気遣いさえも 突き刺さった。
 前のめりに駆け出したい衝動を背中に感じた周瑜の視線が押し止めた。劉備と周瑜は初見。恐らく、劉備の 人となりを見極めようとしている。会見如何によっては三人まとめて東呉の兵に囲まれる危惧すらあった。
 だが、劉備も危険は承知しているだろう。のん気に見えて自己防衛本能の高い人だ。
 彼は後ろを振り返り、薄っすらと笑うと周瑜を促して下船した。



 久し振りに会った主君劉備は目尻の皺を一層寄せ、大層な数の隋人に囲まれた周瑜を出迎えた。 領袖たる劉備が孫権麾下の提督の元に足を運ぶ謂れはない。しかし礼を失すると感じない辺りが 劉備たる所以だった。
 また懐の違いを見せ付ける算段かも知れない。
 劉備はニコニコと笑顔を振りまきながら周瑜と諸葛亮を労った。後ろに控える趙雲は表情を変えず立ち尽くして いる。視線で小さく挨拶を送ると、少しだけ無表情がほころんだ。安堵したとその間合いが語っていた。
「噂には聞いておりましたが、それに違わぬ素晴らしい水軍だ。一糸乱れず水辺を進む姿に感服致した。 俄か召集の曹操軍とは比べ物になりますまい」
「歴戦の勇将にお褒め頂き言葉もございません。曹操の水軍をもうご覧になられたのか?」
「そう、数の上では曹操十五万の大軍。長江を埋め尽くすほどの勢いはござった。しかし、なにやらあちらは 疫病が蔓延しているようですな」
 劉備軍の斥候が調べた最新情報だ。知らなかったのだろう。周瑜の顔色が変わる。
「河北から来た者にとってはこちらの水は身体に合わないと見える。狭い船内で瞬く間に兵たちの 間で伝染していったとか。かなり深刻だそうですよ」
「曹操軍は焦り、短期決戦に持ち込もうとする」
「そうなるでしょうな」
 サラリと告げてまたニコリと笑う。その頃合の計り難さに周瑜は戸惑いを見せていた。
「そう言えば孔明はどうだった? お前も瑯邪生れの荊州育ち。根っから中原以北の人間だ。具合が悪くなったりは していないか」
「え。いえ、私は、特に……」
「そうか。それはよかった」
 劉備は満足そうに微笑むと周瑜に向って語り出した。
「いや、どうもこれは気は強いが蒲柳の質ってヤツで、一旦体調を崩すと本復に時間がかかるんですよ。 いい大人に対して言う言葉じゃないが、水の合わぬそちらで大変なことになってやしないかと、 儂はそれが心配でね。だが顔色も良さそうなので安心しましたよ。 さぞかし周瑜どのによくして頂いたのでしょう」
 意味深な話の振り方に諸葛亮同様、周瑜も狼狽える。まるでここ何日かの二人の鬩ぎ合いを見ていたようだと 勘ぐってしまう。
 実際感じているのかも知れない。周瑜が諸葛亮を懐柔するだろうとは、安易に想像できる展開だ。 それは劉備が一番心配していた点かも知れない。劉備軍のゆく末よりも何よりも。
 その牽制の方法が劉備は独特なのだ。
 術中にはまりつつある。
 二人して。
 そして諸葛亮にすれば、もう何度もだ。



 周瑜は居心地が悪いのか少し身じろいだ。
 その気持はすごくよく分かる。劉備の度し難さに、自分の身の置き場をつい確認したくなる。
 それは何度も感じたことだった。
 劉備には周瑜と向き合っているような抜き身を抱く緊張感はまったくない。諸葛亮を片田舎の草庵から 引っ張り出したときに彼なりの構想を語ってみたが、それを理解しているようでしていない。 義に挟まれ身動きできなかったり風に流されてみたり。愚鈍のフリをする演じ方が一種独特だ。だが、 諸葛亮の緻密な計算の策を包み込む大風呂敷を持っている。
 周瑜も諸葛亮と同じ種類の人間だからその風呂敷に飲み込まれてしまうのだ。
「ところでつかぬことをお伺いしますが、孫権どのは陣頭には立たれないのでしょうか?」
 周瑜の逡巡を意にも解せずにコロリと話題を変えてきた。今度は懐に斬り込むつもりだ。 他人事だと、劉備に翻弄される姿を見るのはこんなに楽しいものかと思った。その表情に気づいたのか 趙雲に視線でたしなめられた。
「必要ないと判じました」
 周瑜の言葉は心なしか小さい。
「ふむ。やはり果敢であられるな。あの曹操の大戦力を前によく兵力を割かれたものだ。儂ならば恐ろしくて 出来まいよ。それにしても色々な展開を想定されて布陣されている。いままでうちはどちらかと言えば、 主従いつも団子にように固まって戦をして参りましたからな。参考になります」
 言外に長江での一戦で敗走するかも知れない危惧を抱いているのかと問うている。だから孫権の参軍を 穏健派が許さなかったのかと。
 周瑜の眉根が寄った。
 だから言ったでしょう、と彼は思う。主公の老獪さに私は足元にも及ばない、と。劉備はさらに続けた。
「我々は水の上での戦を得意とはしていない。東呉軍が叩いて敗走する曹操軍は我らにお任せ下さい。 しかし、戦況に応じて船団も用意しております。構えは二段も三段もが戦の常套ですからな」
「お心遣い、痛み入ります」
 そのほか戦の細かい打ち合わせなど劉備は得意ではないから、時間が勿体ないとばかりに席を立つ。 文官でもないから決まりきった挨拶もそこそこに、まぁお互い頑張りましょうと、凡そ緊張感の ない科白で踵を返した。周瑜はその後ろ姿を認め、続いて諸葛亮に厳しい視線を合わせる。
 言いたいことは山ほどあるだろうに、言葉に出来ず睨みつけるさまに少し溜飲が下がった。
 たぶん、周瑜は劉備が苦手に感じたのだろう。
 それでも尋ねてみたい。
 あなたは我が主公を厭うのだろうかと。