この地は。 真冬が近づいているというのにまだ漁が出来る。身を切られるといっても水温は、生まれ故郷や荊州に比ぶるまでも なく、吹きすさぶ風さえどこか長閑に感じる。 良人を失った継母が、先祖伝来の土地や墓を守るでもなく、何よりも優先させてここに帰りたかった訳が 分かる気もした。 恐らくどれほど冬が厳しくても凍死者など出ないのだろう。春先の温かさには心底穏やかになるのだろう。 気候と人情も比例する部分もあるかも知れない。凍るような冷たさに慣れた体には十二分過ぎるほどの 誘いだったろう。 これほど人に優しい土地柄なのに、かえってなにやら肌がざわつく。しつこいと思いながらもその一点が 相容れない。 長江沿岸は 陣中まで帰り着き、何れ来る決戦に備えて浮き足立つ兵士たちの間を縫うように彼は周瑜の在所を探す。 私室近くで隋人に尋ねると、議場で会議の真っ最中らしい。引き止められる訳でもなくご随意にと 告げられた。それは客人として信頼されているからではなく、害も益もないとタカを括られたのだとは 想像に難くない。 かえって有難いと彼は会議に使われているであろう議場へと急いだ。 「――」 それは――そこは最早会議と呼べるものではなかった。 半開きの扉から中へ潜り込み、その陰惨な状況に流石の彼の眉根も寄った。戸口近くに佇んでいた将の 一人が耐えられないと視線を落とす。周りからは呻き声すら上がっていた。 その中央に立ち悪鬼の如く顔を怒らせているのはかの美周郎。足元に蹲る老将に棒を振るう別の将の顔も 真っ青だ。 「くぅ、あ!」 「礼儀を知らぬ老いぼれが! 軍議の場を乱した咎はその身を持って償ってもらおう。止めて欲しくば、ここで 額を擦りつけ命乞でもするか」 「……っだ、だれが、才気走った青二才に、あ、頭を垂れるものか!」 「まだ言うか!」 「儂は、思うたことを言うたまで。それが気に入らないと、い、言うなら、軍議など必要なかろう!」 「手を休めるな!」 棒がしなる音と、肉を打つ音と、呻き声に混じって、汗の滴る音すらする。誰も周瑜の怒りに恐れをなして、 口を挟めないでいる。そんな状況だけは理解できた。 何があったのかと視線を巡らせると当惑し切った魯粛のそれとぶつかる。理由を掴めないでいるからなんの 思惟も含まなかったが、彼は背を押されたように周瑜の前に躍り出た。 実際、彼でしかこの無体は止められなかっただろう。 「もう、お止めください、大都督! お怒りをお納めください! ご老体に対するこれ以上打擲は、かえって 兵士たちの士気を下げかねません。ご理解ください!」 大都督に対する不信感が募るばかりだとは流石に口に出来なかったが、これくらいで引っ込むようでは、 周瑜も最初から老将に向って棒を打ちつける命など出したりはしないだろう。火に油を注ぐ結果にならなければ いいのにと、諸葛亮は諦観を決め込む。 「控えろ、魯粛! 軍務を預かる将たちが集うこの場で、大都督たる私を侮辱する罪は軍の尊厳にも関わる! この老いぼれも正面切って挑んだからには無事で済むなどと思うまい。望みどおり、その皺首を斬り落として くれるわ!」 「ふん! 吼えるだけしか能のない若造が! 一気に雌雄を決しようとしない大都督を臆病者と称してなにが 悪い! 大軍勢を前にして長逗留を決め込もうなどと能無しにもほどがあるわ! 斬るなら斬れ! 貴様如きが 最高位でふんぞり返っている孫家などになんの未練もない!」 「己! 言わせておけば!」 「黄蓋どの!」 魯粛はほどんと悲鳴に近い声を上げた。剣を払って黄蓋に狙いをつけた周瑜の前に転げるように進み出る。 周瑜はその魯粛を足蹴にでもしそうな勢いだ。 「お怒りはご尤もなれど、黄蓋どのは先々代より孫家に仕えし股肱の臣。忠義もさることながら、度々の功績 により我が君のご信任も大層篤いお方。その黄蓋どのを大都督がお斬りになられたと知られた殿の心痛は 如何ばかりでしょう!」 何卒――何卒剣をお納め下さいと、魯粛は地に額を擦りつける。周瑜は振り上げた剣を魯粛の頭上で ピタリと止めると、えも言われぬ笑みを浮かべた。それは怒りが静まったというよりも、より残虐さを 帯びた美さだった。 諸葛亮はこの顛末における周瑜の到達点を見極めようと視線を外せない。 「その方もこの老いぼれと並べて斬り捨ててやると言いたいが、賛軍校尉を失っては、なに一つ立ちゆかぬ。 魯粛の情けに免じてやろう」 そう言い捨て、今度は黄蓋に視線を合わせると、片膝をついて顔を近づけた。 「ご老体の処分は戦が収束するまで魯粛に預ける。しかし、言動不埒な者を同行するわけには いかない。蟄居を言い渡す。外に出ること一切まかりならん」 「なんだと?」 「我々が逆賊と雌雄を決するさまを指を咥えて見ておられるがよかろう」 「貴様! この一大事に将たる者を戦場に出さんと言うのか! そのような恥辱に塗れるくらいなら、 死を賜った方がマシだ! 貴様のその手でこの首を斬り落とせ!」 「そうしたいのはやまやまだが、それでは殿が嘆かれる。それだけは避けたい」 言い終えて立ち上がると周瑜は詰めていた兵に顎をしゃくった。連れていけとの命令だ。兵士たちは 黄蓋の両脇を抱え痛ましい体にできる限り触れないように、慎重に立たせようとする。それを 手で撥ね退けて黄蓋は周瑜を何度も口汚く罵った。 その声は暫く途切れることはなかった。 そのあと、連絡事項を確認しあい会議が開け、一人また一人と将たちが議場を出てゆく。最後の一人、 魯粛が引き上げても諸葛亮は戸口近くでそれに背を預けたまま動かなかった。 あの一幕は周瑜らしいともらしくないとも思う。衆目のある場でこき下ろされては、周瑜の立場がないだろう。 相手が老将だろうが生え抜きだろうが断罪して然るべき。だがそれも、一同が会した議場で行うだろうか。 見せしめなど逆効果でしかない。 そしてなにより、この周瑜が大軍勢を前に長逗留を決め込もうとした、という点に引っかかりを感じる。 そう、らしくないのは最初の取っ掛かりだったのだと、いま気づいた。 なるほど。それでは魯粛もグルだなと得心した。人の良さそうな顔をして迫真の演技だった。ホントウに震えていた ものな、と彼は腕組みをしたままクスリと哂う。 そのさまを認めて周瑜が険しい表情のまま近づいてきた。間近まで接近しても速度を緩めることなく、 腕の中に閉じ込めるかのように諸葛亮の背後の壁にダンと両手をつく。 彼が敬愛して止まない煮えたぎる瞳のままで。 「なぜ残っている。苦言の一つでも申してみたくなったか」 周瑜は探りを入れている。彼の反応が知りたくて仕方ないといったふうだ。意外と可愛げがある。 「ご老体相手になんと惨い真似を、ですか? 以前も申しあげましたが、そんなに私はお綺麗に出来ていない。 ただ、同じような状況であなたの取った行動を私が選べるかと言えば、少々心許ない。その潔さに敬服致します」 周瑜の眉根がスッと寄った。 悪戯にことを荒立てるなと諌められた。これみよがしに相手の権謀術数を見抜いたと宣言するなと釘を さされた。悪い癖だと。知らぬフリをしていた方が安全な場合が多い。その自己顕示欲の発露は身を滅ぼすと。 けれども、 この機を逃す訳にはいかないんだと、かの人に許しを請う。ここで絡まなければわざわざ出向いた意味がない。 戦いが収束したのちの寄る辺を劉備軍は失ってしまう。 偉そうに能書きを垂れるが、ただ、周瑜に己の存在を誇示したかっただけかも知れない。 「風は方向を変えるのだそうですね」 「ほう?」 「黄蓋どのは果敢でいらっしゃる。文字通りの捨て身だ」 「言っている意味がよく分からないな」 「ひとり言ですよ、少々大きめの」 「ならばついでに聞いておこう。方法は?」 「火計しかあり得ないと」 周瑜は閨の中での仕草のように彼の喉に片手をかけた。少し手心を加えて圧迫にかかる。別段苦しくは ないが顎が仰け反る。周瑜は視線を合わせない。喉元に語りかけてきた。 「逆賊曹操を一気に殲滅できる。この戦のあとは孫家の時代となるだろう」 「曹操の勢力を侮ってはなりません。ギョウの残存兵力が如何ほどかをご存じない都督ではないでしょう」 「それでも老賊は暫く動けまいよ」 周瑜はツラリと囁くように先を語る。それはその通りだと納得せざるを得なかった。一年か二年か。 その停滞は必ず曹操軍を腐らせる。時の勢いは確かにあるのだ。 その時を攻めて選んでいまの曹操があった。 周瑜はさらに続けた。 「孫家の臣となれ。さもなくばここで縊り殺す。どちらが好みだ」 「どちらもぞっとしませんね。東呉にはあなたという核がある。わたしの居場所がどこにありましょう。 それに魯粛どのもいらっしゃるというのに、まだ補佐が必要ですか? それともあなたの地位をすっかり 私のものにしても宜しいですか?」 「欲深いヤツだ。二番手に甘んじられないか。しかし、言うにことかいて、いの一番にそれを口にするか? 孫家に阿ねない訳は、劉予州どのにはある漢帝国再興という大義が、我らにはないと言い捨てると 思っていたがな」 「私が主公のお傍を離れたくないのは、酷く利己的な理由からです。大義が存在し掲げてよいのは劉協(献帝) さまだけではないでしょうか」 周瑜はその怜悧な美貌を崩して哂った。低い哂いだった。 「正直なヤツだな。劉備軍の存在事由を軍師自ら否定するか。御辺の雇い主も大変な男を引きずり出したものだ。 それを聞いたら卒倒しかねない」 「ご心配は無用です。看板はあるに越したことはないとの認識は、主公もご理解されています。 まぁ実際、孫家にはその看板すら見当たらないのも事実ですけれどね」 ふふんと哂ったあと、では、と周瑜は更に顔を近づける。いまにも触れてしまいそうな距離だった。 しかし、甘さは微塵もない。 「俺も正直に希おう。お前が欲しい。お前と共にありたい」 諸葛亮は背に緊張を走らせた。その余りに直裁な物言いについ、不意をつかれた。周瑜の言葉とは 思えない。しかし、その手の誘いは不遜だが慣れている。 そう、まさに色々な角度から乞われたものだ。 「私では孫策さまの代わりは勤まりません」 と、冷静に言い放った。だが周瑜は当然だとばかりに極上の笑みを浮かべる。 なんの衒いもない真の周瑜の笑顔だった。 「お前が孫策になる必要はない。俺がなる。孫策の総てが俺の希望だった。お前が願うなら俺が孫策となる。 だからお前は俺を受け継げ。俺の見てきたものを、戦いの総てを、地に足のついた野望を、守るものを、 守りたいものを、お前の生地に俺を注ぎ込んでやる」 ――総てを 間近で告げられて、グラリと膝から抜けそうになった。 どのような愛の囁きよりも睦言よりも命令よりもきつい束縛。どのような懇願よりも熱い思い。周瑜を受け継げとは 成り代われと言っているのではない。注ぎ込まれて混ざり合い、一つになって更に二人して高みへ。 縺れるように二人して。 総てを注ぎ込まれては、もう贖えない。 このような願いは初めて受けた。 鎖につながれて、なお歓喜に震える己すら想像出来る。 喉元と膝の震えが止められない。 体の最奥を貫かれているような官能が彼の体を充満する。身の内で獰猛に暴れる。 抱かれるよりも五感の総てで快楽に酔いしれる。 周瑜と彼にしか共鳴できないものがある。資質は似ても似つかない。ただ、掠られるだけで呼応する 深層がこれほど合致する相手もいないのではないか。 周瑜の笑顔が蕩ける。ただ、頷いてしまいそうな衝動を抑えられなかった。 |