〜4





 翌日諸葛亮は、開戦へ向けて本陣の体裁を整えるために騒然と仕出した居館を抜け出して、迎えの者と 一緒に兄の逗留先へと出向いた。
「兄上さまは、それはもう、首を長くしてお待ちです」
 と、使者がそう急かすのをふんわりとした笑みで返し、街並みに興味があるかのように態とゆったり江南の地 を踏みしめる。足が重いなどと孝の道に悖る。微塵も感じさせてはならなかった。
 その一歩は確実に過去へと繋がっていた。
 だが、なにも繕わずに過ごした無為の日々が、十三年間の空白を埋めてしまえるとも思えない。拘りで 体が強張るのは己だけでもない。兄の怯えも感じ取れるからこその逡巡だ。
 一言でも詫びられたら、許せないかも知れない。研ぎ澄まされた神経が持たないかも知れない。
 だれのせいでもないと、当たり前の言葉が出ないかも知れない。
 実の兄を傷つけるのに刃物はいらない。特に彼のような責任感の強い男にとって、瀕死に至らしめるのは なんと容易いことか。
 そんな諦めにも似た境地で彼は歩を進めていた。



 何れ孫家における文官の最高位に就くだろうとの責務を担っている兄は、弟を待たせていた堂内に入るや 一度目を細め、哀しいような笑顔を見せて迎えてくれた。伏せていた目線を上げた諸葛亮も、直ぐに口上が 浮かんでこない。つっかえるものがある。
 それはすれ違った時間だけのせいではなかった。
 彼は喉元を羹が通り過ぎる異物感をどうにか呑み込み、僅かな笑顔を見せた。
「見違えるかと思っておったが、変わりない様子に安堵した」
「兄上におかれましても、ご壮健のご様子で何よりです」
「荊州の二人も息災だと聞いているが」
「はい。姉上も婚家で恙なく。弟の均もそのホウ家でお世話になっております」
「そうか。書面でお前たちの様子は聞き及んでいたが、実際に目の前にすると安堵はひとしおだ」
 立派になってくれたと兄は袖で目頭を覆う。
 明晰な頭脳で洛陽の大学まで進み、一族の誉れだと誉めそやされた兄を、いまは背丈だけでは追い越し てしまっている。
 だが勝っているのは縦にばかり伸びた長さだけで、片や地にしっかりと根をつけ、 いまや押すに押されぬ東呉の主幹だ。どこか根無し草のような自分にはない確固たる基盤を持つ者の 安定感があった。
「これからの荊州は大変な事態を呼び込むことになる」
 分かりきっている正しい見解を兄は敢えて口にした。親が子を案ずる無償の愛に形を変え、鬱陶しいくらい の深さで諸葛亮を抉る。その温かさを受け入れる程、まだ健康ではなかったのかと、やはり己の中に巣食う しつこさを彼は呪った。
「ホウ家がいかに大豪族と言えど、地理的に荊州は各陣営の火種とも呼べる土地だ。可能であるならば お前たちを傍に置いておきたい。東呉だけが安息の地だと楽観を決め込んでいる訳ではない。まして、いまから この地を戦場にしようと目論む者が申しても説得力がないだろうが、荊州は危険過ぎる。それはお前も熟知 しておろう?」
「兄上、私は――」
「いままで散々放っておいて勝手な言い分だとは分かっているが、私もこの地でお前たちを迎えられるように 懸命に生きてきた。それなりの努力もしてきた。幸いにして財も名誉も多少は誇れるものを得た。 もうお前たちに不自由をかけさせない」
「……」
「継母上もいつもお前たちを気にかけておられる。兄弟が別たれたままでは余りに忍びないとな。 お前のこともそうだ。劉予州どのは立派な方だとは聞き及んでいるが、あの方の性質ではお前の苦労は 尽きないだろう?」
 申し訳なさそうに兄は言う。
 その人の良さそうな笑顔を捉えて、噴き出す澱のような血飛沫を見せ付けてやりたいと思った。あなたの せいではないけれど、それを叫ぶほど愚かではないつもりだったけれど、あなたが継母にかけた孝という名の情けのために、 私は受けなくてもいい瑕を負ってしまった。
 その血が未だに止まらないのだと。
 それを今更どう守ろうと言うのかと。
 血はどこから滴るのだろう。昨日受けた肩口の傷をいつの間にか掴み、涙となって袖口から伝う。



 そのさまを見て諸葛瑾は弾かれたように弟に詰め寄った。
「亮! 如何したその傷は!」
 手当てをと兄は家人を呼ぼうとする。その手を彼は強い力で押し留めた。
 もう片方の手は、開いた傷口を更に痛めつけようとする力を緩めることが出来なかった。
――兄上は、
 愚かな己を精一杯押しやろうとする。嫌悪に塗れてしまう前にと。
 しかし、痺れるほどに掴んでいた手を漸く離しはしたが、ドス黒いものが口をついて溢れ出した。
「兄上はご存知ないでしょうが、ホウ徳公先生は機を見るのに敏なお方。ただ隠居なさって大地と戯れておいで ではないのです。ご自分たちの身は何があっても守りとおされるでしょう。ですから、戦場に身を置く我らと共に あるよりも、二人にとってホウ家の一員でいることの方が遥かに安全だと申しあげたい」
「そ、それは分かっているが。亮、その傷は、刺客を差し向けられたのか? 斬りつけられたのか? 見せな さい。どうして傷口を開くような真似をする!」
「お聞き下さい、兄上。あの日、兄弟が別たれて直ぐに内乱に遭遇し、剣を持って戦い初めて人を殺し、 叔父上を犠牲に私たちだけ逃げおおせ、それでも、兄上の力なくても私たちは懸命に生きて参りました」
――逃げろ! お前が二人を守るのだ!
――嫌だ! 叔父上もご一緒に! でないと、でないと私は!
――姉や、小さな弟まで道連れにするつもりか!
 逃げろ。逃げて生きろと総てを託された。後方に叔父の悲鳴を聞きながら、家人に守られて予章の城を 抜け出した。そのあと味方と合流できたのはただの僥倖だ。その幸運が叔父には間に合わなかった。
 あのとき、あなたは何をしていたのか。
 そう問うて兄に言葉の刃を突き立てる。美しかった継母に順じて同じ江南にありながら、あなたは何をしていた のかと。子供じみた、あの日のまま成長しない醜い己が更に言葉を畳み掛ける。
「亮……わ、私は」
「姉上と均と三人で肩を寄せ合って生きて参りました。あなたなしで私たちは生きてきた。 それですら、二人は既にホウ家の人間として荊州と命運を共に生きようとする。私ですら止められない。 それは二人が選んだ寄る辺だからです」
 兄上には語る資格すらない。
 断罪のような言葉を吐き、彼はその場に兄を置き去りにして立ち去った。
 背後にうずくまる音を聞きながら。
 常識人である兄を瀕死に至らしめるのはこれほど簡単。
 あなたのせいではない。それは分かっている。ただ、あの場にいなかっただけでなんの罪もない。 痛みを分かち合えなかっただけで、それを咎だと喩えあなたが感じていたとしても、十三年も前の恨みなどなに もない。
 ただ。そう、ただ、ぶつけたかっただけの子供じみた妄執。
 折角張ったかさぶたに態と爪を立てて、血を滲ませ、ただ、伝えたかっただけなのです。
――それでも。
 滴る血はそれでも温かいものなのだと彼は思った。



 沸騰する頭を抱えたまま、ふらりと歩を進めればすぐに江水に行き着く。そのまま頭から突っ込んで なにもかも流してしまいたい心地に駆られた。
 いつも。
 いつも癒された筈の傷口に爪を立てて生きてきた気がする。敢えて何度も傷口を確認しては安堵する。 それが乱世を生き抜くための原動力だったのなら、己の周囲に位置する人たちは余りに気の毒だ。
 その最たる犠牲者をたったいま置き去りにして、この国の未来を憂うだなんておこがまし過ぎる。
 醜い心根を淀みない言葉の羅列で補い、頑是ない幼さを武装した容姿で覆い隠し、誰かを踏みにじり 誰もに甘えた姿を、江水の水面は総て映し出しているようだった。
 十四のあのときより、成長を止めてしまった幼いなにか。
 それを補うように形を変えた目を覆うばかりの醜悪な内面も。
 人を欺くために整えられた容姿も。
 諸葛亮は冷たさも気にならず一歩踏み出しくるぶし辺りまで河面に浸した。痛いという感覚が体中を 駆け巡る。それでも茹だった感情は収まらない。バシャリと水を両手ですくって頭からかぶった。 そのまま芯から冷え切るまで待つように暫く佇んでいた。
 長江の対岸夏口に駐屯していた劉備軍は、樊口に陣を移動させた頃だと、彼は北東の方向へ視線を 漂わせた。
 劉備軍からの伝令も孫権軍が放った細作も、彼の動きの細部まで漏らさないと息を潜めている。 主公の伝令はこの奇妙な行動を報告するのだろう。それを知ってかの人はどんな顔をするのだろうか。
 眉をひそめ、思い切り不機嫌丸出しで、凡そ上司に向けるとは思われないような蔑んだ声音で――
 愚かなことを、と。
 彼はもう一度河の水をすくって顔に浴びせた。
――愚かな。
――正気か。
――立場を弁えられよ。
 それでも、この身を切るような水温が温かいかの人の (かいな)に感じられる。
 別れ際に渡された魔よけは、自身の中に巣食う冷徹な帳まで祓ってはくれなかった。 その冷え切った己の心根に凍りそうになる。
 兄を斬り捨てた氷の刃が身の内で獰猛に暴れる。
 崩れる。
――崩れそうだよ、趙雲。
 会いたいと、まろび出そうな弱音の視線の先、投網漁の猟師を乗せた漁船が通り過ぎるさまが目に映る。 何れ引かれる戒厳令前に一仕事といった商魂逞しさで、それぞれの生活を守ろうとしている。
 この寒いのに入水でもするつもりかと訝しげに彼を捉えながら、猟師たちは一斉に網を投げ入れていた。 (うしとら)の方角から吹きすさぶ風に煽られたまま 彼はそれを眺めていた。
「漁が出来るのはこれで最後かもしれねえな」
「今年の冬は例年になく厳しいそうだし、まぁ、それどころじゃねえって話だし」
「そうさな、戦が始まるってんで、お祭りみてぇな騒ぎだ。この江水に軍艦が並ぶってのは本当か?」
「嫌だねぇ。俺たちの縄張りを荒さねえで欲しいもんさ」
「いつもなら、ほれ、巽の方角から暖かい風が吹く頃に、もう一度漁ができたんだが」
「あぁ、まず水が温んで魚の群れもここいらに集まってくるからな。長くて二日」
「一日だった年もあったな」
「無理かねえ、今年は」
 口動かさねえで、手ぇ動かせ、と誰かが一喝して猟師たちは仕事に精を出す。その作業を諸葛亮は ただ眺めていた。
 風は向きを変えるのか。
 時期外れの東南の風。
 ほんの一、二日風向きが変わったところで。
 何が出来る。何を組み立てられる。
 周瑜は知っているはずだ。
 それでも。
 それでも私が知っている事実で事態は好転する。
 主導権の一端を握ったままでいられる。
 体中を何かが駆け巡った。置き去りにしていた矜持が、厭世的に荒んでいた自我が鎌首をもたげる。 淀んだ澱を溜息と共に吐き出した顔は軍師の持つそれだった。
――風向きは変わってくれるのか。
 どんなときも。
 周瑜に会わなくては、と彼は濡れた袍衣を返して歩き出した。