「何を呆けているんだ! 黙って殺されてやるつもりか!」 激しく叱責されて我に返った。素早く身をひるがえし、助けに入ってくれた男の刀は綺麗な弧を描いて、 一人を血祭りに上げていた。躊躇いもなければ斬り口も鮮やかだ。数を減らした闖入者たちは目に見えて たじろいでいる。当然だろう。まさかこの男が、東呉の仇と判じた諸葛亮を守ろうとは思ってもみなかったに 違いない。 彼らに命令した者にとっても。 格好の頃合で登場した男、周瑜は膝をつく諸葛亮を睨めてから、残る闖入者に向って睥睨した。 「ここにおられる劉予州からのご使者に、何故の狼藉か聞かせてもらおう。かの陣営と結託して、曹操と ことを構えるという孫権さまのご決定に背こうという肚か! それすなわち、国主に対する反逆と受け取るが、 如何か! しかも、この周瑜に向って剣を振るう勇気がある者は前に出ろ。刀の錆にしてくれる!」 男たちは気の毒なくらい狼狽ている。 分かりきったことを、分かりきった相手に大見得を切っている周瑜に、苦笑が禁じ得ない。どうにか堪えた 訳は腕からくる痛みのためだ。それがなければ当人を目の前にして肩を震わせていただろう。 しかもこれは彼なりの踏み絵であり、通過儀式だ。 以後、勝手な振る舞いは許さないと家臣団に表明するための。そのために差し出された哀れな人身御供が 諸葛亮の立場だった。 笑わずにはいられない。 闖入者たちは合図もなく、踵を返すと脱兎の如く逃げ出した。その背を見送り、計ったような頃合で周瑜の 部下らしき男たちが登場した。何の命令もなく、そそくさと死体を片付け、来たときと同じように無言で 立ち去って行った。よくよく、指令が行き届いている。 呆れて諸葛亮はこれ見よがしに溜息をついた。 「見事に私を贄に捧げられましたね」 「見目麗しい贄ゆえ、食らいつきも早かったな」 「警戒はしておりましたが、多少は肝が冷えました。大都督自ら護衛して頂いているとは思いも寄りませんでした が」 「よく言う。豪胆にも食ってかかっていたではないか」 「おや、ご存知なのですか。一体いつから見守って頂いていたのでしょうね」 「健やかな寝顔も拝見仕りました」 「畏れながら、斬られる前に出てきてもらいたかった」 私は痛みに弱いんだと一人ごちる。ついでに体力もないし、と。だが、多少の嫌味など何の効果もない。 「賊相手に、目を見張るばかりの剣気を叩きつけていたではないか。ちょっとやそっとではやられないだろう と目論みましたが、一体何に気取られた?」 それには即答できずに目線を下げた。周瑜も敢えて畳み掛けてはこなかった。 周瑜は彼に手を貸すと、牀の上に腰掛けさせる。夜着の袖をめくり上げると、上腕の辺りが一直線に裂けていた。 それ程深くはない。放っておいても止まるだろうが、取りあえずの処置だけと周瑜は手早く止血を施した。 「恐れ入ります」 「申し訳なかったと取り合えずは謝っておこう」 「謝って頂かなくても結構です。何の取り決めがなくても、これはあなたの計画の一端でしょう。その寸劇に 登場させて頂いて光栄ですよ」 まるで撒き餌扱いだな、と笑った。 「不手際が生じて間に合わぬ場合もあったのだがな。それでも自国の民を犠牲にするよりは、 という程度にしか過ぎん。運が強いな。諸葛亮どのは」 「同盟国からの客人でしょう、私は。まこと血も涙もないお方だ」 「それを御辺が言うか? 火種を東呉に持ち込んだ張本人が。御辺の策により劉備軍は僅かに生き永らえ、そして 夥しい東呉の血が流れる。何れ頃合だ。放っておいても曹操はこの地を狙ってきただろう。だが、そこに瀕死の 劉備軍を配置した御辺の策に敬意を払ってやろう」 「では同罪ですね。自軍だけしか守れない私と、その私を晒し者にして家臣団の団結を意図されたあなたと。 しかし、東呉も磐石とは言い難い。内憂外患。獅子身中の虫。水増し兵力。我が身だけが可愛い豪族たち」 周瑜の視線を真正面から捕らえて、彼は冷然と笑った。 「身も心も休まれるときはないとお見受け致します」 顎を上げて労われて、周瑜は巻いた布越しに彼の傷ついた腕を掴んだ。心底瞳は冷えている。そのまま 縊り殺しそうな低い怒りを発していた。 止まっていた血がまた滲む。それに対して諸葛亮は悲鳴一つ上げなかった。 「口の減らぬ男だ。何者を敵に回そうとしているのか思い知らせてやろうか、諸葛亮どの?」 周瑜は彼の腕から手を離し、滲んだ血を自らの衣服で拭うと、 血の滲む彼の夜着を肩から片方だけ外した。斬られた腕ごとひんやりとした外気に晒され、 薄ら寒さを感じる。空いた手で胸元が肌蹴るのだけは阻止した。 「敵に回そうなどと滅相もない。ただ、あなたの掌の上で踊る道化にだけはなりたくないのですよ、私は」 「すんなりと道化に収まるようなタマか」 「気を締めていなくては簡単に持っていかれそうになる」 艶然と哂い周瑜の視線と絡めあった。冷やりと汗が背中を伝う。 「この綺麗な体に傷をつけて帰しては、劉備軍に余計な恨みを与えるやもしれんな」 そして、睦言とも取れる科白をこともなげに告げてきた。彼の反応を楽しんでいるのだろう。その駆け引きが、 その際どさが愉快だと思える自分に苦笑した。 そう言えば、趙雲に釘を刺されたなと、こんな場面で彼のことを思い出した。何と言われたのだっけ? そう、東呉で同じように攻められて、呆気なく陥落しそうだとか、どうだとか。 仮にも上司をあばずれのように。 事実もあるけれど少し違う。本気で抵抗するのが邪魔くさかったと言えば、趙雲はどんな顔をするだろう。 何用があって東呉へ赴いたのかお忘れか、と激怒でもしてくれるだろうか。 嫌な性分だな、との言葉は喉の奥でくぐもった。 仕掛けられたら同じ土俵で勝負しないと気が済まない。 言い訳がましいが、これは売られた喧嘩を買っているだけなのだと言って信用してもらえるだろうか。 しかし、端から見ればただ流されているとしか見えない行為に、顔向け出来ないな。 けれど、私は陥ちないよ、と精一杯呟いた。 「思い出し笑いなど余裕だな」 「失礼。しかし、綺麗でも何でもないですよ、私は。だからと言って穢れているとも思わないが」 「なるほど」 進めた周瑜の膝で牀がギシリと啼いた。上がりそうになる悲鳴をも一緒に呑み込む。 周瑜が見せた共犯者のような表情は、彼が見知っている誰よりも美しいと、心底そう思った。 けして核心に触れない思わせぶりな周瑜の唇は、瞼をゆきて頬を掠り、そこここを彷徨っている。 彼からねだるまで翻弄するつもりなのか、だが、その策に乗るものかと少し顔を背けた。 恥らっているような仕草だったかも知れないなと、どうも狂言じみた己の痴態を瞼の奥で想像してみた。 何をしているのだろうとは冷静な判断。互いが他に想う人の不在を埋めるように求め合おうとしている。 性質も面影も心根も思い描く明日も異なる相手だというのに。 重なるものなど何もない。見まごうことなどあり得ない。ただ、手応えのある相手だという認識でしか、 捕らえていない。 なのに、揺れる。 美周郎と称された男の横顔は、武人にありがちな硬質さよりもしなやかさが勝つ。薄明かりの中では、背中が ゾクリと粟立つほど甘い匂いを漂わせていた。 しかし、頬を滑る節だった指は確かに剣を生業とする者の証。そのまま喉元に到達して少し力を入れただけで、 簡単に縊り殺されても可笑しくはなかった。 そのギリギリの均衡が、快楽となって全身を駆け巡る。 情欲の火が灯る前に留めなければと周瑜の胸を突っぱねた。彼はそれが合図とでもいうように、隙間も 飛び越えて両手で頬を押さえにかかった。 斜めに。 角度を変えてもう一度。 呼気もままならないほどに強く扱われて、渾身の力で彼の唇から逃れた。追いすがるそれから何度も 逃れ、また触れて耳朶の奥から痺れ出し、どこまでが己の舌なのかさえ分からなくなる。 甘美な軌跡は頬を滑り首筋に残して肌蹴られた鎖骨に到達した。チロリと舌でなぞられ、かみ殺す喘ぎで 背はしなる。薄目の向こうで周瑜がトロリと哂った。 夜着の合わせを縫って周瑜の指の侵入を許す。許した先、戒めの、守り刀のような懐紙の中身がその指に触れた。 思い至って唇を離した周瑜は、諸葛亮の懐に仕舞われていた懐紙を取り出し、幾重にも折りたたまれたそれを広げた。 「これは――」 ふと、我に返って驚いた顔をしているのは周瑜の方だ。いまは枯れてしまっている小枝を、後生大事に抱く 真意を図りかねているようだった。 「……これは何の枝だ?」 「南天燭です。魔除け、でしょうか?」 努めて冷静に諸葛亮は言葉を返した。それすらも癪に障るのか周瑜の表情から甘さが消える。 「成るほど、東呉は鬼の住処という認識で参られたか」 「そうとも、そうでないとも。鬼の心が巣くう場所は何もここだけではありません。確かに単身で出向いてゆく 私へのお守り代わりだったでしょうが、私自信への、悪戯にことを荒立てるなとの戒めと承知しております。 威張ることでもないですが」 「劉備どのがこれを?」 「いえ。我が主公は私に戒めなど必要ないとお考えのようです。あの方も邪気なくこの乱世を生き抜いてきた訳でも ないですから」 では、誰がと思ったよりも強い口調の詰問に、諸葛亮はニコリと哂い、興ざめた周瑜はその傍を離れて背を見せた。 これを送った相手に、彼が見せたほんの少しの迷いを言い当てられたような気分だったからだ。 「魔に魅入られそうになった。ここはその御仁に礼を申し上げても差し支えはあるまい」 「ご利益の効き目は甚大ですね。それを聞きましたら、一体どんな顔をするのやら」 クスクスと他愛もない笑顔を見せる彼を周瑜は横目で捉えた。硬質の仮面を隙なく被り、計算しつくされた 笑みだけを衆目に晒し、毅然と背筋を伸ばして立ち回ってきた男の、本質に触れた気がした。 その相手を思っての笑顔にどこかがチリリと痛む。 あり得ないと周瑜は袍衣を払い、何事もなかったように彼の居室を出て行った。 |