〜2





 どこかで何かが爆ぜるような物音を聞いた気がした。
 爆ぜたのではない。何かを引っかくような哀しい音色。
 覚醒しきれない器官が、それを箏の音だと判断したのは、かなりたってからだった。



 どのくらい眠っていたのだろうか。
 何度目を瞬かせても闇であることには変わりはないから、まだ夜は開けきっていないのかも知れない。彼は褥を抜け出すと 袍だけを肩に引っ掛けて、その音に導かれるように居室を出た。
 河の流れが南下してゆく音と葉ずれに混じって、途切れがちに爪弾く箏の音だけが支配する空間。
 風を巻き込みふくよかな音色は、態と途切れがちに奏でられ、それが弾き手の躊躇いと受け取れる。その 迷いに引き寄せられた。
 彼が立てる沓音に反応したのか、突然弾奏が止んだ。その先の四阿には、斜めから月の光を浴びた男が箏を膝に 乗せて座していた。
 何か贖えないものと向き合うように互いの視線が交差した。
 挨拶も忘れて立ち尽くす。
 漆黒の髪を風に晒したままでユラリと所在なさそうな彼の視線は、男の箏の上に合わせられたまま。此岸と 彼岸の端境を揺蕩う彼の立ち姿に、男の瞳が絞られた。
「いかがされた。眠れませんか」
 先に我にかえったのは箏を持つ男、周瑜の方だった。
「いや、起こしてしまったのか。このような時間に奏でるとは失礼した」
「いえ、ただあまりに物悲しい音色に、つい足を向けてしまいました。私の方こそ無粋な真似を。お許し下さい」
「ただの手慰みです。宴の狂騒を祓いたくて気を静めていただけのことです。お気になさらずに」
 月光の下とは人の心を穏やかにするものなのか。それとも心根をかくも覆い隠すのか。いまの周瑜からは、昼間 見せられた、刀身を付きたてられているような心地はない。
 だが、その穏やかさが彼にいっそうの危惧を覚えさせた。
 人は様々な顔を持ち、それが膨らみを与える。周瑜は間違いなく苛烈だけの武人でもなければ、謀り事だけに 長けた文官でもない。その均衡の取れたさまに、諸葛亮は軽い羨望を覚えた。
「そのように身を硬くされなくとも、取って食ったりは致しませぬ。眠れぬのならお座りになられるがよかろう」
 余裕の笑みを取り繕いながら、彼はその横に座した。
 後は交わす言葉などなく、周瑜の奏でる音色にただ聞き惚れる。周瑜も敢えて何も語ろうとはしなかった。
 冴えた風が頬に当たり、トロンと微睡みそうな心地を引き戻してくれる。敵地とも呼べる同盟国にあって、 余りの危機感のなさを慌てて引き締めた。
 それほど彼の奏でる箏は流麗だった。
「箏は幼少の頃より習われていたのですか?」
「剣術よりも好きだったな」
「お似合いです」
「彼があのように早く逝くことがなければ、いまでも雅楽の方を選んでいただろう。私は補佐すればよかったのだから」
 先主のことだな、と推測された。
「お察し致します。それでも、心ならずとも課された重責から逃れたいとは思わないでしょう」
「そう。資質の総てを継承し、想いの総てを託された」
 束の間、彼の視線はあらぬ方向へと流離った。
「この国では国主さえも私に敬意を払う。一枚岩とは言えぬ家臣団でも手なずける自身はある。 何でも出来る。それを成すために何でもする。誰もが力になってくれる。周囲を見回すとたくさんの人で 溢れかえっている。だが一番大切な人がいないのだ。二人で見た夢を一人で実現させる意味がどこにあるのか、 と思うときもある。荷が重いと感じているのか。虚しいのか」
「周瑜どの……」
 哀しみに縁取られた己の心の突端を、なぜ、この味方とも言えないこの男に語ったのかと、ついまろび出た言葉に 周瑜の方が周章を見せた。視線がかち合っても、それにかける言葉など彼にはなかった。
 溜息を落とし、たった一人の観客のための演奏は突然終わりを告げた。箏を手に立ち上がった周瑜の視線が彼に下げられる。 一度唇は何かの形を取り、そして、
「身辺、気をつけられよ」
 ただ、そういい残して立ち去っていった。



 翌日、東呉首脳が会しての御前会議は、周瑜、魯粛を初めとした開戦派と、張昭ら文官たち和睦派とが 数の上では拮抗した形で始まった。開戦でハラは決まっていると言った孫権は逡巡しているフリを決め込んで いる。官たちの動向と決意を探ろうとでもしているのだろう。
 諸葛亮は彼らから少し離れ、その成り行きを、周瑜の手並みを見守っていた。
「我らは何も曹公の兵力の膨大さに臆しておるのではない。逆賊と言えど天子を擁しておるのだぞ。勅が下って みろ。今度は我らの方が朝敵と称されるようになる!」
 そのような不名誉はごめんだとばかりに張昭は吐き捨てた。それに対して周瑜はゆったりと微笑んだ。
「張昭どのはたったいま曹操を逆賊と称されたではありませぬか。さすれば天子を擁していようと、それが 正当なものだとは露ほども信じておられないのでしょう? 何ほどの問題があると言われるのか?」
「しかし、曹公は天子の名を挙げて帰順の意を示せと申しておる。徒にこの地を踏みにじるものではないと」
「その見解は些か甘いと申しあげねばなりませぬ。曹操の手口はご存知であろう。最早騙し討ちなどとも言えない。 お疑いなら、幾度も曹操と雌雄を決せられた、劉予州からの使者どのの意見も聞こうではありませんか」
 来たなと直感した。身辺気をつけろと忠告した割には、矢面に立たせ視線を集めさせてくれる。しかし周瑜の ハラと思惑がすんなりと理解できたのも事実だった。
 一同の視線を痛いほど浴びて彼は進み出た。
「私如きが国を想う皆さま方の論争に口を挟むなど僭越過ぎると思いますが、ここは周瑜どのの仰るとおり、 曹公が使う常套手段かと推測されます。そのご判断は各人にお任せするとして、私は私どもが調べ上げた現状のみを 報告させて頂きます。曹操軍八十万と豪語しておりますが、その実数は十五万程度。しかもその半数は荊州 を略取した折りに徴収された俄か兵たち。また、先の戦いで荊州黄祖を完膚なきまでに壊滅された東呉水軍です。 その怯えも残っておりましょう。後は水戦に不慣れな疲れ果てた曹操軍七、八万。臆する理由がどこにあると 申されますか?」
「負けて転がり込んで来た者がほざく科白でもないな」
 張昭は顎を上げて見下してきた。この展開は彼の最も得意とする場面だとも知らず。
「勝ってはおりませんが、まだ負けてもおりません。我らはどのような惨状でも状態を建て直し、曹公と 一戦交える覚悟はできております」
 無傷の東呉が何から逃げると言うのかと、彼は薄く哂った。
「口先だけの小僧が! 我らを愚弄するつもりか!」
「そこまでだ、張昭!」
 激した張昭を制したのは東呉の主だった。計ったような頃合。そこで止められては彼が開戦派を焚きつけて、 和睦派を押さえつけたような図式が出来上がってしまう。
 余りあり難くないな、と諸葛亮は顎に手を当てた。
「東呉は何者からも逃げぬ。それが逆賊であるならなおのこと。朝敵がどちらかは、この戦が決めてくれよう。 漢帝室の威信を取り戻すために曹操を打破する! 和睦の道はわが国を滅ぼすとそれぞれが心得よ!」
 孫権が叩頭する官たちを睥睨した。倣って諸葛亮も膝を折った。



 来るだろうなとは思っていた。しかし、その日の夜に襲われるほど疎まれたのかと、彼は居室に近づく 気配を察して、傍らの剣に手をかけた。
 文目も分かたぬ暗がりが、かえって五感を研ぎ澄まさせる。敵の数は判別できないが、さて、この剣一本で どこまで己を守られるか、やれるところまでやってやろうと腰を落とした。
 お守り下さいと縋るのは、またしてもかの人から授かった懐紙の中身。夜着の中にまで忍ばせてある。
 あなたがくれたお守りは、いざというときに肚が据わる。
 まるでその心根が伝播したようだと苦笑した。 かの人はそんなつもりで差し出したのではないだろう。彼がここにいたら罵倒されていた筈だ。
 危険を察したらまず逃げろ。
――私が間に合わぬ場合もありますから。
 彼の言葉が蘇る。
 済まないとまず詫びた。私はあなたの言いつけばかり裏切る。でも逃げる訳にはいかないんだ、と。
 ガタガタと扉が開かれた。この騒ぎに隣室で休む少年が起きださねばいいと、それだけを願った。
 闖入者は相手が起きて待っているとは思わなかったようで、入り口付近でたじろいでいる。来るなら さっさと来いと、諸葛亮は剣をつき立てた。
 認められた敵の数は三。だが、伊達に劉備軍一の槍の遣い手を主騎と頼んでいた訳ではない。いつも守 られていた訳でもない。こういう状況だって考えられた範疇だ。
 まず一撃目を弾いて相手を出鼻を挫け。
――趙雲。
 敵の一人が剣を振るって躍り出たのを受けるために、諸葛亮は地を蹴った。



「東呉に災厄を持ち込む疫病神め!」
「鉄槌を食らわせてくれる!」
 先頭にいた男が大上段から剣を振りかぶった。ガチンと弾いて後ろに飛びのく。間合いをつくって、左右を 取り囲まれるのを防いだ。右から払われた剣をかわして、また後ろへ。
 相対しても絶対に後ろは見せない。それがこの場における大事なんだと己に命じた。
 だが、三対一の場合、どう動けと彼は教えてくれただろう。反芻しようにも思い出せない。体で覚えていないからな、と 苦笑する諸葛亮に、闖入者たちは不気味な笑みをたたえていた。
「ふん。余裕の様相だな。それとも怯えからの反動か?」
「恐怖で感覚が麻痺したのではないか?」
 顔を歪めて愉悦の笑みを漏らす男たちに、
「的外れも甚だしい」
 と、肩で大きく息をついて彼は言い放った。
 まったく、時勢を理解しようとしない者は、人の心情にまで疎い。その胡乱さに失笑しただけとは考えも つかないのだろう。
「それほど曹操が怖いか? 私の首を差し出せば、主が開戦を思いとどまると本気で思っているのか?  それともただの八つ当たりか? 世情を理解しようともせず、全体を俯瞰することも出来ず、現状のままで甘え、 己の安寧だけを願って一体誰を守れると言うのか? 年若い主を諌めるだけが、老人の務めだと信じている お前たちの雇い主に帰って伝えろ! 怯懦に包まれて国許で隠居するが宜しかろうと!」
「貴様! 言わせておけば!」
 少々煽り過ぎたか、頭に血の昇った男たちに左右同時に斬りかかられた。
 途端――何かが脳裏を掠めた。弾けた。モヤっとしたものに覆われる。
――亮!
 蘇る。
 何に気取られているのだと、先に来た左をかわした。が、次への動きが一拍遅れてしまっている。 怯えを感じる間もなく、右腕に焼けつくような痛みが走った。上がりそうになる悲鳴を何とか堪える。
 また何かと被る。あの日――もっとたくさんの沓音に襲いかかられ。
――亮! 逃げろ!
 そう呼びかけられた。
 蘇った。
 呆けたように動きを止めた諸葛亮の眼前に敵の刃が襲い掛かる。
 ふいに影が差した。広い男の背中がそれから身を呈して守ってくれていた。
――叔父上!
 諸葛亮は、上擦りそうになる言葉を抑えるのに懸命だった。