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 夏生まれだから寒いのは苦手だ。内陸育ちだから川面を転がる湿気を含んだ風にはなんの郷愁も沸かない。 かと言って、戦禍を逃れて各地を点々としてきた己に故郷と呼べる場所など存在しなかった筈なのに、 ここは違うと体が訴えた。
 早く帰ろうと、機を伺いながらおよそ軍師らしくないことを口走った。
 居場所はここではないと。



 東呉からの使者、魯粛に伴い孫権と会見するために、馬を乗り継いで柴桑の陣営にたどり着いたのは、 まだ風に身を刺すような風合いが含まれていなかった頃。振り返ればすぐそこに、中原一を誇る騎馬軍団の 馬蹄の音が聞こえるかの錯覚を振り切って、諸葛亮は面を上げ続けた。
 旅の疲れを落とされてからという労いを断り、即日の召見を願い出たのは、一刻の猶予もないとの牽制で、 劉備陣営の余裕のなさを覆い隠すために、敢えてゆったりと構えているような策は講じなかった。
 切羽詰まっているのはお互いさま。ここでそんな駆け引きに興じるような危機感のない国とも思えず、諸葛亮は真っ向勝負 に出た。
 身支度を整える時間すら惜しい。
 一人佇む議場がやけに空々しく感じる。
 幾分湿気の混じった東呉の空気を思い切り吸い込むことで、焦れた五感を宥めた。
 敵味方の区別のつかない友好国に単身乗り込み、国主の機嫌を損ね言葉を選び違えると、首と胴が切り離され曹操軍への手土産 に献上されかねない瀬戸際で、確かなものは何一つない。
 劉備軍が生存の望みをかける唯一の方法は、何も他国にとっては無二なものではない。東呉にはある猶予を きっぱりと斬り捨て、共に崖っぷちへと追い込む。
 では、誰を殺して誰を生かそうと考えているのか、と響く内なる声に諸葛亮は襟元へ手を添えた。
 そこには託された思いが凝縮されている。
――ご武運を。
 そう告げられた後に、手渡された懐紙の包み。
――武運という言葉はあなたには当てはまらないでしょうが、それでも戦場に赴く訳ですから。
 言い訳のようにはにかみ、少し笑ったかの人は、そのままくるりと踵を返した。珍しく見せられた笑顔に 虚をつかれた彼を置き去りに、その人の背は遠ざかってゆく。
 もう一度その笑顔を見たいと思ったのは自分の弱さからか。いまもその包みを胸元に忍ばせてある。
 お守り下さい、と心の中でひとつ。
 諸葛亮は、先触れが立てる沓音にすっと顎を上げた。



「目通りを叶えて頂きましたこと、恭悦に存じます。劉備玄徳が臣、諸葛亮孔明にございます」
 簡潔に口上を述べ伏せていた面を上げた先にあったのは、異相の青年の姿だった。情報によると彼よりもひとつ 年若。しかし純粋な漢人ではないと伺える紫髯碧眼の様相が、若くして国主に納まった青年の年齢を分から なくさせている。
 彼は厳しい視線のまま、腹の探り合いなど無用とばかりに切り出してきた。
「私は曹操と一戦を交えることに躊躇っている訳ではない。既に心は決まっている」
「それは我らに取りましても心強いお言葉でございます」
「劉備軍は一丸となって戦うと言われる?」
「無論にございます」
「では聞くが、まこと曹操に勝てるのだろうか?」
 ご質問を返すようですが、と諸葛亮はいま一度頭を垂れた。
「討虜将軍は和議など成立するとお思いでしょうか?」
「条件次第ではという文官たちの言い分も理解できる。誰も母国を踏みにじられたくはないだろう。 避けられる戦の手段があるのなら、それに賭けてみたい」
「――強弩の末勢、魯縞をも穿つ能わず、と申します。幾ら最強の曹操軍とはいえ、遠方より長の遠征で 疲れ果て、魯縞(薄絹)さえ射抜く力もございません。それにここは東呉軍に取りましては庭も同然の長江。 ”地の利”は孫権さまの頭上にあろうかと。また、我が軍は中原一粘り強い戦を致します。数の上では劣勢でも 曹操軍に劣らぬ戦を信条として参りました。この二つが合わさったときに”人の和”が成り立ちます。 そして更に重なったうねりは”天の時”は生むではなかろうかと思われます」
「”天の時”か」
「はい」
「我が方と劉備どのとが連携してことを当たれば、もしくは――」
 はい、と力強く答えたそのとき、
「お待ち下さい」
 と、声がかかった。



 孫権と諸葛亮が同時に視線を上げた先、戸口で肩で息をつくように男が立っていた。
 帰営して軍袍も解かず取り急ぎ駆けつけてきたという風体だった。
「よう戻られた。公瑾どの」
 孫権が相好を崩して労いの言葉をかける。男は何の断りもなくつかつかと孫権の前で叩頭すると帰参の 口上を述べた。客人である諸葛亮を完全に無視したような態度だった。
「案じていたよりも早かったな。無理をさせたのではないだろうか」
「自国の一大事というこの局面に、悠長に大軍を率いて帰参している暇はございません。取り急ぎ駆けつけ ましてございます」
「ありがたい。公瑾どのがいてくれれば何も心配はない。いまもこちらの劉予州の使者どのと、同盟締結 の話をしておったところだ。あなたも依存はあるまい」
 そう言われて初めて気づいたとでもいうふうに、周瑜は諸葛亮を視線で捕らえた。
「それはそれは遠路遥々よう起こしになられた。お噂はかねがねお聞きしております。使者どのは 諸葛瑾どのの弟御だとか。ご兄弟の縁を強められに参られたかとばかり思っておりました。しかし、殿。同盟 とはいかなる差配にございましょうか?」
 周瑜はその秀麗な横顔の半分だけ笑って彼を捉えた。
――狸め。
 諸葛亮は腹の中で哂った。
 初っ端から劉備軍の、諸葛亮の出鼻を挫く。あるいは同盟の使者ではなくただの客人に落とす。 なかなか味のある宣戦布告だと彼は思った。
 周瑜は、魯粛が同盟締結のために夏口の劉備の元に赴いたなど知り尽くしている筈だが、自分の目の届かないところ で決められてなるものかとその強い眼光が語っている。何も劉備軍との同盟など必要はないのだと言わん ばかりだった。
「お初にお目にかかります。諸葛亮にございます。孫権さまと魯粛どののお招きに預かり、まかり越しました。 周瑜どののご高名は、田舎者の私どもにも響き渡っております。その周瑜どのが、私の係累をご存知頂いている とは、歓喜の念に耐えません」
 初めに水を向けてきたのはどちらだ?  それに、歯牙にもかけぬフリをして、下調べ済みなのはどういう訳かと、持ち前の矜持の高さが彼の顎を上げさせた。
 単独で曹操とコトを構えられないのはお互いさまだ。後はこの戦の主導権を何処に線引きさせるかが彼の 戦場。数の上では東呉が主体と導きながらも、必ず一端をかんでやると、その思惑を笑みで覆い隠した。
 尤も、周瑜に隠しおおせたとは露ほども思っていない。
「頭脳明晰にして秀麗との噂は既に人口に膾炙しておりますよ、臥龍先生。ご自分が有名であられることを ご存知ないと見える」
「美周郎に秀麗などと仰って頂けては、羞恥で顔も上げられません。お許しを」
「意外と奥ゆかしくていらっしゃる」
 笑みを返しながらも周瑜の目は笑っていない。命がけの駆け引きだと認知し、それに対して足元から来る 歓喜を感じずにはいられない諸葛亮だった。



 周瑜帰営の宴だと、暫くは酒宴も楽しめまいという誘いを諸葛亮は丁寧に辞した。旅の疲れを癒したいと 言った彼に、東呉陣営もそれ以上は無理強いをしてこなかった。
 疲れというのはただの言い訳。沸騰しかけた頭脳で大勢がひしめき合う場に出席する気にはなれなかった だけだ。
「疲れた……」
 居室にと宛がわれた道観の一室で、諸葛亮は寝床の用意をしてあった牀の上に手足を投げ出してうっ伏ぶす。 側仕えのために唯一随行を許した少年が、そのしどけない姿にクスクスと笑い声を上げた。
「お行儀が悪いですよ、孔明さま。お休みになられるのでしたら、夜着にお着替え下さい。それとも 湯を使いましょうか?」
「いい。面倒くさい」
「またそんなことを仰る。それ一張羅なんですから、皺くちゃになったら困るんです。さっさとお脱ぎ下さい。 でないと引っぺがしますよ」
「もの凄いことをサラリと言うな、珪は」
 褥に顔を埋めたまま彼の父と同じ名を持つ少年にくぐもった笑いを送る。儀礼の篤い少年が暴挙に出る前に、 大人しく堅固な鎧に代わるものを脱ぎ捨て、そのまま横たわった。
 柴桑は初めてだが、長江を渡ったのはこれが初めてではなかった。父が逝き継母を伴って彼女の故郷で ある地に足を踏み入れたのはもう何年も前。叔父や兄も一緒だった。そこで継母と行動を 共にする兄とは別れ、叔父の赴任地で内乱を経験した。
 予章郡でのあの事件がなければ、江南で家族揃っての人生を過ごしていたかも知れない。ここで、泥のように 疲れた体を横たえることもなかっただろう。
 戦禍に翻弄され続けた半生。それは何も己だけの身に起こったことではないけれど、見事に引き裂かれた絆は いま、こうして微かに繋がっている。
――兄上に会わなければ。
 思慕をかき立てられながらも、十三年たった兄の姿が思いつかない。
――再会して分からなかったらどうしよう。
 そう考えながら彼は、心地よいまどろみに意識を手放していった。





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とうとうたどり着きました、my赤壁。大都督との出会いで先生ピンチ!
ってそんな大袈裟な愛憎劇は期待できないと思います。絶対、趙雲の腕の中へ帰る結果見えてるし(っていうか そんなのしか書けないし)
次は『天華』以来禁忌だった周孔だわね〜(遠い目)でも、いまは『時地』の 影響大だから、うちの周瑜そんなに悪いヤツじゃないです。(つうか中途半端と申しあげ候)
ナンテンは難を転ずるで厄除けです。咳止めではありません。(わは)