昔話をしよう 〜1 |
赤壁の戦いから二年たった建安十五年。 臨湘において、長沙、桂陽、零陵、武陵の江南四郡の政務を一任されていた諸葛亮の元に、東呉陣営から二通 の書簡が届いた。 ひとつは東呉の文官の重鎮として孫権に従事している兄の諸葛謹から。そしてもうひとつは周瑜と共に 江陵に赴任していた魯粛からだった。 それを受け取った瞬間から、表現しようのない陰影が差した気がした。魯粛からの通達には心当たりもある。 恐らく不調を伝えられていた周瑜の訃報。 柴桑の孫権陣営で始めて見え、互いのうちに存在する揺るぎない信念に羨望を抱き展望に共鳴し、そして 純粋に品位あるその人柄に惹かれた。直裁に請われて懐に雪崩れ込みそうになり、しかし辛うじて 踏みとどまったのは、己の劉備に対するの忠節の強さだけではなかった。 そしていまは、互いの構想と現在位置とを牽制しながら、版図の拡大に努めていた。その周瑜が一昨年、江陵 ではなく、進軍先の巴丘で血を吐いて倒れたという。彼の焦りが手に取るように分かると思っていた矢先の魯粛 からの私信だった。 壮絶な最期であったらしい。 秀麗であった白皙は幽鬼の如く色を失い、文字どおり血を吐きながら行軍の指揮を執った。 西へ。西へ。 益州を取ってしまわなければ、曹操と並び立つことは叶わない。天下を語る資格すらない。それはふたりに 共通した宿願だった。 どちらが先にその取っ掛かりを掴むか。手の内を探りあいながらの二年間だったと言ってもいい。 江南四郡に兵を進めながらも諸葛亮が戦っていたのは周瑜であったし、恐らく彼も劉備陣営の去就を一番 気にかけていたという自負はあった。 類稀なる武断の人として時代を駆け抜け、鮮明なる野望に向けて突き進んだ美周郎も、病という天からの 裏切りとも取れる運命には逆らえず、あれほど鮮やかだった夢も塵芥に帰した。 その砂塵の微粒が魯粛から届けられた函の中に残っているかのようだと彼は思った。 ふと、南側に開かれた窓から一陣の爽やかな風が室内に流れ込み、目には見えない微粒となった周瑜の 思いが巻き上げられる。風に抱かれ彼の身体の回りで渦を描き、そして静かに流れて行った。 その動きを目で追って、諸葛亮は深く瞑目する。 指先が振るえ、魂が振るえ、足元が震えても涙は出ない。 いや、泣く資格はない。 周瑜の希いを斬り捨てたからでも、ましてや敵対したからでもなかった。 涙を落としている暇があるのなら、益州奪取への策のひとつでもひねり出していろ、と戒められて当然の 身なのだから。恐らく逆の立場でも、彼に葬送の涙を見せられても嬉しくもないだろう。 停滞するな。巨大な敵に立ち向かうために、弱小陣営が見せるもたつきは滅亡を意味する。 振り返るな。 巴丘からの風は彼にそう告げていた。 なのに。 十分に気を引き締めていた筈だったのに、次に兄からの書簡を開き目をとおしていた瞬間、それは 函ごと指から零れ落ちた。 カランと乾いた音が室内に木霊する。 抑えていた涙が一気に噴出した。 なぜ、と思う。 身内のこととは言え、衝撃は周瑜のそれと比ぶるまでもなく、どちらが彼の心を占め抉ったかは改めて考える ことでもない。また、改めて思い出したことなど皆無に近かったのではないだろうか。 それでも彼にとって唯一母と呼べる存在で、父とも産みの母とも直結していた。 それは継母の死を知らせる書簡だった。 初め、公安に駐留している劉備の元へ即向うべきだと思った。劉備の名代として慰問に向う任に就ける者は 彼しかいない。劉備に先触れを出し、公安に赴いて今後の取り決めを行ったあと、柴桑へ出発する。 公人としての責務が優先。私人としてはその後兄に会えばいい。その程度でしかない。 これがもし仮に、周瑜の訃報とときを同じくしてではなく、単独で伝えられたのなら、自分は継母の葬儀の ために帰郷しただろうか。いや、帰郷という言葉すら可笑しい。先祖伝来の墓があるのは瑯邪の陽都。本筋 である兄と継母がいるからといって、東呉は故郷ではない。 なにやら袋小路に陥りながらも彼は、多分帰らなかっただろうなと、思った。 考の道に悖るも甚だしい。 けれど忙しいの一言で片付けて書簡を送るだけで済ませただろう。それほど彼の政務は山積し、それほど 彼にとって継母は遠かった。 なのに、なぜ涙は止まらない。 そう認識してしまうと、劉備に認めていた文面の上で滑る手が止まり続く文章が浮かんでこない。 彼はそのまま筆を置き考える間もなく私室から飛び出した。 「お待ち下さい! どちらへ!」 行き先を阻むように飛び出してきた側仕えの者に三日で戻ると言い捨て、厩舎の馬番には桂陽へ向うとだけ 告げ、彼は馬上の人となった。護衛の武官が何か叫んでいる。振り切るつもりはない。けれど、待つ気も言い訳 で馬脚を緩める気もなかった。 臨湘から桂陽まで南へ一直線とはいえ、街道が整えられている訳でも、治安が安定している訳でもない。 内に何か滾るものを抱え込み、ほとんど不休で走らせていては、酩酊気味の彼よりも馬の方が先に潰れてしまう かと案じていた矢先、向う桂陽城府に到着した。 門番は突進するように向ってくる文官を正そうと槍を下げるが、それを片手で一蹴して城内へと進む。後から 到着した護衛官が説明にならない言い訳をしている。この風塵に晒されて色を失っている青年が、主公劉備の寵愛を 一身に受けている自軍の軍師だとは、俄かには信じられないといったふうだった。 彼は先触れも訪いも入れずに府庁の最奥へと突き進む。目指す先に桂陽の太守が大人しく役所仕事を 行っているとも限らず、先に行き先を確かめれば済むものを、ただ足の赴くままに居るべき場所へと向かった。 バタンと扉を盛大に開け放つと、懸念どおり桂陽太守の執務室はガランとしており、殺風景なそこは小奇麗に 整えられているというものの、その地位にある者の部屋とは思えなかった。それがらしくもあり、安堵する所以 でもあったりする。 彼は一歩室内に足を踏み入れると、草案の上に並べられている竹簡の山に手を置いた。この山を目の前にして、 あの武勇の人がしかめっ面で立ち向かっている様を想像するだけで笑みが零れてくる。処理は文官が担当するだろう。 けれど決済は太守でしか勤まらない。 少しは私の苦労も思い知ったかと、的外れにほくそ笑んだ背後で、バタンと扉が閉まる音がした。 「また、急なお越しで。軍師中郎将どの」 「役所の中は上へ下への大騒ぎですよ。何の触れもないままに突然お見えになられるものだから、抜き打ち監査 だの急な出陣だの、それにしても軍師自ら伝令に参られる筈もないと、理由を探して皆が狼狽えてしまって。 なんと言い訳をなさるおつもりですか?」 彼の声を背中越しで聞きながら、諸葛亮は振り返りもせずに指先だけを竹簡の上を滑らせていた。 「恐らくただの気紛れだろうと言っておきましたが、もし本当に火急の用件であるならば、ご自分で説明なさって ください」 私は面倒だと言いながら、桂陽太守趙雲は彼の真横へと並んだ。同じ目線でただ並べられた竹簡を見やるが、 特別興味があって彼がそこから離れないということはすぐに知れた。 秀麗な横顔は砂塵で塗れ、疲労の色が濃く出た表情は凍りついたままだ。質素であっても洒脱さを失わなかった 彼の姿とも思えない。やや伏せられた漆黒の瞳は空洞のように目の前の竹簡を映してはおらず、この状態で よくここまで馬を飛ばせたものだと感心した。 いや、この状態だからたどり着いたのか。 趙雲は指を伸ばして彼の頬についた砂埃を落としてやる。平素であればこんな公然の場で嫌がる仕草にも、 彼はなんの反応も見せない。まさかとは思うが、それが彼の到着より早く公安の劉備より伝えられた 東呉での訃報のせいなのかと勘ぐって、趙雲は彼の細い身体を抱き寄せた。 「周瑜が亡くなったことがそれほど衝撃的だったのですか?」 直裁に問うと、諸葛亮は緩慢な動きでようやく反応を見せたが、それが是だったのか非だったのか彼には分か らなかった。どう対処していいか判じかねていた彼に、諸葛亮は抱きしめられていた腕を外し、自ら趙雲の首筋 に絡ませた。 そしてそのまま少し背伸びをして趙雲に口付けを与える。趙雲の目は驚愕に見開かれた。 いままで一度だって諸葛亮の方から行動を起こしたことなどなかったからだ。いつだって一方的に欲情し、 同等のものを引き出し、共に上り詰めて失墜させてきた。それが別段淋しかった訳ではない。 男同士の関係で、与えられるものも与えたものも等価だと言っていたのは諸葛亮の方だ。渋々とか嫌々とかの 態度を取りながらそれでも、快楽を知った身体は正直に貪り絡み合って互いの中にある熱情に溺れる。 それでも矜持の高さから自ら請うなんて死んでも出来なかった彼が、不器用な愛撫で趙雲を攻めてきた。 彼がいままで与えてきた手順と同じように、唇を塞ぐと舌を割り入れ絡ませ、穏やかな傾斜で上り詰める ように慎重に交じり合う。 本当にそれを欲しているのか、この男が。 趙雲は彼からの口付けを受けながら先の見えない情欲に歯止めをかけようとする。 置いてけぼりの心を探そうとする。しかしそこには周瑜の死に対する喪失しか見つからない。 周瑜が見せた諸葛亮に対する思いの丈は赤壁での折りに突きつけられている。そして与えられたものと同じよう な感情をこの軍師も抱いていたことを彼は感じ取っていた。 他の男を思って抱かれに来たのかと、趙雲はその身体を一度つき放ち、手首を掴むと引きずるように彼を執務室 から連れ出した。 ついて来た侍官に湯の用意を命じ、足元の覚束ない自軍の軍師中郎将をかかえるように自室に消えていった 太守の姿を、兵たちは心許ない表情のまま見送った。 衝立の向こうでピチャンと湯の跳ねる音がした。急ごしらえでつくられた湯房に背を向けたままで趙雲は座している。 先ほど、疲労困憊しきった彼を用意の整った湯房に押しやった。手足を動かすことも億劫だと言い放ったので、 年ふりた侍官に総てを委ねた。 一日駆けた疲れと砂埃を落とし、ホカホカと湯気を立てて身奇麗になってからもこの軍師は、暑いだの喉が 乾いただの着替えが気に入らないだのと、いつになく我がままぶりを発揮していた。 珍しいことだと趙雲はただその様子を眺めている。 とうとう言いつける用事もなくなり、侍官が退出していったあとに落ちた気まずさに絶えられなくなったのは 諸葛亮の方だった。己の状態に対する自覚だけはあったらしいが、引きずっていた蠱惑さを埃と共に落とす気は なかったようだ。 「綺麗さっぱり身奇麗にして、ついでに誇りも捨てたんだからもういいだろう。さっきの続きをしよう」 と、牀の上で座したまま彼を誘った。趙雲は少し離れた場所から動こうとはしない。焦れたように諸葛亮は 舌打をひとつ。両腕を上げた。 「私の方から積極的に誘うなんて、このあとあるかどうか分からないのに」 「あなたの胸の内でいま、一体なにが占めているのかほんの少し分かるだけに、その誘いに乗ってしまう己が 哀れに思えるんですよ」 「あなたは誤解しているよ、趙雲子竜」 「そうでしょうか」 「周瑜の訃報を聞いた」 「存じ上げております」 「彼の死を痛ましいと心底思う。彼ほど巡りあえて嬉しいと感じた敵もいないんじゃなかな。けれども、彼が生きて いれば必ず劉備陣営に仇なす存在だ。彼のあとは魯粛が東呉を率いるという。我が軍にとってこれほど喜ばしい 顛末はない。いま一番消えてくれてあり難い敵でもあったんだ」 「それは劉備軍の軍師としてのお言葉なのでしょう。だが、諸葛亮孔明という個人の見解とは少し離れている」 「公も私もないよ。敵であっても惹かれた。そしてその死を悼み同時に喜んでいる私がいる。その感情は 同じ線上に並び立つものなんだ」 「その痛む部分を私で埋めようとなさっている」 趙雲は漸く椅子から立ち上がり、牀の上の彼の側に腰を下ろした。語りながら絡めてきた彼の腕を払うことなく その言葉を聞く。聞くだけ聞いてやろうという諦観だった。 「周瑜に惚れていたかも知れない。抱かれてもいいと思った瞬間もあった」 「それも存じておりました。あなた方はどこか深くで繋がっておいでだ。そこに私の入る隙間はない」 「彼の死を知って痛ましいと思ったんだ。分かるか、趙雲? 痛ましいとは愛情をつうじた相手に思う感情 だろうか?」 「仰る意味がよく分かりませんが?」 「同時に、東呉の兄から継母が亡くなったとの書簡も届いた」 話の展開にについてゆけず趙雲は押し黙った。諸葛亮は膝を進めて彼の首に纏わりつく。その腰を支える ために趙雲の手が動くまで彼は辛抱強く待った。 「母と呼んだ日はごく僅かだったよ。生母が弟の均を産んですぐに亡くなり、その後添えとして迎えられてから、 数年。たったそれだけの期間だったんだ。それでも涙が出た」 「孔明どの」 「周瑜の死を知って抑えられていたものが、抑えられなかった」 「……」 「昔話を聞いてくれるだろうか」 と、彼は趙雲の耳元に唇を寄せた。ゆっくりと探るうちに、腰に回った彼の腕に力がこもる。こんなふうに 煽ったことなど確かになかったのだけれど、ここまで押しかけてきた訳は直裁に彼が欲しかったからだ。 それは事実だった。 「その前にこの熱をなんとかしてくれ」 請われるまでもなく、彼にしても抑えられたものでもない。承知、と趙雲はその細い身体を横たえた。
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