昔話をしよう 〜2









 あれは確か霜も降りた寒い月の夜。
 仲冬、曹操の進撃から逃れてたどり着いた夏口の幕舎で、初めてこの男と身体を合わせた。
 口腔を蕩けさすだけでは飽き足らなくなった唇は、縦横に彼の身体を行き来して、あちらこちらをまさぐり印を 落としていった。
 そのとき、人の唇と舌とはなんて熱いのだろうと、身体を投げ出したままでそう感じた。追いつく形で 彼の身体に情欲の火が灯ったあとも、趙雲のそれは数段高い熱を帯びたままだった。
 それがいまは幾分ヒンヤリとした趙雲の唇を感じ、初めて先に欲情した事実を知る。それを浅ましいと感じる ほど男の生理に理解がなかった訳でもなかったが、人よりも一層淡白に出来ていた己にも、それなりの欲が 存在したのだと少し驚いた。
 一体なにが原因で取った行動かと思えば、近しい人たちの訃報だったりするから、恐ろしく倫理的にズレている。 周瑜への痛ましさで胸が潰れそうだったから。そして顔すら覚束ない継母への思慕があふれ出し止らなくなって、 この男へと一直線に手を差し伸べた。
 返してくれる熱も熱さも承知していたから安心して馬を駆った。
 信じられないような言葉を吐き趙雲を煽り、甘えるためにだけやって来た。
 この男は。
 彼が確固たる意思で築き上げてきたものを、これほどの勢いで崩し去ってしまうと意識しているのだろうか。 まるで己が己でなくなるような危機感を感じていると気づいているのだろうか。
 だから気が休まらない。
 けれど安堵出来る。
 趙雲の手によって少しづつ切り拓かれたものの正体は、目を覆うばかりに醜悪で、しかしあまりにも甘美過ぎた。 煽っておきながら、それは初めの取っ掛かりだけで、握っていた筈の主導権はあっさりと手放さざるを得ない。
 そこここに所有の烙印。同じように趙雲にも刻んで、また刻まれて。
 激流に飲み込まれ、それを体内に含んで視線がブレた。
 疼いた最奥を掻き乱され、初めて声にならない悲鳴を上げる。それを知った趙雲はさらに性急に、そして 貪欲に身体を進めてきた。
 軋む牀の音が脳内で響き、骨身に染み、淫靡な物音はさらに液体化していった。耳を覆いたくても、それよりも 己の発する喘ぎを抑えたい。両手で口を覆うと容赦なく剥ぎ取られた。褥に押し付けようとしても、顔を上げさせ られる。
 彼は向き合えと言っていた。
 正直な部分を知って開放してしまえと。
 その残酷な強制は僅かに残った理性と拮抗する。そこまで支配されたくないと何度も首を振れば、 愛おしそうに唇を啄ばまれた。
 宥めるように、何度も何度も。
 あなたが守ろうとしているものと――と、不意に趙雲の声が落ちた。
「いまあなたが得ようとしているものとは、簡単に同居できるのですよ」
 どちらが本当でどちらが嘘なんて線引きするものではない。どちらもあなたの中で存在する、と続けられて、
 そんな簡単なものか、と咄嗟に反応する。けれど、
「安心なさい」
 と言った声が温かくて、霞む視線の先、滅多にお目にかかれない趙雲の微笑みが眩しくて、彼の背に縋っていた 両手が褥に落ちた。
   窓から差し込むほんの少しの暁闇から、恐らく、それは明け方近くだったと、そう思った。



 どうしようもなく重い瞼をこじ開けると、昨晩同衾していた男の姿はすでになく、腕の一本容易く動かせそう にない疲労から暫くそのまま微睡んでいると、ヒンヤリと冷たい布を額に当てられた。
 心地よさから開けた薄目の先、彼のものと思われる節高い指が瞼と頬を何度も行き来する。そうしながらも 冷たい布は額からこめかみ、そして首筋辺りの不快感を取り除いてくれた。
 程なくおとがいに手がかかり、降りてきた唇から喉に染み渡るような寒露が注ぎ込まれる。それをゴクリと 嚥下して漸く目が醒めた。
「大丈夫ですか、なんて聞きませんよ」
 仕草に反して敵は相変わらずシレっとしている。そりゃ、そうだろうと詰る声も掠れていた。趙雲は彼の枕 元に両手をついて覗き込むように視線を合わせてきた。
「何か召し上がりますか? それとも湯浴みでも。なんなら昨夜の続きという手もありますけれど」
「鬼」
 と一言ついてから彼の頭ごと両手で引き寄せ、軽く口付けを強請ってから彼は続けた。
「昔話を聞いてくれると言っただろう」
「そうでしたね。では拝聴仕りましょう」
「昔々あるところに――」
「そういう切り口なのですか?」
「言葉が纏まらないんだよ」
「それはお気の毒に」
「もういい。休む」
 脱力し切った諸葛亮の腕は力なく滑り落ちた。趙雲はその枕元に腰掛け長い指で髪をすく。その手の動きだけで瞼が 落ちそうだった。
「胸に抱き込んで、それがあまりに苦しくてここまでやって来られた訳でしょう。眠ってしまわれるまで ここにおりますから、吐き出せるものは吐き出しておしまいなさい」
「ん」
 そう告げられると不思議と眠気は吹き飛んだ。考える間もなく、纏まらないと思っていた言葉は直裁に口をついて 出てきた。
「私が初めて人を殺めたのは十四のときだった」



「趙雲どのは?」
 そう返されて思い出せないなと彼は顎に手を当てた。
「誇るべきことでも哀しむべきことでもなかったですからね。身を守るための日常生活の延長線上で、必然的に 剣を振るわずには生きてゆけなかった。もの凄く子供だったような気がします」
「そうか。それに比べりゃ私は、徐州大虐殺で故郷を追われるまでは、士大夫階級の若様だったからな。 身の回りの世話は家人がやってくれたし、私塾へは部曲の屈強な男の送り迎えつき。思う存分学問を究めて いればよかった」
「端々に偲ばれますな」
「褒めてるんだか、貶してるんだか」
「育ちのよさはね」
「煩いよ」
「それで?」
「私が七つのときに母が亡くなり、父は直ぐに後添えを貰った。用意していたみたいに手際がいいと辛らつな 言葉を吐いたのは姉だ。幼心にもびっくりするくらい綺麗な人だったから。程なく父も後を追って私たち兄弟と、 父の弟と継母が残された。継母は故郷である東呉へ帰りたいと言い出した。もともと叔父とて私たち一家の 面倒を見られるほど裕福でもなく、その言葉に兄が従うことになったんだ」
「それでご兄弟が別たれた訳ですか」
「そう、儒教的見地からすれば一分の隙もないよ。けれどそのときの兄の、孝心と呼ぶには過ぎた行為を 邪推する声は実際あったみたいだ」
「諸葛瑾どのが本家の家督を継がれて、ご一家で共にと仰れば継母上さまのご帰郷は封じ込めた筈、か」
「その気があればね。けれどそうはならなかった。程なく私たちは叔父の赴任に伴って襄陽に落ち着き、そして その後予章太守を拝命した叔父と共に長江を越えた。そこでは内乱が待っていた」
 命令系統の不一致だったそうだ。後漢の混乱期、権威の失墜した朝廷を蔑ろにし、己が独断で領土の やり取りや太守の選出をしたりと、専横を極めた領袖のひとりに袁術がいた。諸葛亮の叔父はその袁術の命 を受け予章に赴任し、そしてそこには既に曹操――朝廷が選んだ太守がいた。彼らに否応はなく、江南の 土地柄を楽しむ余裕すら奪われて戦闘状態に入る。
 待ち構えていた者と隙をつかれた者。結果は火を見るより明らかだった。
「逃げて逃げて捕まりかけてまた逃げて。私たちには尻尾を巻いて退散するしか手はなかった。それでも あと少しで城外の味方と合流というところまで来て、行く手を阻まれて――」
 諸葛玄はなんの躊躇もなく敵の前に体を躍らせ、そして間近でその身体に剣が食い込む音を聞いた。
――逃げろ! お前が二人を守るのだ!
――嫌だ! 叔父上もご一緒に! でないと、でないと私は!
――姉や、小さな弟まで道連れにするつもりか!
――嫌だ!
 敵だとて人を斬るなんて出来ない。無理だ、嫌だ、出来ない、助けてと叫びながら、姉たちを先に逃がし――
 生きろとと懇願されて前のめりになった。
 怒りと怯えと渇望と残虐さとで一杯になった。
 叔父の身体を貫いていた剣が引き抜かれ、目の前が血飛沫に染まり、気がつけばその腰に佩いていた剣を 取り敵に斬りつけていた。肉を穿ち骨を絶つ耳を覆いたくなる生にしがみ付く音。引き抜いてモロに返り血 を浴びてなお、たじろいだ敵を屠っていた。後ろを見せた敵にすら背中から斬りつけていた。



 それは当たり前のことだったのかもしれない。



 思い出すには遠すぎて、忘れ去るには生々しかった。
 己が直接手を下したという事実だけで痛むなら、それ以降、命ひとつで何万倍にも相当する敵を屠った 咎には息すら出来ない。
 許しを請うことすらおこがましい。
 それなのに――
「あれ、なんか淡々と語っているとちっとも悲惨な話でもなくなる」
 こんな話をしながら眠ってしまいそうになる自分の瑕ははっきりと癒えているのだと知っていた。 あのとき兄に叩きつけて、罪悪感と自己嫌悪から無理に戻って膝を折り、兄が示した己のものとは比べ ようがない懐の深さに抱かれたからだ。
 人が生涯をかけて守れる者の数は一体どれほどなのだろう。違う。一瞬のうちに守れる者など、己の 手に抱ける数でしかない。
 あのとき兄の手から零れ落ち、守ってもらえなかった姉弟たちだったが、別の場所で彼は、彼が愛した者 を支える場を懸命につくろうとしていた。
 継母に対して邪な妬心に犯されていたのは周囲ではなく間違いなく己の方だ。
 だからあれほど継母の死に狼狽したのだと。
「赤壁でのあの折に、きちんと兄上さまと向われてよかったですね」
 趙雲の指が優しく彼の髪をすいていた。彼は多くは語らなかったし、手を差し伸べる必要もないと理解して いた。ただ、そこにあるだけでいい。それだけでこの依怙地な男に安定感をもたらすことが出来る。
 そしてその事実が何事にも揺るぎない筈の己の土壌となる。
 諸葛亮の微睡みを促すために趙雲の指は、少し汗ばんだ彼のこめかみから額へと何度も往復した。 手を頬へと移動しかけて思いとどまる。手に吸いついて歯止めが利かなくなるからだ。
「趙雲どの」
「はい」
「周瑜の葬儀に出席する。あした一緒に公安の劉備さまの元へ行ってくれないか」
「かしこまりました。ご同行仕ります」
――それにしても。
「大都督もお気の毒だ」
「ん?」
「いえ、長生きした者勝ちという話です」
 そうだな、と小さく答えが返った。
「夢の継承というものは、細部で微妙に違ってくるから本人でなくては叶えられないのに、周瑜は先主の総て を受け継ごうとしていた。それもまた途中で潰えて、東呉には先主と周瑜のふたり分の無念がトグロを巻いて ることだろうよ」
 本当に惜しい、そして恐ろしいひとを亡くしたものだ。
 そう言い残し、周瑜の思念に包まれて諸葛亮は意識を失う。そこから引き戻そうとする指を趙雲は懸命に 耐えた。確かに交わったふたりしか知らない絆を断ち切ることは叶わない。
 その資格はだれにもない。
 涙を流せたのは継母の死によって。
 身内といえどもそれは切欠。張り詰めていたものが針のような一穴から沸き出でた。
 堰き止められていたものが吹き出せてよかったのではないかと趙雲は思う。
 簡単に泣けなかった訃報。
 交錯した思いとすれ違った可能性。
 いま少し周瑜に姑息さと永えた命があったなら、いまここでこんな安寧を貪ってはいられなかった。 それ故にさぞかし無念であっただろうと趙雲は瞑目した。
――大都督。
 と趙雲は彼の寝顔に視線を落としながらその名を呼んだ。
 間違いなくあなたの軌跡はこのひとの中に根を張っていますよ。私の前で本人は認めないだろうけれど。
 けれども。
 それごと抱えて私は生きましょう、と彼は寝入ったひとの頬に唇を寄せた。







しつこいな〜、と思いながら「南天燭」設定を持ち出したあたし。ネタが尽きているという実感アリアリ。
いつもこんなふうにふっと思いついたらラクなんだけど。