孤高の月 ――1







 あの漢は、掴めぬ漢だ。



 趙雲子龍は、新野城近くの楼閣に登り、眼下に広がる光景を眺めていた。
 なかなかに壮観な図である。城下の農民百人で編成された兵団が、軍事調練を受けている。
 歩走、飛伏の基礎から刺撃の類まで、一糸乱れぬその統制は指揮官の指導の賜物か。百人の農民兵の親玉は、 呼唱の声も勇ましく兵の士気を鼓舞している。



 ただの白面の書生かと思っていた。
 が、軍事調練などと一端のこともできるらしい。
 南陽の田舎に在って、晴耕雨読と隠者を決めこんでいた漢に何ができるものかと辛辣な評価が先行する。
 人を侮るのは趣味ではないが、かと言って庇い立てするような義理もない。
 一先ずお手並み拝見、と傍観の姿勢をとっているのが趙雲だった。



 主公劉備は、この年若い漢にすっかり心酔してしまっている。
 それを快しと思わぬ連中の放つ悪意が、新野の城に気詰まりな空気を作り出していた。
 寵を受ける者への嫉視など、今更珍しいことではない。彼のように破格の扱いでもって遇されれば、 それも仕方のないことだ。
 それが厭だと言うなら、実績を積むしかない。信頼など一朝一夕で成るものではないし、ましてや己より遥かに 年上の将軍達を相手に帷幄を取り仕切ろうというのだ。宮仕えがそれほど甘いものでないことくらい認識してもらわねば困る。
 ただ、趙雲に言わせれば、関羽や張飛の態度も度を越している。桃園の契りだか何だか知らないが、皇叔劉備の義兄弟という 矜持が、年若い軍師への反撥心を煽り立てているのだろう。
 大丈夫にあるまじきその態度には、同列の趙雲さえ閉口する。連日に及ぶ彼への白眼と皮肉の饗応は、見ていて痛ましい ほどでもある。



「趙将軍」
 我に返ると、足下に孔明がいた。趙雲が様子を窺っていることに、聡明なこの漢はとうの昔に気づいていたらしい。
 透き通るような膚の白さ。長身のしなやかな体躯は、膚の色と対をなす黒い長衣に包まれている。黒曜石の瞳、紅い唇。 その玲瓏たる顔に浮かんだ笑みは、皮肉げな色を湛えていてさえ美しい。
「将軍のお振舞いとも思えませぬな。そのような場所で高みの見物など決め込まずとも、降りてきて近くご覧になれば良い」
 毒をたっぷり含んだ眼差しが、趙雲を見上げる。苛虐心を突くような憎体な目つきだ。
 趙雲は、腹の底でむくりと頭をもたげた疳の虫を殺して、楼閣の階を降りていった。
 長官が訓練場を離れた後も、農民兵達は個々の鍛錬に余念がない。
 孔明は、招かざる客になど目もくれず、まるで我が子でも見守るような慈愛に満ちた眼差しで、彼らの様子を眺めていた。
「…俄仕込みとは思えぬ、見事な動きだ。このような兵団を、幾つ作られた」
 趙雲は、わざと穏やかに話しかける。
 決して追従などではなく、多くの兵士を率いて戦った経験を持つ武官なら、この農民兵の機敏な動きには誰しも瞠目 するだろう。彼らは職業軍人ではない。にも関わらず、たったふた月の調練でここまでになるとは、指揮官の指導力に負う ところが大きいと認めざるを得ない。
「一団百名で、三十の兵団があります。有事には、数千の城兵と変わらぬ働きをさせるつもりです」
 孔明は、美しい横顔をわずかも趙雲のほうに向けることなく言う。本来ならば、そんな無礼な仕打ちを黙って許す趙雲 ではないが、感心した手前怒り出すわけにもいかなくなり、仕方なく不快な眉をひそめた。
 倣岸な漢だ、と思う。主公が三度も駕を枉げて遇した漢が、このように倣岸では、関羽や張飛が怒りたくなる気持ちも わからぬではない。
 参謀というものは、本来こういう不遜な生き物なのか。趙雲は、記憶を巡らせて思う。──否、同じ参謀でも、 徐庶元直という漢は違った。短い間しか彼と交わることはできなかったが、彼はもっと人情味溢れた、人懐っこい感じの する漢だった。
 それに比べて。趙雲は、新しい軍師を冷めた眼で眺める。
 臥龍、伏龍などと世上の口に上るこの漢が、一体どれほどの実力を秘めているのかは知らない。だが、その実力が明らか となる前に、新野の将軍全てを敵に回すほうが先なのではないか。曹操や孫権と伍する実力を培うために苦心して軍師を 招聘したというのに、その前に内部分裂ではあまりにお粗末過ぎる。
 突き刺さるような視線を感じたのか、孔明はちらりと横目で趙雲を見た。その唇は、相変わらず皮肉な微笑に歪んでいた。
「何処かに珍鳥でも居りましたか」
 氷を思わせる冷ややかな声音。それには、どんな善意も受け入れる気がないと言わぬばかりの不遜さしか感じとれない。
 趙雲は唇を引き結んで、憤然と踵を返した。
 ──何という奴だ。
 腹の中で逆巻く怒りは、しばらく収まりそうにもなかった。



 そもそも出会い頭から良い印象はなかったのだ。
 主公が隆中の一村落から孔明を伴って帰ってきた日、趙雲は迎えに出た城外で初めてこの若い軍師の姿を目の当たりにした。
 車から降りた孔明は、実際の年齢より未だ若く見え、それが身につけた鷹揚な物腰と不釣合いな感じがした。
 主公は、迎えの扈従の内に趙雲の姿を認めると、嬉しい尽くめのような顔で孔明と引き合わせた。
 孔明は、切れの長い瞳をじっと趙雲に向け、明らかに誠意のない形だけの拱手をした。
 ―― 一体この漢は何だろう。
 趙雲の眼は、知らず胡散臭いものでも見るような警戒心を露にしていたかもしれない。しかし、だからと言って、 初対面の人間、それも今後同じ主君に忠義を尽くそうという同志に対して、その時孔明の放った言葉は あまりに非常識と言えた。



 ──趙雲殿は、放浪将軍という徒名をお持ちだそうですね。



 何のことかと顔を上げた瞬間には、既に孔明は主公に従って城内へ入っていた。後に残された趙雲は、その傍若無人さ にしばし呆然とした。
 孔明のいう言葉の意味に思い当たったのは、まともな思考能力が戻ってきてからだ。
 「放浪将軍」とは、劉備麾下として加わる前、先主を失った趙雲が袁紹の誘いを嫌って、各地を転々としていたことを 指すのだろう。
 だがそれが何だというのだ。主公劉備に仕える前の経歴が、新任の軍師に一体何の関わりがあるというのだ。
 自分は一度たりとも大丈夫として恥ずべき行いをした覚えなどない。ニ君に見えたのも、別に先主を裏切って仕官した わけではない。
 趙雲は、厭な感情が胃の下あたりを押し上げるのを感じた。
 新しい軍師の存在が、この新野の城に何時か一波乱起こすのではないか。これは予感というより、 最早確信に近かった。



 新野城を目指して、夏侯惇を大将とする十万の兵が南下する。その報を得た劉備は、早速孔明に計らって軍議を設けた。
 中央の床几に主公劉備、傍らの軍師座に孔明が座っている。そこから左右に席を分けて、関羽、張飛、趙雲などの主だった 諸将が会すると、軍議は始まった。
 壁に掛けられた大きな巻軸には、新野の北方の地理が描かれている。孔明は、羽扇の先でその地図の一箇所を指し示すと、 冴えた眼差しを一同に向けた。
「新野から九十里離れた処に、博望坡という嶮があります。その左にあるのが予山、右にあるのが安林、諸将におかせられ ては、この地が戦場になるものとお考え下さい」
 孔明の声は凛と響く。初めて聞く彼の長舌に、ざわついていた堂内は、たちまち水を打ったように静かになった。
「今から各々方の配陣を指示致します。──関羽殿は、兵千五百を率いて予山に隠れ、敵軍の通過半ばで後陣を襲い輜重に 火をかけて下さい。張飛殿は、同じく千五百の兵と共に安林の背後の谷間に潜み、火が上がるのを待ってから先鋒及び中軍 に討ちかかること。関平殿と劉封殿は、兵五百ずつを率いて博望坡の両面より火を放ち敵を包み込んで頂きたい」
 主公の覚えめでたい軍師の指示に、若い関平と劉封は頷いた。が、先に指名を受けた関羽と張飛はそ知らぬ顔を決め込ん でいる。それでも、孔明は特にそれを気にかける風でもなく、次に隣席の趙雲に視線を移した。
「趙雲殿には先鋒をお願い致します」
 澄ました顔で言う孔明を、趙雲は驚愕の眼で見た。──先鋒とはまた、とんだ栄誉を授かったものだ。
「身に余る光栄にござりまするな」
 皮肉を込めた視線を返す趙雲の上に、再び孔明の冴えた声が注がれる。
「ただし、趙雲殿の任は敵を誘導することです。わざと負けて敵を深く誘い込むが務め。それをお忘れなきよう」
 その声が終わるか終わらぬかという間だっただろう。今まで黙って孔明の話を聞いていた張飛が、席を蹴るように 立ち上がった。鋭い両眼には、明らかに若い軍師への敵愾心が燃えている。
「張飛殿、如何されました」
 水の如く冷静な孔明の言葉も悪かった。張飛は、ぎょろりと大きな眼を動かし白皙の面を睨み据えると、大地に轟く ような低音で言った。
「懇切丁寧なご指示痛み入る。時にお伺いしたいが、この戦、軍師殿は何処で戦われるおつもりか」
「不肖孔明は、この地に拠りて新野の城をお守り致す所存です」
「成る程、我等のみ敵軍に当たらせておいて、御自身はこの城で暢気に勝敗の行方を見物というわけか。軍師というのは、 まこと優雅なご身分でござるな」
 痛烈な皮肉にも、孔明は顔色一つ変えない。挑戦的な張飛の眼を静かに見返して、美貌の軍師は口を開いた。
「では、お聞き致しましょう。張飛殿には、夏侯惇を総大将とする十万の敵軍と戦い、勝つ計略を何かお持ちか」
「そんなことを論じているのではない。古参の俺達が死に物狂いで戦をするのに、新参者が何故優雅に後方支援なのかと 聞いている」
「話になりませぬな。私の示した策が気に入らぬと仰せなら、それに取って代わる策を提示してこそ議論の余地がある。 策をお持ちでないなら、私の指示に黙って従って頂くほかない。それが軍中の理というものです」
 理屈攻めで、張飛に分のあるわけがない。案の定、孔明の冷やかな態度に愚弄されたと知った張飛は、怒りに任せて 腰の佩剣を抜き放った。
「おのれ豎子っ」
 悪鬼の形相である。しかし、太刀の切っ先を目の前に突きつけられても、孔明の白面は微塵もたじろがない。ばかりか、 おもむろに張飛の前に手を伸ばすと、孔明は見覚えのある剣印を差し出した。
「張飛殿、これをご覧あれ」
 見れば、劉備の剣印である。前もって主公が孔明に授けていたものらしい。
「全軍の指揮権は、殿よりこの孔明が賜っております。言わば、孔明の言葉は殿のお言葉も同じ。この有事を前に、 殿に背いた咎で処罰を受けるがお手前の本望か」
 声を張り上げるでもない。ただ冷やかに向けられる視線を前に、張飛は無念の唸り声を上げた。その段になって、 ようやく関羽が「もうよせ」と止めに入る。義兄に庇われた形で、渋々張飛は剣を鞘に収めた。