孤高の月 ――2







「軍師殿」
 軍議を終え、会堂を出て行く孔明の後姿を、趙雲は呼び止めた。渡り廊下の手前で立ち止まった軍師は、決して 心温まる仲とは言えない古参の将軍の面を静かに見つめた。
「趙雲殿、作戦で何か不明な点でもありましょうか」
 つい今し方の大立ち回りの打撃など微塵も匂わせない。──と言うより、この冷静な漢は、張飛の力みなど端から 相手にする価値もないと考えているのかもしれない。
「否、軍師殿の示された作戦は明瞭そのもの。不明な点などござらぬが」
「では、何のご用でしょう。取り急いでおります故、宜しければ歩きながら話して頂けると助かります」
 言う傍から、忙しなく歩を進める孔明の背中を見つめ、趙雲は既に呼び止めたことを悔いていた。──が、 言うべきことは言わねばなるまい。
 孔明の姿が廊下の向こうに消えかかる前に趙雲は追いつき、横に並んだ。孔明の両手には、竹簡、巻軸の類が 山のように抱えられている。
「お手伝い致しましょうか」
 余計なこととは思ったが、ついそう口にしてしまった趙雲を、孔明は冷やかに見据える。美しいが、開けば毒しか 吐かぬ唇は、氷室のような声で趙雲の厚意を突き返すものとばかり思っていた。
 が。
「では、お言葉に甘えて」
 言うなり、孔明は趙雲の両腕に荷物を全部預けた。趙雲は、行き掛かり上それを受け取らざるを得ず、 身軽になった孔明の隣を渋い顔で歩くはめになった。
 孔明のほうを窺うと、何が可笑しいのか彼はひどく笑っている。飛んで火に入る夏の虫、とこの人の悪い軍師は、 この状況を楽しんでいるのが判った。
──厭な漢だ。
 そう思う趙雲の胸の内も、何時もほど苦々しくはない。気づけば、こんな風に笑う孔明を見るのも、趙雲には初めての ことかもしれない。
 微笑と言えば、何時も揶揄か嘲笑。物腰の柔らかさなど微塵もない。こんな漢を軍師と戴く不安を、趙雲はずっと 拭い消せないでいた。──あの作戦を提示される寸前までは。
「趙雲殿、ご用件をどうぞ」
 黙ってしまった趙雲を、孔明の声が促す。折角和んだ雰囲気を、己の一語が崩してしまうのではないかと趙雲は 懸念したが、孔明の瞳に見つめられて黙っているわけにもいかなくなる。
「先程の軍議の件でござるが──」
「はい」
「軍師殿の張飛殿へのお言葉、些か行き過ぎではありますまいか」
 孔明の足は、執務室に向かっている。諸将は、戦の準備に追われている頃合だ。趙雲とて、先鋒として参戦する身、 本来ならばこんな処で荷物持ちの真似事をしている場合ではなかったが、とまれ孔明の返事を聞いておかねば、 今後の人間関係に差し障る。
「趙雲殿、私と張飛殿が議論していた折、殿が如何なご様子でそれをご覧になっていたかご存知か」
 孔明は、微笑を含んだ顔で尋ねる。あの時主公は──と記憶を掘り起こして、趙雲ははたと気づいた。
 常ならば、真っ先に仲裁に入るであろう温和な主公は、張飛が剣を抜き放った時でさえ、ただ無言で床几に寄り かかっていた。主公らしからぬこと、とあの時趙雲は怪訝に思ったのではなかったか。
「殿には、剣と印をお預かりした折に、全てこの孔明にご一任あるようお願いしておいたのです」
 趙雲の心中の疑問に答えるように、孔明が言う。
 そのうち二人は執務室に辿り着き、孔明の右手が入口の戸を開け放った。
 それほど広い部屋ではない。東西ニ面の壁に沿って書棚が据え付けられ、中央には卓が設えてある。趙雲は、 孔明の指示通りその上に手元の荷を降ろした。
「──では、軍師には張飛殿の行動を前もって予測しておられたと」
「予測も何も。日頃の我等を知る者なら誰にでも判ること。遅かれ早かれ、張飛殿と私が衝突するのは必至だった。 張飛殿の身になって考えてみれば、新しい軍師の腰抜けぶりを面罵するには、軍議の席は格好の場に思えたことでしょう」
 孔明は、書類の整理に手を動かしながら、他人事のように淡々と語る。その表情には、皮肉もなければ、 無論憤りなどという人間らしい感情の片鱗も見えない。
「確かに、張飛殿も短気に過ぎる。軍師に剣を向けるなど狂気の沙汰だ。しかし、軍師殿のお言葉にも、 少々行き過ぎがあったとは思われませぬか」
「趙雲殿がそのように思われるのであれば、そうなのでしょう」
 人を喰ったその答えに、趙雲は憮然とする。この漢の傍若無人な態度など、今更とるに足らぬことだと思おう としたが、何故か激しい憤りが突き上げてきて、自制を押し潰してしまった。
 趙雲は、巻軸に手を伸ばした孔明の肩を、乱暴に掴んだ。
「── 一体貴方は、我等を木石のようにでもお考えか」
 孔明が驚いたように上げた目を、趙雲の双眸が射抜く。容赦ない力で骨を掴まれる痛みに、孔明はほんの少し 眉を顰めた。
「貴方がそんな風だから、関羽殿にしても張飛殿にしても貴方に良い感情を抱かぬのだ。如何に六韜三略を 諳んじようと、人との和を蔑ろにして勝てる戦などある筈がない。そんなことも判らぬ人か、貴方は」
 低く掠れた声。力の加減も忘れるほどに握り締めた手の熱さから、趙雲の後に引けない憤りを感じとる。 孔明は、伏し目がちに視線を逸らすと、小さな声で言った。
「木石などと──考えているわけではありません」
 ただ、と言いかけて孔明は黙った。趙雲の屈強な肉体の傍に居ると、自分の無力感が募る。本当はとうに 判っているのだ。自分独りにできることなど限られているのだと。
 それでも、自らの矜持を楯に、意地を張り続けるしかなかった。農民兵三千の調練とて、誰かの手を借りて やればもっと楽かも知れぬと思っても、人に依頼するのは膝を屈するような気がして、自尊心が許さなかった。
 こんな自分を、一体誰に理解してくれなどと言えるだろう。
 口を閉ざしてしまった孔明を見つめて、趙雲は溜息を吐く。聡明な彼のことだ。口にすれば判ると思ったが、 間違いだったか。
「弱みを見せることは、軍師殿にとってそのように恥でござるか」
「───」
 眼差しを和らげた趙雲にも、孔明は頑なな沈黙を守り続ける。それを拒絶だと理解して、趙雲は孔明の肩から 手を離した。
「…話したくなければ、これ以上何も申し上げぬ」
 その声には、突き放すような響きが篭められていた。それでも、孔明は引き止めることができない。
引き止めるための言葉が、浮かんでこない。
 趙雲は、呆れ果てた顔で、そのまま執務室を出て行く。
 戸口の処でひと度足を止め、形ばかりの挨拶をしたが、その声にすら、 孔明は一語も返すことができなかった。



 かくて、軍師孔明を迎えての初戦は大勝利に終わった。
 夏侯惇率いる十万の兵は、その半分以上を失い、致命的な潰滅状態で許都へ逃げ帰った。
 新野城下は、凱旋の言祝で溢れ返っている。が、独りこの大勝の功労者孔明だけは、愁眉を開かない。



「軍師」
 物憂げな顔で手元の竹簡に目を落とす孔明を、劉備は夕刻、執務室におとなった。
 夏侯惇敗戦を受けて、次は曹操自らが攻め下るであろうという予測を、孔明はとうに劉備に告げている。
 だが、曹操軍を迎撃するに拠点となる城がない。そのことが、孔明をして深い憂慮に陥れているのだと思うと、 人の善い主公は、どうにも身の置き所のないような心持ちにさせられる。
「殿」
 主の訪れに拝跪する手をとり、劉備は透けるように白い孔明の面を見つめた。
「儂の徳が足らぬばかりに、お主には苦労をかける」
「殿のご仁徳は隅々にまで行き届いております。どうかご案じなさいますな」
 孔明はそう言って笑うが、まともに眠っているのかと思われるほど顔色が冴えない。
 実際、孔明の憂愁は、曹操軍ばかりではないのだろう。劉備麾下の将軍達と良好な関係にないことも、 彼の疲労をより根深いものにしている。
 隆中より連れ帰った孔明と寝食を共にしているうち、劉備には次第に気づくことがあった。それは、 臥龍と呼ばれるこの漢が、ひどく不器用な性質を持っているらしい、ということだ。
 城下の壮丁を徴募し曹操軍に備えては如何、と進言してきた時も、誰かにやらせるのかと思いきや、 独りで全部やってしまった。城内に在っても、居るか居ないか判らぬほどに静かで、人と談笑する姿など 見たこともない。
 幼少の頃から、戦争という大禍の辛酸を嘗め尽くし、苦労して育ってきた漢なだけに、人を頼らぬ強い 独立心が骨の髄まで染みついているのだろう。
 が、国家を動かすとなるとそうはいかない。彼が今までの人生で身につけたものが独立心であるならば、 劉備が身につけたものは求心力だ。
 人を惹き付ける力。人は礎、と劉備は思う。大事を成すには、多くの人間の手を借りねばならない。 人の力がどれほどに強固か、今まで大勢の人の手によって支えられてきた劉備であるからこそ、悟り得た境地でもあろう。
 孔明、と劉備は二十も年下の軍師の名を呼んだ。
「お主、少し休養するか」
「何を仰せられます」
 孔明は、目を丸くして主君を見る。劉備の陣営に参じて間もない自分が、休養をとるなどとんでもない。 しかも、平時なら兎も角、これから曹操が攻めてこようというこの時期に。
 しかし劉備の眼差しは、およそ冗談とは思えぬ深刻さを宿していた。
「今のお主には、考える時間が入用なのではないか」
 たったそれだけの言葉でも、賢明な孔明には判る。彼は、少し俯いて、言葉を探すように口を開いた。
「私がこの新野の城に馴染めぬのは、私自身の努力が足りぬせいだと思っております──」
 しかし、と言い募ろうとして、不意に孔明は膝を崩した。天地が揺れる。ちゃんと両眼を開いている つもりなのに、頭の芯が朦朧となって思考が止まる。
「孔明…!」
 主公の慌てる声がやけに遠く聞こえた。大丈夫、と口にしたつもりの言葉さえ、果たして音として 伝わったのかどうか。
 誰かある。
 扈従を呼ぶ声に、数名の足音が慌ただしく廊下を駆けて来る。
 ──その瞬間。
 孔明の意識は、完全に真っ暗な闇の底へと落ちて行った。



 遠くで、人の話す声がする。
 衝立と幔幕に遮られて定かではないが、片方の声は主公──か。



「…で、孔明は申しておったぞ。自分の努力不足と…」
「孔明殿が…」



 低く押し殺したような声は、どうやら趙雲らしい。
 自分のことが話題になっているのは判るが、切れ切れに聞こえてくる声だけでは、 その内容までは判然としない。
 霞のかかったような意識の中で、孔明はぼんやり考える。
 一体、今は何時なのだろう。
 そんな思いも、覚醒へとは繋がらない。
 たちまち抗い難い眠気が寄せてきて、目覚めようという意識を、眠りの深淵へと追いやってしまう。



 自分は目覚めたくないのかもしれない。
 もし目覚めて、そこが隆中の草蘆に残してきたあの几席の上だったとしたら。
 それはどんなに幸福なことだろうか──と。
 悔いる自分など見たくない。



 白く差し込んでくる光に、孔明は覚悟を決めたように瞳を開いた。
 天井と薄絹の天幕が真っ先に目に飛び込んでくる。
 隆中ではない。その事実は、思ったより孔明の心を苛まなかった。随分と長い時間眠ったせいであろうか。 弱い心より、養った英気が打ち勝ってしまうのか。
 瞳だけ動かして見ると、牀台の傍らで人影が動いた。
 軍師殿、とその漢は呟いた。
「…趙雲殿…」
 双眸に映る意外な人物の姿に、孔明は驚きを隠せない。思えば、あの軍議の日以来、趙雲とはまともに 口も利いていないのだ。
 互いの任務に追われ、今更あの時の話を蒸し返すような暇もなければ、少なくとも趙雲のほうには、 二度と孔明に近づく気も起きぬはずだと、勝手に孔明は決めていた。
 それも当然のことだろう。趙雲が善意で差し伸べた腕を頑なに振り払っておきながら。
 それでも理解してくれなどと、そんな虫のいい話はない。
「軍師殿、ご気分は如何か」
「大丈夫です。お手を煩わせて申し訳ない」
 優しく労わる趙雲の言葉にも、孔明はつい愛想のない返事を返してしまう。こんな時ですら、人に迷惑を かけまいとする態度は習い性なのだ。そういう性格が災いして、人の厚意を素直に受け取ることができない。
 しかし趙雲は、孔明の余所余所しい態度にも、気分を害した様子はなかった。椅子に寄りかかって、ただ 凪いだ瞳を此方に向ける。
「医者の言うことには、睡眠不足と過労だと。ここ何日も、まともに眠っておられなかったそうですな」
「──色々考える処があって、つい」
「慣れぬ場所と慣れぬ人、それに慌ただしい日々だ。我等も些か配慮を欠いていたと反省しております」
 真摯に話す趙雲を見て、孔明は自嘲気味に唇を歪めた。
「殿が、趙雲殿に何か仰ったのでしょう」
「───」
 趙雲は黙る。図星らしい。
 孔明の苦悩を見かねた人の善い主公は、ついに古参の将軍達を集めて叱責でもしたのだろう。主公には、 この件に関しては常々口を出してくれるなと念を押してきたが、善処されるどころか、益々深まっていくばかりの溝に、 彼は主君としての責任を感じたに違いない。
 何処までも仁君だと、孔明はほろ苦い気持ちで思う。
「殿が何を仰せになったかは存じませぬが、同情も憐れみも私には無用のことです。曹操軍が押し寄せて 来ようという今、こんな瑣末なことに拘り合っている時ではありますまい」
 冷厳なほどの声音で言い放ち、牀台から無理に立ち上がろうとする孔明を、趙雲が咄嗟に支えた。 無謀でござる、と溜息をつく趙雲に、孔明は澄んだ瞳を上げて言う。
「時間がない。殿には、一刻も早く荊州をとるよう進言申さねば」
「荊州を?」
「劉表病篤く余命幾許もないと聞く。荊州をとるなら今だ。荊州に拠って立つ他、曹操軍と互角に対峙する術はない」
 趙雲の手を退けて、独り歩き出そうとする孔明の腕を、趙雲が掴み寄せる。均衡を失いやすい体は、 趙雲がほんの少し力を加えただけで、容易に引き戻された。
「強情にも程がある」
 胸当に抱き寄せられる態で、身動きも取れない孔明を見下ろして、趙雲が呆れたように言う。
「完全に良くなるまで療養せよとの殿の御命令にござる。殿にお伝えしたき儀あらば、この趙雲がお伝え申す。 そのような体で城内をうろつかれては、寧ろ迷惑にござる」
 どうすればこの巧弁な漢の口を封ずることができるか、趙雲は心得ている。迷惑、と断言される以上、 孔明としては渋々牀台に戻るほかない。
 趙雲の手を借りて、牀台に身を横たえた孔明は、不意に可笑しくなって笑った。
 趙雲が、怪訝な目を上げる。
「如何されたか」
「否、御辺は本当にひとが善いと思うて」
 思えば、この陣営に加わった時から、何かにつけて和を取り結ぼうと奔走しているのは趙雲だった。 調練の時も、あの軍議の時も。それを無用と突っ撥ね続けた孔明だったが、結局こうしてその厚意に 甘えているのは己自身か。
「今頃お気づきとは」
 それがしのひとの善さに。
 趙雲はそう言って破顔する。元来の美丈夫であるから、笑うとその精悍な顔に言い知れぬ魅力が加わる。



 趙雲は、どうやら暫く孔明の病床に添うつもりらしい。
 慣れないながらその気遣いに身を委ねるのも悪くない、と孔明は思うが、如何せん時は待ってくれない。
 主公の答えは大方予想がつく。あの仁君に、大恩ある劉表を裏切ることは恐らく不可能だろう。
 とすれば、採るべき道はただ一つ。
 如何に見事に逃げおおすか、だ。



 病床に縫い止められている間も、孔明の頭脳は忙しなく活動し続ける。
 それを傍らで見つめながら、趙雲はふと思う。



──この漢は、生まれながらの参謀なのだ。



 彼を軍師と掲げる不安は、今や趙雲の中には微塵もない。


――了



うわーお待たせしました。
本当に遅くなってしまってゴメンナサイ(涙)
しかも、リクエストにお答えできたのかどうか…心配。
出会いが最悪、という感じで書こうとしたら、びっくり。 これって本当に趙孔なの!?(笑) 自分でもわからないわ…これって趙孔?(今更聞くな;笑)
限りなくノーマルな出来になってしまって、この段でびびっている那岐小心者です…(笑)
こんなんじゃ厭だ!!!という苦情があれば言ってね。抱擁シーンくらいしかないし(笑)


@backlaneの那岐さまにごねて頂いた、キリリクでもないニアキリ(?) のお品。
いいでしょう!すごいの貰っちゃったって自慢です。見せびらかせ〜。
もう理想の趙孔ッスよ。 頑なで肩肘はった孔明くんが愛しくて、大人な趙雲さんに安堵して、こうゆう愛情表現 の描き方にただ脱帽。このお話持って隠居してもいい気分です。
またごねていいですかぁ〜。