――南へ。



 二十万の大軍が迫り来る。
 曹操軍随一の迅速を誇る張遼の軽騎兵が、輜重を捨てただ劉備軍を追い立てる。
 研ぎ澄まされた五感が、今この場所では感じるはずのない騎馬軍団の馬蹄音や、巻き上げる砂塵の量を教えてくる。 荊州に見切りをつけ、南下する曹操の下ではよしとせず、劉備に付き従った民衆の十数万。その行軍は蟻の歩みのように鈍かった。 追いつかれることはもとより覚悟の上。その民衆を巻き込んだ虐殺になる最悪の展開も十分考慮に入れた。



 諸葛亮が子供時分に体験した徐州での大虐殺。あの頃とは当事者である曹操の立場も、意義もまるで異なると、そしてそうであって 欲しいと願った。
 賭け。これは人の命を巻き込んだ賭け。
 手綱を握る諸葛亮の背が強張った。目ざとくそれを認めて、劉備が勤めて明るく言う。
「孔明よ。そのように隣でピリピリするものではない。落馬せんかと心配になる」
 堂々としていろと言われ苦笑した。
「このようなことはこれから何度でも起こり得るよ。少しは儂を見習え。非常事態だからと言うて、さきまで刃を交えていた敵に 膝を折ったことも度々しでかした。曹操にすがり袁紹に擦り寄り、生きながらえてきた。何度妻子を捨てて逃げ出したか、もう 覚えていないぞ。そんな男が首魁としての劉備軍だ。卑怯な振る舞いはないに越したことはないが、忖度し過ぎることが美徳と は言えまい」
「仰るとおりでございます」
「おまえは考え過ぎるのだよ。それが少し不安定な印象を与える」
「趙雲どのにも同じようなことを言われました」
「あれはあれで哀楽を無理に押し込めるところがあるからな。発散する術を知らぬ男だ。人のことを言えた義理か」
 劉備軍一の槍の遣い手も主公にかかるとかたなしだが、さすがによく見ていると感心した。少し柔らかく笑う諸葛亮に 劉備が満足そうに何度も首肯した。
「それでよい。孔明には微笑んでいてもらいたい」
「常にですか」
「難しいか」
「対面的にはですね。尽力いたしましょう」
 親子ほどに年齢の離れた主。彼が額ずく唯一無二の人。
 乱世に購おうという気概と、その基盤との狭間に埋もれて身動きできなかった彼を、 揺り動かしたこの人の魅力とは何なのか、未だに分からなかったりする。人徳や懐の深さだけで生き残れるほど甘くないのが 実情。頑なな自分が何に揺り起こされたのか、その答えが得たいがために出櫨したのではないだろうか。



 そのとき、彼が最後尾に放った斥候の一人が血相を変えて馬を駆けさせてきた。主従に緊張が走る。
「来たか」
「はっ。『張』の旗を確認してございます!」
 かつて中原を震撼させた「黒い騎馬軍団」呂布の武将だった張遼の軍勢が、最後尾と衝突している。十万の民衆とおびただしい 輜重を抱え、十里(4キロ)にも渡って伸びきった一行が縦に蹴散らされるのは時間の問題。ここで躊躇している暇はなかった。
 劉備の家族を守っていた趙雲が馬を駆り立て近づいてきた。
「主公、ここまでです。速度を上げて進まれてください。孔明どのもご一緒に!」
 趙雲は劉備の主騎に手短に指示と送ると、少し速度を上げ馬首を揃える。
「趙雲、頼んだ」
「後方はわたしと張飛にお任せください。さあお早く」
 劉備の短い答えに諸葛亮はそれ以上何も言えない。言葉などもう必要ない。
 趙雲の力強い視線が諸葛亮へ移る。何ものからも引かない武将の眼差し。その力強さに畏怖を覚える。生きていて欲しい。 それは強さと必ずしも比例しないことを彼は知っている。
――ご無事で。
 そう唇が動いた。趙雲が微かに笑った。
「生きて夏口でまみえましょう、孔明どの」



 劉備軍の精鋭部隊が主従の両脇を固め、南下の道を左へと進路を変え一気に速度を上げる。怒号と地響きだけが周囲を取り囲む。 矢が肩を掠めた。左から突きつけられた刃を誰かが振り払ってくれた。馬上で身を低くして応戦する。少し前を行く劉備。肩に 矢が刺さったままだ。
――取って差し上げなくては。
 朦朧としていく意識の下、そんなことをぼんやりと考えていた。
 先頭でこの圧力。最後尾はどんな有様だろう。 しかしけして後ろと振り向くなと肝に銘じた。今は主と共に長坂の橋を越えて夏口へ。すべてはそこから始まる。


 劉備と諸葛亮が長坂橋を渡りきったとき、随身の数は半数になっていた。劉備も至るところに傷を受けている。息を荒くして 馬から下りた劉備が彼の腕を掴んだ。
「酷い怪我だ。止血だけでもしておこう」
 言われて初めて腕に激痛を感じた。ぬるりとした不快感に吐き気がする。劉備は徐に麻布を取り出し手馴れて様子で彼の傷口を 覆った。驚いてその手を押し留める。
「主公、わたしよりご自身の怪我の手当てをさせてください」
「なあに、儂は慣れているから大丈夫だ。このような戦闘、おまえは初めてだろう」
 腕をきつく縛り上げて止血を終えると劉備はどっこらしょと腰を上げた。
「どこぞに薬草があればな。今夜あたり熱が出るかもしれん」
「お待ちください、主公。こちらにお座りいただいて、帰還兵を労っていただかねばなりません。わたしのことはお気遣いください ますな」
「真っ青な顔をして説得力がないぞ、孔明。大体な、うちの敏腕将軍たちが鍛え上げた兵は統制が取れているから、 橋を渡りきって何をするかなど指令は叩き込まれている。儂の出番など当分ないな」
 押し留めようとするが、軽快に手を振って草むらへと入っていく。あわてた主騎の一人がその後を追った。
 ――まったく、呆れてものも言えない。
 周囲を見回すと、兵たちは橋を渡りきって安堵するもつかの間、重症兵の治療や輜重の点検、それが終わると 陣形を組んで臨戦態勢を取っている。確かに今ここで自分たちが出来ることは現状の把握だけだと思った。
 痛む腕を押さえて、彼は戦闘の様子が見て取れる小高い丘に上がった。ざわりとした風になぶられ、両腕を抱きしめる。 張遼の騎馬軍団に追い立てられ、両脇に逃げた民衆たち。どれほどの民が犠牲になったのか計り知れないが、少なくとも 虐殺行為にまでは至っていないと安堵した。何人かの集団が橋を渡ってくる。早く、一人でも早く。
 そのとき、遠目にも単騎で戻ってくる見慣れた甲冑が確認できた。弾かれるように彼は丘を駆け下り、そのまま劉備たちの 前を素通りして橋へと走る。それに気づいた主騎がついてきた。



 橋の袂には殿だったはずの張飛が仁王立ちになっている。諸葛亮はそのすぐ後ろで立ち止まった。 目の前に全身真っ赤に染めた趙雲が駆け込んでくる。張飛が何かを叫んだ。よろけるように馬から降り、甲冑の中からむつきに 包まれた公子阿斗を取り出す。突然泣き出した赤子の声に諸葛亮はわれに返った。
「よく戻った趙雲よ。主公がお待ちかねだ。行って休んで来い」
 張飛の労いの言葉に彼は整わない息の下から搾り出すような声を出した。
「奥方さまを……お助け、しなくては」
「お待ちください、趙雲どの! そのお怪我であの中に戻ると言われるのか!」
 つい大声が出た。
「お案じめさるな。ほとんど、返り血です。場所は、わたししか、分からぬでしょう」
「しかし!」
「孔明どの。阿斗さまを受け取ってやってください」
「張飛どの!」
「趙雲が行くと言っているんだ。同じ立場ならオレも行く。行かせてやってくれ。早くしろ! 時間がない!」
 間近で感じる趙雲の血の匂い。奥歯をかみ締め、震える手で赤子を受け取った。ずしりと感じる命の重み。眩暈がする。
「かたじけない」


 趙雲の白い歯が零れた。