泣き止まない赤子の扱いなど知らない。それでも大事な荷物を運ぶように抱え踵を返した諸葛亮の背後から、からかう ような張飛の声がかかった。 「いい年した男が泣くな」 「泣いてなどいません」 「声が震えている」 「すみませんね、弱っちくって」 「それだけ減らず口が叩けりゃ十分」 睨み付けるような彼に、張飛は余裕の笑みを浮かべる。 「趙雲を信じてやれ」 「信じるもなにも、わたしにはあなた方のお考えについてゆけそうにない」 「あんたはそれでいいのさ」 本当にここの人たちは――。出会ってから何度呟いたか知れないその言葉。吐き捨てて彼は橋を後にした。 橋を越えて戻ってくる味方の数が減ってきた。背後を気にしながら諸葛亮も、負傷者の手当てと陣形の建て直しに心血を 注いだ。横になっていろと劉備に言われたが、今は動いていないと叫びだしそうだ。ここを凌いで橋を落とし当陽まで 進めば、先に漢水を船で下り、江夏に駐屯している劉gの援軍を連れて戻る関羽の軍勢と合流できる。ここさえ凌げば。 だが、まだ趙雲は戻らない。 負傷兵のうち、歩ける者や馬の背に乗れる者は、軍の再編成として組み込んだ。ここに劉備軍の二軍を指揮する 将軍が二人とも不在なのだから、彼がこなすしかない。しかし問題は重傷兵たちだ。せっかく橋を越えてきたというのに、 ここで命を落としていく者も少なくない。一人の医師と手馴れた侍女ではまかない切れない。彼はその場に留まった。 うめき声を聞き水を飲ませようと諸葛亮が背を支えた兵士は、まだほんの子供だった。片方の手の肘から下がなく出血が酷い。 医師も悲しげに首を振った。 その少年の乾いた唇に湿らせるように水を運ぶ。激痛に歪んでいた顔が嬉しそうに綻んだ。痛ましくて目を背けたくなる。 「あ、し、諸葛亮さ……だ」 「気分はどうだ」 「寒い、です」 大量の出血が体温を低下させている。彼は自らの長袍を少年兵にかけてやり、ガクガクと痙攣する体をそっと抱きしめた。 「だめです、よごれ、ます」 「なにもしてあげられなくて、すまない」 「いえ、なんか、暖かいや。すごい、なオレ。こんなに近くに、……さまが」 途切れがちな意識の下、それでも懸命に笑おうとする少年に、溢れくるものを止められない。 「帰ったら、みんなに、自慢……。かっこいいよな、って……言ってたん、です」 救えた命。そして今途切れようとしているこの命。どうしてこの子も助けてやってくれなかったのかと、今いない人に詮無い怒りを ぶつけたくなる。少年の指が宙をかいた。その手を受け止める。何か紡がれた聞き取れない言葉。唇だけがわななく。小さく 微笑を残し、少年の手はゆっくりゆっくりと力をなくしていった。 そのとき背後でもの凄い歓声が上がった。それをどこか遠くで聞いていた。どこもかしこも痛くて立ち上がれない。 なにもかもが億劫で動けない。先に血の匂い。そして近づく沓音。先ほどよりいっそう怪我に磨きがかかったに違いない。 意地になってその音から背を向けたままだった。 「わたしにも治療していただけないでしょうか」 頑なな背中に向って語られる穏やかな声音。それに呼応する自身のそれは掠れていた。 「どこか怪我をなさったのか」 「いえ、かすり傷程度ですが」 「ご覧のとおり、ここは重傷の兵士のみになっております。軽傷の方はあちらへお回りください」 「何を怒ってらっしゃる? 約束どおり生きて戻りましたよ」 飄々とした物言いについ過剰反応してしまう。 「疲弊しているのに敵地に飛び込むなんて、地位ある人にすることではない。大丈夫だなんてどうして確約できるんです。 信じろだとか、死ぬ気がしないだとか、なんの根拠があって言われる。 趙雲どのとて不死身ではない。大量に血を失うと死ぬんだ。そのように命を粗末にされる方が将軍じゃ、この少年に申し訳ない!」 趙雲は諸葛亮の肩越しに彼の不機嫌のわけを認め眉根を寄せた。 「あたら若い命を散らせてしまったか」 少年の眠るような穏やかさに少し救われた気がした。それを手助けしたのは自身だということに、この生真面目な男は気づいている のだろうか。 「でも心配してくださったのですね」 「違います、無謀さに憤っているだけです」 「怒れるだけの元気があればよろしい」 趙雲は彼の腕に目を止めた。 「怪我をされたのか」 劉備がきつく結んでくれた麻布のおかげで、何とか出血は止まったようだ。新しい布に替えた方がいいな、と言いながら自身の 怪我など二の次に彼の手当てをしようとする。その好意を撥ねつけた。 「わたしこそかすり傷です。主公自ら煎じられた薬草が用意してあります。さっさと手当てしてもらって、飲んで休んでください。 一息ついたら出発するのですから」 止まらなくなる言葉尻の刺々しさに自己嫌悪が募る。これ以上趙雲の傍にいたら何を言い出すかわかったもんじゃない。 追い立てるように背中を押した。 「泣かないでくださいよ」 「泣いてなどいないというのに、みんなして!」 「あなたは後ろを向いて泣かれるから、やるせないな」 趙雲の背中を押す手が止まった。彼の両手が小刻みに震えているのが背中越しに伝わる。突然小さくなった抵抗のわけを 確認するするのは忍びない。そのまま前を見つめ続けた。 ――今からこれでは先が思いやられる。 戦、また戦の生涯。これから彼は命令一つで万単位の生命を救い、そしてそれ以上の命を奪ってゆく。その責務をこなすには 彼の感覚は純朴であり過ぎる。そんな彼に膝を折って出櫨を希った主公に、恨み言の一つでも言いたい気分だ。 次第に感覚を麻痺させて陣営の理想にまい進するのか。二つに引き裂かれたまま苦しみぬくのか。それともここで潰れるか。 潰れないためには人知れず泣いた方がいい。途中からぽっきり折れるよりその都度。 張飛が片手を振って何か叫んでいるのが見えた。早く来いという意味だろう。それには片手で謝る仕草で返した。もう少し 時間をとってもいい。せめてこの人の嗚咽が収まるまで。そう思って趙雲は立ち尽くした。 |
劉備陣営上げて孔明くんを甘やかしてます。 泣き虫孔明くんは「時地」の影響です。(きっぱり) ところでこの戦い、「演義」では趙雲がビ夫人を助けられなかったくだりがありますが、 近頃の「北方」「陳」両先生の小説では甘夫人共々助けることになってるんですね。 あれは「演義」の創作? とすると、阿斗の生母である甘夫人でなく、ビ夫人が犠牲になる意味って? 女の身としてなにやら複雑。 そういやぁ、そのビ夫人に趙雲が恋慕する小説ありましたね。(苦笑!) |