春はあけぼの 〜そしてほのぼの






〜に


 少し不安げな劉備と相変わらず仏頂面の関羽と、なぜか悔しそうな張飛に見送られて、二人は長沙郡の 臨湘へと旅立った。
 随行する兵士の数は最小限に抑えられ、身なりを変えて隊列もわざと乱した。どこかの豪族の私兵団と認識され るに越したことはなかった。
 遠駆けに慣れていない諸葛亮のため、普段より馬足の遅い道行だ。その気遣いさえもいまの彼には煩わしい。 小休止を告げる趙雲に、もう少し進めると告げても、馬の状態を慮ってのことです、と一蹴された。
「顔色が優れませんが、どこかお加減でも悪いのですか」
 ほとんどイヤイヤ馬を下りる諸葛亮にずっと併走していた趙雲が声をかけてきた。
 余裕顔をされるのがいちいち癪に障る。なぜこの男はこんなにも己を苛立たせ、それ以上のさざ波を与えてくる のだろう。
 趙雲を目の前にすると己の生体活動周期が微妙に変化する。どこかが狂う。なのにその当人は至って 平静だという事実に余計苛立つのだ。
 その理由も知っている。分かっているし認めてもいる。それも踏まえた上での交錯した感情は、なんと 呼べばいいのか。
 矜持と言ってしまうには余りにも頑是ないただの意地。
 それぞれ寄って立つ場も、背負い込む枷の種類も違うのに、あくまで張り合い、その結果平静さを装おうとして 己を失う。
 それを認めてしまうには、波立つ己の心情が邪魔をした。
 そんな些細な失速に忖度している性分ではない筈なのに。
「世の中理不尽なことが多いなと、嘆いているんだ。悍馬だの裸馬だのと。どうして私が諌められて、趙雲ど のが激励なのか理解に苦しむ」
「日頃の行いでしょうな」
「いかに器用に猫をかぶれるかの間違いだろうが」
 それは私のもっとも得意とする分野の筈なのに、と声が小さい。趙雲はクスリと笑った。
「主公はよく見ておいでだという話ですよ。我々が持ち得ないあなたの突出した部分を、押さえ込まない 領袖でありたいと願っておられるのでしょう」
「初め私は、あの方に見合うだけの版図を用意して差し上げられるだけの男であるべきだと、自己陶酔して いたような気がする。けれど、あの方は私が思っている以上の視野の広さでお持ちだ。瞬間的に狭窄状態に 陥る私の方こそ、手を取って行く末を示唆して頂かなければならないのかもな」
「そう悲観することでもありませんよ。しかも、いかに主公のことといえど、そのような虚ろな眼差しで、 おまけに溜息混じりに語られると、私も心中穏やかではいられないことをお察しください」
「人が真剣な話をしているときにそういうことを言う」
「哀しいくらいに至って真面目ですよ、いつでもね」
 どうだかな、と吐き捨てると、趙雲は鞍上のままでその愛馬の首筋に頬を埋め何度も撫でた。心地よさそうに 彼の馬がぷるんと首を振る。何かを語りかけるようにそばめられた眼差しと口内でくぐもった労わりは、傍目 から見ても伝わってきた。愛馬に対しても情の深さを隠そうともしない男だ。
 その様子にどういった視線を浴びせていたのか分からなかったが、ストンと馬から降りた趙雲がニヤリと笑み を落としてきた。
「馬にまで嫉妬されると面映い」
「誰が!」
「木陰にでも引きずり込んで、同じように首筋を撫でて差し上げましょうか?」
 つい反射的に諸葛亮は趙雲の襟首を掴んでいた。
「随分と楽しそうじゃないか。他に誰かいるのといないのとで、態度を変えるその癖、止めてもらいたい。 使い分けなど凡そ武人らしくないだろう。主公の前では無骨で朴念仁な好漢を平気で演じているくせに。本当の あなたの姿など知らない。どれほど深く分かり合えたと錯覚しても、踏み込めない神域は誰にだってある。それは私 にも当てはまる。けれど覆い隠すのなら貫けよ。人の心を引っかいて、楽しそうに哂うな」
「不快でしたか?」
「ふ――」
 そうだと即答しかけてつい口籠もる。吐き捨ててしまえばいいのに出来ない。そこが私の弱い部分だと 臍を噛んだ。だから要点を外した答えしか出てこない。
「張飛どのの方が余程真っ直ぐだという話だ」
「分からない方だな。主公にとって必要な私は朴訥な武人でいいんですよ。それも確かに私の一面でしょうに」
「じゃあ、私にとって必要な趙雲どのはこんな――」
「こんな? なんです?」
 つい、煽って言葉に詰まってしまった。顔を背けるのも癪な話だ。
 こんな――
 その先、なんと続けようとしたのだろう。
 こんな、少し目線を下げて揄うような弄るような気遣うような、そして慈しむような。
 丸抱えされるような。
 支えられるような。
 そんな懐の深さが堪らなく座りが悪い。
 けれど、違うだろうとただそう思えた。
 違う。趙雲は誤解している。そんな手が欲しかった訳ではない。そんな彼が必要だった訳でもない。
 それはギリギリの均衡だった。
 もたれ掛かりたくなくて精一杯背筋を伸ばしても、いつの間にか隣にいるこの男の方へ身体が傾いでいる 己を発見し、敢えて反対側に反らせている事実の再認識。
 頑なに固持している矜持とは一体どこを向いているか。それは白いのか黒いのか。願っているのか、ただの反発か。 なんに端を発したのかさえも分からなくなっていた。
「いつまでもあなたの手の内で翻弄されていると思うなよ」
 そう口にしてみても、空回りするだけだ。案の定、趙雲はツラリと哂った。
「毛並みを逆立てている姿も扇情的だ――」
 なんて、申しあげませんよと、掴んだ襟首をねじり上げた諸葛亮に、趙雲は降参とばかりに諸手を上げた。
 苛ついて突っかかる軍師の姿など、それこそ余人を介しては拝めないのだ。獰猛な牙を隠そうとしない姿を 拝めるのも趙雲だけに許された特権。
 それを可愛いなどと称しては、一生口を聞いてくれないような気がする。趙雲は必死になって哂いをかみ殺した。
 さやさやと肌に心地いい風だけが通り過ぎる。それなのに己の発する先の見えない苛立ちだけが、澄んだ周囲 さえも澱ませるようだと、諸葛亮は手を離した。



 私は一体なにをしているんだ。



 精神的直滑降に陥ったかのように頭を振った諸葛亮を慮った趙雲が、
「きょうはここで野営を取りましょう」
 と提案する。冗談じゃない。こんなところで休んでいられるかと、その彼を振り切り、
「小休止のあと馬速を上げる。きょう中に臨湘の城に入るつもりだと兵たちに伝えてくれ」
 そういい残して彼は背を向けた。



 駆けても駆けても辺り一面漠々とした砂塵の曠野。凪いでいた風が容赦なく彼らを弄り、つと視線を 逸らせば落日は、爛れたように滲んでいた。
 諸葛亮の無茶のお陰で予定よりも早く件の城に近づけた。漆黒の帳が周囲を覆う前には入城できるだろう。 同じ野営でも原野の大木を背に張るよりは、無人の城の方がありがたかった。先に斥候に出した者からは、 山賊野賊たちの気配もないらしい。
 部下たちの手際のいい設営作業を見守りながら、趙雲は幾つもの小さな火を熾した。夕食の準備もしなくてはならない。 点灯はこちらの存在を明らかにしてしまう行為だが、逆に強襲された場合に暗闇では返って防ぎようがない。 このような小隊に大軍勢を率いて襲い掛かる太守はいないだろうし、もっとも畏れるべきは計算の出来ない 賊徒たちの行動だった。
「設営が終わるまでこちらでお休み下さい。直にお食事もお持ち致します」
 年若い兵士が気遣いながら声をかけてきた。
 ほとんど無休で馬を走らせたせいで、実際腰も背中も腕もガチガチに固まっている。横になればすぐに瞼が 落ちてしまいそうだったが、彼の無理につき従った兵たちはさらに過酷だ。少ない員数を 割り当て、馬の整備から野営の準備とそして哨戒。総てに余念がない。
 自らの意地から兵たちに必要な休息も与えず、そして更に彼らはこれから交代で不寝番に立つ。それを分かって いて横たえて癒す疲れなど彼には訴えられる筈もなかった。
「私のことは構うな。それでなくても人手が足りないのだから、おまえは他の者を手伝ってやれ。 設営なんかに手出しをしても邪魔者扱いされるだけだろうから、食事の支度は私がやる。その方が効率的だ」
 ふらりと立ち上がった臈長けた軍師に兵は困ったなと頭をかいた。そんなときに頼りになる上司を探すが、 彼は馬たちに飼葉を与えその調整に忙しそうだ。仕方ないかと少年兵は、多少頬を染めながら長身の彼にきっぱりと 顎を上げた。
「お言葉を返すようですが、この場においてはそれぞれの分担が既に決まっております。私のお役目は孔明さま がお疲れを残さないように気を配ること。ご思案の妨げにならぬよう尽力すること。そして御身をお守りする 手助けになること。それが使命です。君命でもあります。今更私が他の者に加勢したところで皆の足並 みが乱れるだけなのです。ですから心置きなくお休み下さい。私たちのような者にまでお心遣い頂き、言葉もございません!」
 口が過ぎましたと、言い切って彼は桶を抱えたまま脱兎の如く駆け出した。水を汲みに行ったのだろう。その彼と 入れ違いのように趙雲が近づいてきた。駆け去る少年を顎でしゃくって不思議そうに尋ねた。
「なにがあったんです? アイツ、真っ赤に頬を染めていまにも泣き出しそうでしたよ。稚くも将来のある少年 をかどわかさないで頂きたいものだ。ニッコリ笑ってありがとう攻撃ですか? それとも手でも取って差し上げましたか?  手加減してやって下さい。あなたの毒牙にかかればあんな少年ひとたまりもないでしょうに」
「穿ったことを言ってるんじゃないよ。かどわかすなどと。逆にお説教を頂いた。勇将の下に弱卒なしと いうか、断じて行えば鬼神もこれを避くというか」
「ほう? そんな向こう見ずなことを申しましたか?」
「それぞれの役割は決まっているから、そんなことにまで目を配る必要はないと。私の後ろ暗さは統率を乱す、か。 要するにどんなヘマをやっても私は前だけを向いていろということだ。この先、どんな失策を講じようが、 一兵卒を振り返るなと」
 諸葛亮が少し項垂れた拍子に熾り火がバチンと爆ぜた。えも言われぬ陰影がその秀麗な面に落ち、咄嗟に 走った趙雲の狼狽など置き去りにして揺蕩う。つと伸ばした指先はかの人に触れることも叶わず、けれど 彼は探るような手を掲げたままだった。
「それを大人しく聞いておられたのか?」
「ええ」
「苦手ですからね、あなたは。そういうの」
「苦手というより、そう、未だに隆中の片田舎の、一書生の気分が抜けていないからだな。 必要以上兵士たちを疲れさせて、今晩なにかあったらどう責任を取るつもりなのか。気分屋で利己的で――」
「そして己が持ち発する影響力をご理解頂いていない」
 けれども、と趙雲は宙に浮いたままの手を彼の頬に寄せて言葉を続けた。
「殺してしまうほどの覚悟を持って鍛え上げた私の兵士たちです。これくらい強行軍でもなんでもありませんよ。 気になさる必要もない。かえって、気遣うことすら彼らの矜持を傷つける。彼らは己に課せられた責務を十二分 に理解しています。どれほど過酷な工程ももろともせずに遂行するでしょう。それは細部にまで行き届いております。 私たちがつくり上げた我が主公とあなたの軍に、いらぬお気遣いは無用です」
 指先から伝播する思いの深さがまた彼を落ち着かなくさせた。
 この男は二人きりだと穏やかな一面を覗かせたりする。けれど誰か余人を介するとぶっきら棒な天敵に 様変わりする。
 照れ隠しかと笑みを落としかけて、凍りついた。
 違う。
 この男はいつだって変わらない。変わるのは周囲を気にする己の目に紗がかかるせいだ。無様だなとごちると、
「あなたはそのままで宜しいのですよ」
 と、眩暈を感じるほどの典雅な笑みを落とされた。兵士の一人が幕舎の用意が整ったと告げに来る。頬に添え られた手はスッと下げられたが、趙雲は彼の元から立ち去る間際、当然のように、今宵の訪いを明言して背を向けた。
 あまりにも周囲の闇が深かったから彼の表情も、そして微かな熾り火に照らされた己の火照りも判別つかなかった。

つづく