春はあけぼの 〜そしてほのぼの






〜さん


「では。今宵」



 耳元近くで囁かれた熱が体中に伝播して収まりそうもない。そのまま立ち去った背中を振り返ることもなく、 その言葉が持つ甘美な痺れに浸りきるのも一興かもしれない。
 けれど――
 そのまま支度の整った幕舎で、それこそ湯を使って身拵えを整え、夜着の袖を少し落とし、 視線を下げ、しどけなく座して、かの人を迎える趣味などありはしない。この状況下で人を試し翻弄するような 男ではないけれど、口に上らせた言葉を覆すような男でもないけれど。そして何より、その来訪を己のどこか一点が心待ちにして いる自覚もあるのだけれど。
 自覚があるからこそ、軍師としての己の存在理由と共存できない気がして、諸葛亮は星降る闇へと逃げ出した。
 哨戒中の兵の視線を片手で制し、彼は崩れ落ちた砦を踏みしめるように歩を進めた。
 ひんやりとした夜気が肌に心地よい。纏わりつく総てのものを削ぎ落としてくれるようだった。
 幽鬼が出没するといった風聞があるにしては、その闇はひっそりと静かに落ち、感ずるほどの禍々しさは 微塵もない。無念を残して砕け散った夢の欠片たちや、志半ばで費えた覇業の残留思念など、この地には ゴマンとある。言わば、それらの遺恨と背中合わせに暮らしているも同然だと、彼は思っていた。
 本当に恐ろしいものはいつの世も人の象をしている。
 理解できないのも手に余るのも、憎むべきも愛しいのも、越えるのも敵わないもの、ほんの心がけひとつの 違いにしか過ぎない。あるいはそれらの中で、己をどの位置に据えるかで、視線は変わってくる、 とそのとき、振り仰いだ中空から闇を裂くような嘶きが発せられた。



 思わず間近だった気がして諸葛亮は呼吸すら止めてその在り処を探った。それは甲高く、尾を引いたように 途切れると、また続いて低いうねりを上げた。
 声の方向を知って闇に目を凝らせば星でも灯りでもない澱んだ光がふたつ、短い間隔で並んでいた。
 狼か。
 一頭、もしくは複数頭。目睫にまで接近を許したとも、遥か遠方で息を潜んでいるとも判別がつかなかった。 煮炊きの匂いに釣られたのか、それとも人肉そのものか。山で捕獲できる食料に限りがあったのか。
 諸葛亮は目に見えない獣の動きに意識を集中させようと息を詰めた。
 不意に、低い唸りが耳元で聞こえ、土の上に踏み出した足音と鼓動が重なり、見えない筈の緩やかな 丘の稜線までもが見て取れる。
 野生の動物が放つ殺気というものが、己の命と飢えを守るためだけに解放される生物としての生存本能が、 これほど静謐だとは知らなかった。それに呼応して己の精神も研ぎ澄まされる。
 そこには謀略も詭計も野望も功名心も版図の拡大もない。ただ存在するのは生きてゆくための糧であるか、否か。 少しずつ間合いを詰め、一撃で食らいつけるかどうかを見極めているのだと知り、なぜか肚の底から 歓喜とも畏怖とも取れない奇妙な感情が湧き上がってきた。
 獣は一層高く唸り声を上げる。
 戦慄は不思議と覚えなかった。そんな異様な高揚感と、そして彼の斜め後ろからゆったりとした歩調で近づいてきた 主騎の影響で肝が据わったかと、彼は薄く哂った。
「私との約束を反故にしてこんなところで獣と逢瀬とは、少々妬ける話だ」
 趙雲が発した軽快な言葉が波紋となって獣の動きがピタリと止まった。狼狗たちの意識は趙雲に集中する。 新たに現れた獲物が簡単に御せるかどうか存分に値踏みしたあと、仕留めるなら不意の一撃しかないと 判断したのか、不気味なほどの静寂が蘇った。
 それにしてもこの男の存在感は一体どうしたことだ。軽快な調子を崩そうともしないくせに、獣の脚を止め、 唸り声を飲み込ませた。
 厭になるくらい拮抗している。
 そしてなるほどと、諸葛亮は思った。
 この野生動物と同等の規格を持ち、人の浅薄な目論みを凌駕した男に感じた居心地の悪さの所以は、きっとこの 辺りにある。
 しなやかに地を駆け目の前の敵を粉砕するむき出しの狩猟本能に、主命という枷を負ったのは確かに彼本人の 意思であった筈だけれど、そこにまたひとつ新たな束縛を課してしまった己がいる。
 孤高の気高き獣を縛するには余りにもかそけき綱の一端を離したくはなく、けれどもこの目の前で低い唸り を上げている狼狗のように、ま白い息を吐きながら泰全と疾駆して欲しいという思いもあった。
 けして綱は離さないだろうけれど。
 それは欺瞞でしかないけれど。
「約束はしていない。一方的な押し付けだったと思ったが?」
 諸葛亮は後ろを振り返らずに答えを返した。ほっこりと背中が温かく感じる。そのまま身体ごと預けてしまいたく なった。
 ここは野営地でおまけに敵地で、兵たちが哨戒中で、五感を鈍らせる訳にはいかないのだけれど。とてつもなく それは彼を蠱惑し続け、一点が崩れると総てが雪崩打ちそうになった。
 そんな姿などかの人には見たくないと、ただ願い。
「異を唱えなかったということは、ふつう同意だったと見なします。世間一般では」
「生憎、枠にはまりたくなくて、ね」
 なるほど、と趙雲は背後から回り込んで彼の前に出た。ひっそりと抑えていた狼狗の威嚇が溢れ出たように 感じる。ほんの少し彼が愛槍の握りをきつくしただけで。
「臨湘のこの砦における幽鬼の正体はこの野狗だったのでしょうか?」
「どうだろう。違うような気がする。いや、違っていて欲しいか、な。彼らは人の思惑に左右されない場所で しっかりと生息している。利用されて欲しくない」
「風聞だろうがまやかしだろうが、藁をも掴む思いで利用する者が、そんな野生動物の心情を忖度するものですか。 凡そこの空き城に夜な夜な集うハラを空かせた狼狗の群れに、やがて襲来するであろう劉備軍が襲われれば いいと考えた程度ではないですか?」
「なんかそれでは余りにもツマラナイ」
「あなたを楽しませるような趣向がなにもなくて残念でしたね。臨湘くんだりまで、遥々馬を走らせたという のに」
 趙雲はツラリとそう返しながら、諸葛亮の腰に手を回し一気にその身体を片手で引き寄せ、噛み付くような 口付けをひとつ与えた後、臨界に達した狼狗たちの殺気を払うべく、一歩踏み出して槍をなぎ払った。



 手応えはない。空を斬る音だけが闇に消えていった。
 槍先に獣たちをかけるつもりはきっとない。静かに発せられる趙雲の殺気を横目になぜかそう感じた。
 同調する鼓動を楽しみながら、所在ない手が自然と趙雲の袍衣の袖を一度掴み、そして強く握り締めた。
 狼狗たちは怯えを見せた訳ではないだろう。数を頼みに襲い掛かってしまえば、いくら劉備軍いちの槍の遣い手 でも、夜目が利かない分対応は遅れる。一度でも遣り合って血の匂いに酔ってしまえば、野生の獰猛さは収まらない。 そうなると、救いたい者を無傷で守る自信はない。この場を後ろを見せて応援を呼ぶなどの選択肢はなかった。
 向き合うしかない。
 趙雲の威嚇も悪戯に血を見ないように放ち続けていた。
 微動だにできなかったのは、ほんの刹那。
 不意に、一頭の狼狗の尻尾が円を描いたように闇に舞った。クルリと後ろを見せ、自由で気高い生き物は、 忍び寄ったときと同じように緊迫感だけを残して見えなくなっていった。
 それに追随するように他の獣たちもその場から立ち去った。後には二人同時に発せられた嘆息だけが残った。
「まず、どうして幕舎から出られた? それだけでなく、こんな灯りの届かない場所にまでなぜ足を運ばれた?  狼狗の群れに囲まれたと知って、生きた心地がしなかった」
 怒鳴るだろうと思っていた。ふだんの彼なら底冷えのしそうな嫌味の前に、キツイ一撃をお見舞いされても おかしくはなかった。しかし、空を切る筈の趙雲の腕と手は間近にあった存在を抱きしめるためにゆっくりと 動いた。
 いつになく緩慢なその動きが、趙雲をしても防げなかったかも知れない恐怖と、気紛れな獣の行動に助けられた 事実を彼に突きつけた。
「すまない」
「私があのように申しあげたせいで、幕舎を出られたのか?」
「……それだけではないけれど」
「お厭でしたか?」
 それがどの点を指して言った言葉なのか諸葛亮には判断出来なかった。あんな言葉の駆け引きが厭だったのか、 こんな状況での行為か、それともそのものか、と。
 卑怯だと言われても彼には答えられない。相手を慮っての遠慮ではけしてない。そんな甘さを持ってはいなかった。
「明確な拒否がないということは、心底厭ってないと見なしますよ。世間一般では」
「先ほどと同じことを言ってる」
「お陰さまで、あなた関しては首尾一貫してまして」
「引くことを知らない飽くなき闘争心と、己の技量に基づいた漲る自信ってとこか。嫌味なくらい徹底している。 お陰さまで助かりました」
「己の限界は己が一番よく存じております。あれは私が上手をいった訳でも押した訳でもなく、あの狼狗たちが 気紛れを起こして引いてくれただけのこと。礼には及びません」
 と、趙雲は彼を抱きしめたまま、崩れた瓦礫を背にして座り込んだ。クルリと諸葛亮の体勢を半回転させ、 背中から抱く格好で彼の両胸の辺りで手を組む。そのまま体重を貰い受けると自分は瓦礫にもたれ掛かった。
 キンと冷えた辺りの空気に、それでもそこだけが温かく、降るように望める満天の星々に抱かれている ような心地にさせた。
 回された趙雲の腕は少し震えている。それは寒さからではなく、安堵を覚えて急に襲い来た 弛緩がこんな鍛え上げられた一騎当千の武将ですら股慄を覚えるのだと、彼の体をとおして初めて知り、 その振るえが伝播して漸く素直な気持と向き合えた。
 だからと言って長年培った性質はそうそう変えられない。
「本気で肚を空かせた獣なら、こちらが気づく前に喉笛を噛み切られていたんだろう。ただ火に釣られてこちら の様子を伺っていたのなら、あなたがいなくてもやり過ごせた訳だ」
「そう。特にあなたなんか、肉付きは薄いから頭から食っても美味くないでしょうからね」
「獣が主に食するのは臓腑だろうに。それなら私だって人並みにあるぞ」
「そうでした。それは流石の私も食らったことがない」
 と言って彼は諸葛亮の首筋に歯を当てて吸い付いた。



 態と喉を鳴らせ首筋を滑る唇を手で押し返した。ほとんど後ろから羽交い絞めのように拘束されていては、 抵抗するだけで着衣の襟から乱れてくる。いい加減にしろと声を荒げると、首筋から離れたそれは、耳朶を掠って そこに留まった。なにか小さく囁かれたけれど、それを解することは叶わなかった。
「先ほどは趙雲どのが狼狗と同化して見えた。人型の狼、面目躍如だな」
「得物には煩い生き物だったりします。極上の人肉しか欲しくない」
「それが結構モテたりするから、得物の方からいくらでもすり寄ってくるという不届き者の狼なんだ」
「モテることは否定しませんよ。いいではないですか、私のせいではないし。私が慢心することでもない。 ただ飽食に飽きて思わず知った筋張った得物に魅せられてしまった、哀れな豺狼ですけど」
「筋張って悪かったな。早くこっちにも飽きて豊満な胸に帰ってしまえ。たかが数度の身体の繋がり。 男同士だから与えるものも与えたものも等価だと思うからな」
「そうか。浮気は許して頂けるんですね。さすが寛大でいらっしゃる」
「そういう話ではないだろう。許すとか寛大とか、そんな言葉なんか横たえないで欲しい。私だって女人の方が いいに決まってるし」
 そう言い放つと、趙雲はうーんと何か思案するように彼の肩に顎を乗せた。諸葛亮は視線を少し動かせて彼の出方を見守って しまう。己の発した言葉の影響を想像できるくらいに、甘やかされている実感はあった、確かに。
 態と取られた間延びした沈黙に痺れを切らしたのは諸葛亮の方。背中に感じる趙雲の鼓動もそれを手伝った。
 少しだけ背後が気になって、ほんのすこしだけ顎を動かせただけなのに、片手で頬を固定され悠然と 降りてきた趙雲の口付けはやけに長かった。
 扇情的にならない唇を合わせただけのそれは、なにかを雄弁に語り思い悩み、そして至り、降りてきたときと 同じようにスッと引いていった。
 その引き際の呆気なさに、喉を鳴らさなければならなくなったのは諸葛亮の方だった。気配だけで趙雲が 目を細めたのが分かる。分かるだけに彼は反対側へと顔を反らせた。
「孔明どのが女人と懇ろになられるのは容認いたしましょう。柔らかな胸が恋しくなるときもありましょうから」
「寛大な折り合い、ありがとう。で、だから自分も許せと言っているのか?」
「いえ、私は雑食ではないですから」
 と、シレっとした声が返った。
 フンと鼻を鳴らして前を見据えると、再度背後から伸びてきた大きな両の腕に絡め取られた。余りの温かさに 今度は眠気が襲ってくる。トロリと身体を預けると、どこか遠くで獣が一度朗々と嘶き、尾を引くようにそれは 途切れていった。
 早く幕舎に戻った方がいいに決まっているのだけれど、ここで本気で微睡んだとしても、きっとこの腕が 連れ帰ってくれる。
 甘やかされているからな、と彼は眼を閉じた。


――了






脳みそが沸く春ですね〜(もう盛夏だけど)
基本的に劉備軍一丸となって先生をからかって、 それにセンセは大人気ない一撃を食らわすって話が 好きなようで、久し振りの更新なのに、こんな同じような話でごめんなさい。
と、言いながら、 今回二人は泊まりだわとウキウキしながら書けたので嬉しかったのデス。タイトルどおり、いちゃこらしてる だけだったけど(苦笑)