春はあけぼの
〜そしてほのぼの
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〜いち 「なんでもよ。臨湘の城に幽鬼が出没するって噂があるのを知ってるか?」 「はい?」 そんな埒もない話を持ってきたのは、お世辞にも諸葛亮とウマが合うとはいえない虎髯の将軍だった。 赤壁で曹操軍を敗走せしめ、呉国との戦後処理に不明瞭で確約のない線引きをし、劉備軍本隊を江陵南岸の 油口に拠点を映した。周瑜の率いる東呉軍は、この機に荊州に足がかりを見つけ出そうと江陵を包囲している。 なぜ真っ先に荊州奪還のために動かないのか。このままみすみす周瑜にくれてやるつもりかという諫言は、 この張飛や関羽から散々聞いた。 周瑜は江陵陥落に手を焼いているとも聞く。赤壁でほとんど無傷で兵力を温存してきた劉備軍だ。いまなら 必ず周瑜を退け、江陵を落とし、荊州全土を掌握できる。 それに対して己の進言ながら、主公がお決めになられたことですと、彼は古参の将軍を一蹴してきた。 二人が語る荊州への熱き思いと、放浪の将軍劉備に領土を持たせてやりたいという義兄弟の情に、聞く耳すら 閉じていた自覚だけはあったものだから、これは新手の嫌がらせかと諸葛亮が構えたのも無理はない。 おまけに臨湘は、長沙、桂陽、零陵、武陵の江南四郡を攻撃するための拠点だ。間もなく劉備軍本隊がこの油口を 進発してその地へ向う。 なにが幽鬼だと諸葛亮は口の端を上げた。 「油口の民政とこれから向う江南四郡の状況の把握に、睡眠時間すら割いて執務に没頭しております私が ご理解頂けないでしょうか?」 うん、確かに目の下に隈が出来てるなと張飛は闊達に笑う。 「状況確認ありがとうございます。ついでに絹のようだと称された肌も荒れ放題だと申しあげておきましょう。 実際幽鬼の手も借りたい程多忙を極めております。そのようなヨタ話は他所へ行ってなさると宜しかろう」 「ヨタっつっても、これから向う場所なんだし、あんたの耳に入れとこうと思ってよ」 「私如きの執務にご理解頂いて感謝しておりますが、生憎そのようなマヤカシに何の興味もございませんので、 折角のお越しが徒労でございましたね。それとも、将軍はそのような恐ろしい噂が飛び交う瘴癘の地へは行きたくないと 仰せですか?」 口を開けばただ慇懃無礼で辛らつな言葉を重ねてしまう。疲れているんだ、いい加減にしろと僅かな理性が 溜息となって吐き出され、なんとか暴走を押し止めた。 だが、張飛にとってその辺りの苦渋は、彼の遥か上空を掠めているだけに過ぎないのだろう。 「だあれが、怯えただと? そんな実体もねえもんに。ただよ、実際見たことないしな。それも含めての討伐 なんか楽しそうじゃないか。兄者、いや、殿も喜んでた。生け捕りにしたら一番いい馬くれるとよ」 「左様でございますか。しかし、そういう手合いの話は、そういう手合いを好まれる方とご一緒にどうぞ。 ご存知ないでしょうが、私は淫祀邪教、呪い、詛い、幽鬼の存在を毛ほども信じておりません」 「はは。やっぱりそうきたか」 「どういう意味ですか?」 「みんな、反応がそれぞれだなと思ってよ」 「皆さまにその話をなさったんですか?」 つい、暇ですねと口に出してしまった。張飛曰く、武人を殺すに刀はいらないのだそうだ。二、三日の待機で 心根が腐るだとか。それお気の毒さまとしか言いようがない。 腹がたつことに諸葛亮の筆は竹簡の上で完全に止まっていた。相手の状態を忖度しない張飛も張飛だが、 それに耳を傾けて相手をしている自分もどうかと思う。早く片付けてしまわないことには、いつまでたっても臨湘へ 進発できない。心根が腐るのだろうに。 それでも張飛はご機嫌に続けてきた。要するに暇なのだ。 「殿は是非会ってみたいとか言うし、関羽の兄貴はそれは強いのかって確認してくるし、趙雲なんかよ――」 『孔明どのは、恐れを覆い隠すために興味がないフリをするだろうな』 そう言ったらしい。 心ならずども怒りが沸点に達してしまったのは疲れのせいだ。恐れをなそうが言論武装で怯懦を覆い隠そうが、 あんたに関係ないだろうと不貞腐れたのも、執務室に篭りきっていた弊害だ。 普段の彼ならここで凍土なみの冷笑を浴びせて、張飛を退散させていただろう。けれど真っ直ぐに湧き上がる 感情を持て余している己というものに、少し安堵している部分がある。 誰の反応も気にならないというのは嘘だ。何にも怒れないのも、興味がないフリをするもの、本当の己とは違う。 恐れも怯えもふつうにある。それを表現してこなかっただけで。 意趣返しをしてやる。 ふつうにな。 かなりこの陣営に感化されてきたなと呟き、彼は拳を掲げて軽快に立ち上がり白々しくも言葉尻を上げた。 「この諸葛亮孔明を匹夫と称したか、趙雲子竜!」 「へっ?」 「この世で私が真に恐ろしいと思えるのは、漢帝室を蔑ろにし、私利と己の欲望と理想だけにまい進する曹公に対して の牙を失うときだけだ! それ以外に怯えるものなどあろうか!」 「――はあ、そうですか……」 「それとも私の忠心を疑っての言葉なのだろうか?」 握りこぶしを震わせて、ついでに肩も慄かせて彼は呟く。張飛は片手をブンブンと振って否定した。 「いや、あんたに限ってそれはないって」 「しかし、少しでもそう思われたのなら心外です。ちょうどよい。そのような瘴癘の地に主公をお連れする訳には いかない。私が斥候に立ちます。真偽の程を確かめて参ります」 「ちょ、ちょっと待てよ!」 「主公には私の方から申しあげますので、ご足労ですが、趙雲どのにご説明頂けますか? そののち、主公 の元までおいで頂きますよう。出発は早いに越したことはありませんからね」 「いや、孔明どの。これはそういう話じゃ……」 「さぁ、忙しくなってきた。では、趙雲どのの方は宜しく」 諸葛亮は近くに侍っていた下官を呼び寄せると何やら指示を出している。その男が姿を消すと、程なく見覚えのある 文官が泡を食ったように駆けてきた。なにやら顔を青くして諸葛亮を取り成している。 はっきり明言したのだから本気で出かけてゆくのだろう。まったく言い出したらきかないのは、冷静に対処 しているときも、少し分別を失っているときも変わりないようだ。 あの背中は絶対に舌を出して笑っているな。 どこのどいつだ。これを神仙の如くと称したやつは。 対外的にはいい顔しやがるからな、と張飛は口籠もる。 あの文官は後始末を言い渡されているとみた。 気の毒に。 だがもっと気の毒な男は、己の発した失言にもならない一言のせいで、こんな事態に陥っているなど 夢にも思っていないだろう。 いまごろ気分よく馬でも洗ってるかも知れない。 ほんと気の毒に。 ついでにそれに踊らされているのは自分だ。どれほど諸葛亮が嘆いて、今回の斥候にたつ羽目になったかを 劉備に伝える役どころなのだろう。 「どうするよ、趙雲」 張飛は頭をぽりぽりとかいて、彼らの政務引継ぎの様子を眺めていた。 少し呆気に取られて、それでも一応劉備は反対した。 「なにもそんなに意地にならんでも」 関羽はまたしても無謀を言い出した男を思い切り睨み、張飛はちらりと趙雲を伺う。 当の男は涼しい顔をしてあさっての方角を見ていた。 「らしくないぞ、孔明。そのように言葉尻を捉えるなど。誰がお前の胆力を疑うものか。というよりも 軍師が何を競っておるのだ」 「近頃、女人のような扱いを受けている気がしまして」 「あり得んぞ、孔明! 誰だ! 誰がそのように扱ったというのだ! 周瑜か! 東呉でなにがあった!」 あながち的外れでもなく、けれどこの場において針のむしろに座らせたい者は別にいたのだが、その張本人は シレっと肩をすくめて嘆息を吐き出した。 「まったく白々しい」 「何か仰いましたか?」 諸葛亮は器用に片眉だけを上げて詰る。 「いいえ。ひとり言です」 「なんだ。趙雲。心当たりでもあるのか?」 「一向に。思い当たる節がございませんな」 諸葛亮も負けていない。 「ツラの皮の厚いことだ」 「何か?」 「ご同様にひとり言です」 ぷいと、子供のように顔を背けあった二人を劉備が、まあまあ、仲良くしなさいと、訳の分からない取り成している。 義兄弟たちはどうにも反応できないという顔をしていた。 もともと、町の旗亭で酒飲み話として話が咲き、覚えていたのを吹聴したのは確かに張飛だが、思いのほか 意地っ張りの軍師を焚きつけるようなことを言ったのは趙雲だ。それをむざむざと彼に伝えてしまった事実は、 この際忘却の彼方に押しやるとして、確かに誰かが本隊に先駆けて斥候と折衝に立たねばならない。 稚気ぶってはいるが、本筋から大して離れていないのがなんとも小憎らしいと張飛は思う。 しかし―― 「お前が出張る必要がどこにある。いまここでお前が抜けると、馬良たちの浮き足立つさまが手に取るようだ」 「さよう。斥候にはそれに着いている者がいる。その者たちに任せられると宜しかろう」 言外に文官は帷幄の中で大人しくしていろと匂わせていた。特に関羽は文武官の線引きに厳しい男だ。 「そうは仰いますが、臨湘近隣の様子や地形などを実際この目で確かめておきたいのです。主公をお連れするべきか どうか迷っているのも事実ですし」 「細作たちに書かせた地図では心許ないか?」 「十分だと思いました」 「ではなぜ?」 眉間に皺を寄せた劉備に彼は小さく微笑を送り、 「なぜ、臨湘の城に幽鬼が出るという風聞がたったのでしょうね」 と、情感たっぷりに続け、議場の中をゆっくりと歩き出した。 「急がねばならないような気がするのです」 ハッとしたように劉備は視線を絞る。関羽と張飛は小さく唸った。反目しあっていた趙雲も彼の動きを目で 追っている。 「それが事実であれば結構なのです。夜な夜な無人の城を徘徊するという幽鬼とやらを拝みたい気もある。 けれど誰かが故意に流したのだとしたら、それを逆に利用しない手はない。劉備軍は噂の真偽を確かめるために 先遣隊を使わした。それが帰還するまで本隊は動かないと敵は見るでしょう。絶好の機会ではないかと」 諸葛亮は劉備の前でピタリと歩を止めた。 「なるほどな。早々に動かれては困るなにかの事情が、どこかにあるかも知れん、か」 「確約は致しかねますが」 「では、本隊はお前たちから一日半遅れて夜陰に紛れて進むことにしよう」 「お待ち下さい。主公が立たれるのは私の報告を待たれてからでも――」 「急がねばならぬと言ったのはお前だ、孔明。油口は拠点に過ぎん。喩え、周瑜に奪われても痛くも痒くもないだろう。 それよりも江南四郡の方が急務だ」 「仰せのとおりでございます」 傅く諸葛亮を目で制し、劉備は趙雲の名を呼んだ。 「聞いてのとおりだ。孔明と共に本隊より先んじてくれぬか」 「ご命令とあらば」 「道中くれぐれも気をつけよ。お前たちは年も近いから無意識に相手を傷つけてしまうのかも知れない。 いつも冷静な孔明が食ってかかるのは趙雲くらいなものだしな」 孔明、と劉備はいつになく真摯な声で寵臣の名を呼んだ。 「お前は些か趙雲に甘えている節がある。それを忘れぬ方がよいだろう。そして趙雲」 「はっ」 「ほんの少しでよい。寛大に処してやってくれ」 「かしこまりました」 「ちょっと待ってください。それじゃ私ひとりが悪いみたいじゃないですか?」 劉備は慈しみに溢れた視線で彼を捉えた。 「これだからな。この劉備軍いちの悍馬を手なずけられるのはお前しかおるまい」 「悍馬って誰のことですか?」 関羽も張飛も自慢の髯を揺すって笑っていた。 「悍馬というよりも、鞍をつけるのを嫌がる裸馬と称した方が言えて妙かも知れませんな」 関羽の言葉に、いつもは仏頂面の彼が笑ったのだけは許せないと諸葛亮は思った。 つづく
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