残り香〜4









 いままで俺はいったいなにをしてきたんだろう。
 なにに目を閉ざしてきたんだろう。



 バルバスのお披露目も兼ねた曾我の遺作コレクションも盛況のうちに終わりを告げた。プレスへの対応に追われて いるシュザンヌに会釈してバンケットを出たところで、後ろから追いついてきたバルバスの手が蒼紫の肩にかかる。 反射的に、つい、剣呑に視線を絞ってしまった。そんな頑なな態度に苦笑しつつバルバスは、君の部屋へ押しかけてもかま わないかね、とまるで睦言のような科白を返した。
「なぜ?」
「わたしが崇拝するモデルのために、祝杯を挙げるくらいの機会は与えてくれ」
「一緒に呑むには俺ほど不適合なものもいない」
「呑めないんだったね。構わないよ。君を前にしてグラスを傾けたいだけだから」
 さらに睦言を重ね、バルバスはエレベーターの階数ボタンを押した。是も非も否も応も、そして、その直裁なもの言いと 強引さに、反論を挟む言葉を知らない。ついでに、図々しいと思う余地もなかった。
 きっと、トロくさいとか危機管理がなっていないとか、 あの男なら眉根をひそめる場面なんだろうが、命の危険に晒されるのならまだしも、ただあからさまな秋波を当てられた からと言って、身を硬くするほどのことでもない。ふたりきりの自室で酒を呑むという行為はそれだけのことだ。
 背中に当てられたバルバスの手から一歩逃れて、蒼紫は彼を招き入れた。
 セミスイートのルームテラスからは夜のバンドーム広場が一望できる。彩度の落とされた部屋に差し込む、ライトアップ された光の波紋がやけに淫らにうごめいていた。蒼紫はタキシードの上着はそのままに、タイだけを外してソファに 沈み込み目を閉じた。
 久し振りに浴びたフラッシュからは、気疲れしか感じなかったわけでも ない。確かにある高揚感。この世界しか知らず、ただ着飾り背筋を伸ばして生きてきた。敷かれたレールのあつらえられた 道だった。賛美も嫉視も十二分なほどに浴びて、重いながらも自分の足を動かして歩いてきた道なのだ。総てを忌避して しまっては、だれに対しても申し訳が立たない。
 沈思黙考気味の蒼紫に、ルームサービスをオーダーしているバルバスの視線が外れることはなかった。
 慣れている。そして理解している、そんな視線の意味。けれど、不特定多数の衆目の前に放り出されて、相手が納得する 答えを出してゆく作業よりも、ずっと重い枷が圧し掛かるのだと、今更ながらに感じた。そして、寄せられる好意 には、どうやら種類があるということも。
 いや、ただ受け取り方が違うだけか。いつだって伏せていた視線。上げて真正面から見返さなければならないなんて、 考えもしなかった。あの男と出会う前までは。
 蒼紫の思案をよそに、サイドボードで仕切られたプライベートバーからは、バルバスが抜くシャンパンのコルクの音が 弾けた。その音に気づいて流離っていた意識が戻る。圧縮されていたなにかが、同じように解き放たれた気がした。
「再会を祝して」
 フルートグラスがふたつ、蒼紫の前に差し出された。それを目の高さに掲げ、気泡の霧散を楽しむ余裕が、蒼紫に 生まれてきた。
「再会とこれからの『アルコーン』の成功のためにだろう」
「それはそうだね」
 口をつけようとしない蒼紫を尻目に彼はそれを傾ける。そして続けられた言葉は、蒼紫の過去を清算するための確認 作業かもしれない。
「君にとってソガはどういう種類の男だったんだ?」
「種類? そんなことが気になるのか」
「とてもね。気になるし、興味もある」
「才能あふれる情緒不安定な子ども。それはあんたも知っているはずだ」
「確かに。ただ一番間近にいた君の口から聞きたかったんだよ。君が称するソガをね。いろいろとウワサが錯綜 しているようだし。そうそう。ソガが作品を練るとき、君は彼の前で一糸纏わぬ姿だったと 聞いたことがある。それはほんとうかね」
 ああ、そういうこともあったな、と蒼紫は手にしていたフルートグラスをテーブルの上に戻した。どこからそんな ウワサが漏れたのか、あれは曾我の絶頂期。マネージャーの武田観柳ですら席を外すように命じられた、ふたりきりの アパルトマンでの出来事だ。
 あのとき、自らも常軌を逸していると苦笑していた曾我が吹聴して回るはずがないから、かねてより、蒼紫への執着の 深さから推測された邪推が、事実だったという稀有な事例かもしれない。
「トルソー相手では実感がわかないと言われた」
「ほう? だから言われたとおりに」
「そうだ」
 バルバスの瞳が野卑な色に染まる。それでもこの男の品格が歪むことはないのだから、持って生まれた大らかな容貌と 年相応の落ち着きに助けられていると言えよう。その点から言えば曾我の方が滑稽なほど神経質で粘着質だった。
 だが、そんな倒錯しきった事実も、そこに存在する精神性はスキャンダラスなゴシップネタにはして欲しくない。 あのときの曾我はあくまでもデザイナーの目で蒼紫の裸体に素材を重ね着させていたのだから。立ち上がり、蒼紫に触れて きたのはずっと時間が経ってからだ。
「なかなか、逞しいプロ根性だ」
 なにに納得したのか、余りにも冴えた瞳のままでバルバスが隣のソファへと移動したものだから、腰を浮かせて場所を つくると、突然天地がひっくり返った。気がつけばソファに押し倒され、蒼紫よりもひと回りもふた回りも逞しい腕に 抱かれて身動きひとつできなかった。
「言っていることとやっていることが違うぞ、バルバス」
「ソガの枷から解き放ってやるとは言ったが、わたしの想いを抑えてしまうとは言っていない」
「確かに曾我は子どもっぽい男だった。だが仕事とプライベートを混同するようなことは一度もなかった」
「恋人とふたりきりで、しかも君のそんな状態を前にして欲情しないなんて、わたしには考えられない。よほど君に気を 使っていたのか、ただの臆病者か。君の裸体をただ眺めながらデザインをイメージするなんて、怖ろしく卑小な集中の 仕方だな」
「それでも、俺はあの男のそんな部分が好ましいと思っていたんだ」
「それはわたしも同感だ。ソガには敬意を払っているよ」
「ならばその手をどけろ」
「それは無理だ。なかなかいい眺めだからね。それに確認したいのだが、アオシ。同じことをわたしが望んだなら、 君は応えてくれるかい?」
「裸になるのは慣れている」
 そう。コレクションの楽屋など、素っ裸のままメークアップアーティストからスタイリストへ引き渡されるなんて、ザラ なほどの修羅場なのだから。
「だが、曾我への対抗心だけで戯言を繰るのはやめてくれ」
「対抗心? 心外だな。ソガはもう死んだ。君とわたしで新しい『アルコーン』をつくり上げてゆきたいという純粋な 願いだ」
「純粋が聞いて呆れる」
「君がこの仕事を辞める、なんて言うからだよ」
「それを引き止めるために、あんたは男を押し倒すのか」
「いや、これはただの趣味だ。希望ともいう。だがね、アオシ。一度スポットライトの当たる華やかさに慣れたものが、 そう簡単に身を引ける筈もないんだよ。君だって分かっただろう。ソガのスキャンダルは君をも失墜させたかも知れない。 だが、パリのモード界はまだ君を必要としている。いまはまだ冷ややかだが、君の才能をやり過ごしてしまうには、 存在感がありすぎる。わたしは思うんだよ、アオシ。君になんの 野心もないとは思えない。その容貌に反して、だれよりも情熱的なんじゃないのか、とね。君は変わるよ。わたしが変えて 見せよう。日本に帰ったってなにも進まない。君の存在を渇望するここで、君は新しい生活を始めるべきなんだ。 わたしの傍にいなさい」
 情欲に塗れた瞳のままでバルバスは正論をささやく。いまにも触れんばかりの近さにある唇から漏れる、甘やかな シャンパンの香りと、コロンに混ざった男の体臭と、それは蒼紫を酩酊させるには十分だった。
「分かっている」
 この男は十二分に自分を理解してくれる。引き上げてもくれる。この腕は曾我よりもいっそう頼りになる。なのに、頭の芯が 痺れるほどの華やかな香りに包まれながらも、ふと過ぎったのは、なぜか、鰹の出汁が利いた蕎麦のツユの匂いだった。
――そう。
 フランスにいたんじゃ、あんな旨い蕎麦は、そう簡単に、食えない。



 『現場百回』
 それは斉藤たちにとって、身に染みている真理だ。
 スナックのママ連続殺人事件の第一回捜査会議が終了するや、刑事たちはそれぞれの持ち場に散って行った。 斉藤たちの仕事は昨夜に引き続き、現場周辺での聞き込みだ。生憎、犯行が行われた夕刻にまではまだ時間がある。 少し早めの昼食をとるつもりで斉藤は、相棒の安慈と共に馴染みの蕎麦屋の暖簾をくぐった。
 安慈もお気に入りのこの店は、先日蒼紫を誘った江戸前二八蕎麦の名店だ。特別なにか食いたいものがない限り、 ついつい足を運んでしまう。昼の定食は盛り蕎麦と日替わりの煮物などの小鉢と。単調ながらも斉藤にとって、 なぜか飽きることのない味だった。
 あの日ここで、仏頂面も秀麗なあの男は、少し緊張した面持ちで蕎麦をすすっていた。一緒にメシを食ったのは三度 ほど。そう言えばラーメン屋に連れて行ったときも、そのもっと前の定食屋でも、こんな食べ物、初めて目にしたといった 風情だった。
 妙な男の過ぎた保護を受けて育ったせいか、なにかと世間ズレした男だ。そんな男がひとりでフランスへ行って、 いまごろなにをしているのやら。ちゃんと食うものを食っているんだろうな、と、どこにいても人の保護欲を刺激して 真綿で包まれているとは知らない斉藤は、つい、いらぬ心配をしてしまう己に苦笑した。
――無理をするもんじゃない。
 蒼紫の言葉が過ぎる。あの男も自分に負けずと劣らず心配性だ。囚われた想いが同情の延長だと推測しているのだろう。
 大きなお世話だと言いたい。
 どの状態が無理なのか、おまえに分かるのか、と。
 斉藤は勢いつけて大きく息を吸った。
 店内は昼前だからまだ空席が目立つ。店主に片手で挨拶を送り、斉藤は籐の椅子に深く腰掛けた。嫌煙家の安慈が 厭がるから店内で煙草は吸わない。手帳を開いていままでの捜査状況を振り返り、集中状態の相棒には声すらかけられない。そんな 安慈を前にしてやや間が持てず、頭の後ろで両手を組んで上体を逸らした斉藤からは、カウンターの真後ろ――真横に 長い長方形に切り取られた壁の奥にある厨房が見渡せた。
 湯気の上がる大きな鍋。真ん中に位置する大きなステンレスの調理台には、小鉢や器が並んでいる。さらに奥には裏へと 続く勝手口の扉。そこが開かれて前掛け姿の男が顔を覗かせた。厨房スタッフにひと言告げると一度姿を消し、彼は恐らく 食材の搬入業者なのだろう。ダンボールを抱えて戻ってきた。
 厨房スタッフがそれを受け取り、仕入れ伝票らしきものにサインをする。スタッフはそれを片手に店内に入ると、 レジからいくらかの金額を取り出して、支払いを済ませた。締め日一括の買い掛けにしない現金払い。たまにそういう 業者もある。
 なにかが琴線に触れて、斉藤は思わず立ち上がった。ふたりの定食を運んできた店員も安慈も訝しげな視線を送って いる。
「どうした?」
「支払いだ、安慈」
「なに?」
「食材や物品などの仕入れ業者への支払いだ。業者が来る。伝票をチェックする。『むーんらいと』も『らら』も店の一 番奥のカウンターの切れ目あたりにキャッシャーがあった。彼女たちは品物を受け取って支払いのためにキャッシャーに 向う。仕入れ伝票などのファイルはその真横に立てかけてあったじゃないか。業者に対して背を向ける格好になっても 不自然じゃない。それに業者なら開店前の時間帯に来るのが当然だろう。犯行時刻が五時だとか六時だとか、客が来るにしては 早すぎるはずだ」
「なるほど。その線があったか。早速、三係長に進言しよう。重複している常連客はいないという報告だったが、もっと 徹底的に仕入れ業者を洗いなおす必要があるな」
「彼女たちが大人しく背を向けた理由にも説明がつく。いくら気安い客でも、それは失礼に当たるだろう。彼女たちは接客の プロ中のプロだ」
「分かった、斉藤。とにかく座れ」
「ああ?」
「おまえみたいにデカいのに突っ立っていられると、他の客に迷惑だ」
「おまえにだけは言われたくはない」
 たての長さは変わらなくても、横幅は倍以上違う。安慈の場合、店に一歩踏み入れるだけで他の客の躰が一瞬強張る ほどの巨漢なのだ。おまけに目の下の隈も濃く、ひと睨みするだけで被疑者が震え上がるほどの強面だ。しかしその巨漢は 定食を運んできた店員に礼を送り、キチンと両手を合わせたあと、シレっとのたまった。
「わたしは己の存在を熟知している。必要以上に警戒心を煽ってしまう質だということも。だからこうやって礼儀にかない、 折り目正しく昼食を頂こうとしているのだ。座れ、斉藤。座ってさっさと食ってしまえ」



 スナック、『むーんらいと』と『らら』とに共通している仕入れ先は、酒類の卸し業者だけだった。 どちらもこじんまりとした小さな店。スナック菓子やその他細々したものはママが自ら買出しに出向いていたと思われる。 二店に共通している、渋谷に支店がある酒類卸し業の担当者には犯行当時の明確なアリバイはなかった。翌日、任意で同行を求め問い正した ところ、他の店へ搬入で移動中だっという答え。少し目の泳いだそのさまを、三係長が見逃すはずがない。
「あら、取調べの様子、気にならないの?」
 逮捕状はまだ出ていない。事情聴取でもなくただの世間話の域を出ない。だが、参考人と三係長比古が一日二、三時間、 取り調べ室にこもってきょうで二日。目撃情報も物証もない状況で、心理的な圧迫をかけて容疑を認めさせる比古の手腕は、 見事をとおり越してあざといとも言える。
 他の刑事も詰めているいま、自分がここにいる必要はない。帰り支度をしだした斉藤に声をかけてきたのは、同僚の 高荷恵だった。
「比古さんが手塩にかけて、こねまわしているんだから、オチるのも時間の問題だろう」
「だからって帰っちゃうんだ。近頃どうにも仕事に身が入ってないって思うのは、あたしの考えすぎ?」
「今回の事件が起こる前から泊まりの連続だったんだ。十日ぶりの我が家のベットが恋しい。おまえにとやかく言われる 筋合いはない」
「恋しいのはベットだけかしらね」
「やかましい。さっさと仕事に戻れ」
 どこまでも妄想と思い込みの混じったカンの働く女。当たらずとも遠からずだが、仕事に身が入っていないなんて言い掛かりで 斉藤を挑発し、日頃の激務のウサを晴らそうという目論みはお見通しだ。だが寝不足の頭では高荷の相手は務まらない。 こんなときは無視するに限る。背広をかつぐ格好で、斉藤は彼女に背を向けた。
「斉藤警部補」
 珍しくも役職名つきで呼びかけられた。背中越しにも恵が口の端を上げて哂っているのが分かる。答える気もなく三係室 を出ようとすると、さらに彼女の声が被さってきた。
「いまどき珍しい絶滅品種。大事な大事なあんたの清楚な姫によろしくね」
「なに言ってんだ、おまえ」
 無視するつもりが、つい、斉藤は半身を返してしまった。
「またまた、しらばっくれちゃって。部屋に戻ったら三つ指ついて出迎えてくれるんだ、あの美人が」
「そんなわけ、あるか」
「うそ。前の事件の任意のとき、あの男とふたりで仲良く肩組んで、堂々と正面玄関から出て行ったじゃない。どーせ、 そのままなし崩しであんたの部屋に連れ込んで、嬉し恥かしの同棲生活がスタートしてんでしょ。でも、浮世離れも甚だしい新妻を ひとりになんかしておけない。米のひとつも洗えない。出来るのは洗濯ものの取り入れくらい。一刻も早く帰ってやらな くっちゃ、餓死させてしまうっ」
「肩なんか組んでないし、連れ込んでもいない。だれが同棲だ。ひとりで勝手に盛り上がるのもいい加減にしろ」
「なんだ、違うの? オトせてないの? まさかまだ、純愛路線に浸ってるんじゃないでしょうね。どーしたのよ、 斉藤ともあろうものが。あんな歩く耽溺みたいな男を野放しにしといたらね、また前みたいに犯罪に発展するんだから。 ちゃっちゃと確保しときなさい」
 歩く耽溺だの誘蛾灯だの、蒼紫に対しても言いたい放題だ。カラカラ哂う恵に対し正面切った斉藤は、ここぞとばかりに 壮絶に笑んだ。
「おまえに心配してもらうほど落ちぶれちゃいないさ。だが、あれだな。オレへの想いを押さえ込んで、あくまで友人と して接してくれるおまえには感謝している。おまえほどイイ女もおらんだろう。なのに、まだひとり身なのはどういう 理由だ。理想が高すぎるのか? それも考え物だな。署内におまえのメガネに適う男はいないのか? 安慈なんかどうだ? アイツは いいヤツだぞ」
 いま一度背を向けて片手を上げた斉藤の耳の横を、だれかのペンケースがとおり過ぎて行った。



 そして自宅マンションに帰りつき、エントランスの扉に手をかけた斉藤の目に、ぼんやりと佇む男の長身が 飛び込んできた。



continue