残り香〜5 |
「四乃森……おまえ――」 自宅マンションのエントランスの段差に片足をかけた状態で、斉藤は呟いた。生成りのコットンシャツに ジーンズ、肩にワンショルダーのバックパックをかけ、俯きがちに歩いてきた男は、途切れがちな声に反応し緩慢な 動作で顔を上げた。 斉藤を認めて微笑むでも足を速めるでもない蒼紫は、なんの気負いも挨拶もなしに近づくと、ただ斉藤を見上げてくる。 聞きたいことは山ほどあった。伝えなければならないことも。紡ぐ言葉の多くを知らない男に対し、歩み寄るのは いつだって自分の役目だったりする。 だが。 いま、なぜ、ここに。 蒼紫の行動が総てだ。計らずとも恵が言ったように、三つ指ついて出迎えてくれたわけじゃないが、斉藤に向って 一直線に歩いてきた。それは斉藤の腕を上げさせるに足る答えだった。 「仕事は終わったのか? いつフランスから戻ったんだ?」 「きょう。いま、さっき」 「空港から直接? 家にも寄らず、か?」 それには答えず蒼紫は、斉藤、と紫暗の瞳を向けてくる。この角度から見下ろす稀有な色合いに吸い寄せられ、 手を差し伸べた斉藤は、蒼紫のバックを肩から外し受け取ると彼の腕をつかんだ。その指先を蒼紫は不思議そうに見つめ ている。 「しばらく、いまの仕事を辞めないことにした。『アルコーン・パリ』と取りあえず二年の専属契約を結んできた んだ」 「そうか」 そういうことか、と落胆の色が滲むのは仕方がない。業界のことはなにも知らないが、『アルコーン・パリ』と限定 したからには、日本での仕事を差していないのだろう。決めたのなら仕方がない。その決定に斉藤が口を挟む権利は ないのだ。 ただ、これだけのことを告げるために、いま、蒼紫はここにいるのだと理解した。その律儀さが少し哀しい。 なにも気にする必要などなかったのに。わざわざ告げにくる必要もなかったのだ。 そんな想いなどよそに、蒼紫は己の二の腕に食い込んだ斉藤の指にそっと手を添わせた。離せと言ってるのではなく、 ただ包み込んでいたいのだと気づくのは、そのまろやかな視線からだ。 「俺を理解してくれるものが、フランスにはいる。こちらで仕事をするよりも気が楽かも知れない」 「よかったじゃないか。よく分からんが、ウチの女刑事が言うには、欧州でのおまえの評価は絶大らしいしな。 そんな理解者がいるなら尚更だ」 「ああ。まずは冬のメンズコレクション。その準備が来月には始まる。それが終わればパリコレだ。少し、続く」 「来月か。早いな。だが忙しく躰を動かしている方がおまえにとってはいいかも知れん。ややモノグサのキライ があるからな。なにもしないと余計なことばかり考えてしまうだろう。事件に巻き込まれたおまえも被害を被った。 関係者の心理的なケアが必要になるのは、少し時間がたってからだったりする。無理をしろとは言わん。だが忘れられる ものは捨ててしまえ。そしていちからやり直せばいい」 自分自身に言い切って、蒼紫の腕から指を離そうにもその上から押さえられ斉藤は動けなかった。忘れてしまえとは、 曾我や武田観柳。そして先の事件の隣人の存在だけではない。そう言えば引越しの最中だったじゃないか。ちょうどよかったな。だが国内に 引っ越すのと海外へ拠点を移すのとではワケが違う。おまえ、手続きなんか大丈夫なのかと笑えば、蒼紫は少し困った ような顔をした。 「拠点を移す?」 「ぼやぼやしてると間に合わなくなるぞ。引越しそのものよりも手続き、がな」 「前のマンションは引き払うつもりだが――」 「こっちの引越し先はキャンセルしたのか? 放っておくと契約続行で家賃を取られちまう。まぁ、向こうでのことは 向こうの関係者に任せておけばいいが、おまえにはもう武田がいないんだ。世間の荒波にもまれて、社会通念を覚えて いくんだな」 「なにが社会通念だ。しかもなぜキャンセルしなきゃならない?」 「二年間、借り続けるつもりか? 無駄にも程があるぞ」 眉をひそめた斉藤に、ああ、そうなのかと蒼紫は理解した。本人にとって精一杯言葉を尽したつもりでも、まだ伝わって いなかったのだ。蒼紫は少し溜息をつく。 「ひとの話を聞け、斉藤。だれも行きっぱなし、なんて言ってない。何度も往復しなきゃならないが、パリに住む気は ない」 「四乃森?」 「俺はここにいる。だから帰ってきたんだ。フランスへは戻るんじゃない。行くんだ。仕事をしに」 「……」 「向こうにいて、こんなにも日本人なんだということを思い知らされたのは、たぶん、初めてだ」 続いて告げられた言葉に斉藤は目を瞬くことになる。 「日本が恋しいとか、早く帰りたいとか。食い物ひとつ。空気ひとつ、いままでとなにかが違う。彼らは俺にとても好意的 で、俺を望んでくれて、なのに、思い出したのは、おまえと一緒に食った、あの蕎麦の味だった」 斉藤に腕を取られたまま、蒼紫は目線を逸らさなかった。もの言わぬ、そしてなにものにも囚われない男の雄弁に 斉藤は、この場で腕に抱き込んでしまいたい衝動を押さえ黙ったままで蒼紫の腕を強く引いた。唐突なその 行動に虚をつかれた蒼紫は、マンションのエントランスを過ぎ、エレバーターの前で階数ボタンを押す斉藤を振り払って、 ようやく自分の腕を取り返した。 「なんだ、急に」 「なんだじゃないだろう。おまえが俺を煽るような熱っぽい告白をしたんじゃないか。いまさらなにを言っている」 「告白?」 「遠く離れたフランスの地で、俺を思い出したんだろう。おまえが言ったんだろうが。十分な告白じゃないか。無意識 か? だとしたらおまえも相当、性悪だぞ。ま、さすがの俺も男から愛を打ち明けられたのは初めてだがな。それには 答えなきゃならん」 強面刑事が口の端を上げてニヤリと笑った。この男のこんな表情を初めて見た。不敵というよりも、滲み出るものを 覆い隠そうとする照れた笑み。それが蒼紫の躰の中をジワジワと寝食していく不思議な感覚を味わった。 チンと音がなってエレベーターの扉が開いた。弾かれた手を背に置き換えて乗り込もうと促す斉藤と、怪訝な視線を 絞った蒼紫の間には、まだ見解の相違が存在する。放った言葉に間違いはないが、これほどまでに斉藤を喜ばせる 意味がまだ分からない蒼紫だ。 だからその事実を突きつける。 「斉藤、俺はおまえと食った蕎麦を思い出したと言ったんだ」 「蕎麦が先で俺はおまけか? 随分捻くれたもの言いだな」 「機内食、ほとんど手をつけなかったから、ハラが減った」 「どうせ、口に合わないとかほざいて、かき回しただけなんだろ。食いもんはな、取れるときに積極的に摂取する。人間、 生きてゆく上での鉄則だ。そんなだから、霞を食ってるみたいなご面相が出来上がるんだ。来い。パスタくらいなら すぐにつくってやる」 「俺はあの蕎麦が食いたい」 蒼紫はテコでも動きそうにない様子だ。ここにきて斉藤は蒼紫の頑是なさが、テレや婉曲な言い回しでないことに気づ いた。ほんとうに『おまえと一緒に食った蕎麦』とは、たまたま斉藤が隣にいだけの状況を差しているのか。 ムカツクことに。 だれが育ててこうなったかはもう知っている。知っちゃあいるがいまは檻の中の責任者に、教育をしなおせと、 詰りたい気分だった。 斉藤は半眼で睨めつけた。 「いま、か?」 「ああ。いまだ」 「この状況でか?」 「なんの状況だ?」 「あの店が本庁の近くだってことは知ってるな。俺はいまそこから帰ってきたばかりだ。ついでと言っちゃあなんだが、 十日ほど泊まりが続いたから、クタクタなんだがな」 「だったら尚更、パスタをつくる手間よりも、食いに行った方がラクだろうが。ここからなら、そんなに時間がかから ない。車ならすぐじゃないか」 「近くにも食い物屋は、いくらだってあるが?」 「いまはアレしか受け付けない」 蒼紫の返事はにべもない。 「……おまえ、相当、ワガママだな」 「そうか?」 ほんとうに無自覚なのか? 焦らしてるんじゃなく? だがコイツに限り駆け引きなんて手管が使えるはずもなく、 完全無欠、鉄壁の無表情の敵はシレっと言い放った。 無機質が服を着て歩いているような男でも、ハラが減ったと訴えただけのことはあったということだ。夕方からの 居酒屋メニューに変わった件の蕎麦屋で、いくつか見繕った揚げ物や煮物焼き物を、よく見ればかなりご満悦な顔で 蒼紫はハラに納めてゆく。このワガママものの、たっての希望だから、なによりも先に盛り蕎麦を持って来てくれるように 頼んだのは言うまでもない。 旨かったかと問えばコクリと頷く素直さ。至福の表情と思しき様相で、ほうじ茶を含んでいる姿勢のよさには、 このくらいのワガママ、なにほどのことかと思ってしまう。車を出せとのご要望だったから、旨い肴を目の前にして、 斉藤のほうは一滴も酒を呑めなかったのに。これが所謂惚れた弱みというヤツだ。 このときの斉藤の心理状態は、観念のひとことに尽きる。 ほとんどヤケクソで、家まで送っていってやると従者に成り下がれば、蒼紫は少し考えて、ウチには酒がないから コーヒーでいいかと、カモネギなお誘いを向けてきた。 送り狼はまったくもってやぶさかではないが、この情緒欠陥気味の男と、心身とも健やかに過ごすには、成り行きに身を 任せるしかない。コーヒー一杯頂いて、目の前で扉を閉められる可能性の方が高いのだ。 斉藤の辞書に諦観の二文字が加わった。 しかし、相手の手口が読めれば、切り崩す方法はいくらでもある。新宿副都心が一望できる蒼紫のマンションに着いて、玄関の 扉を閉めるなり背後から抱きしめたのは、先の先を制する作戦。蒼紫のおとぼけ封じでもある。こんな口下手な男を言い くるめて腰砕けにする自信は――喩え相手が男でも――あったが、あの調子の的っぱずれ発言を連発されると、さすがの 斉藤も萎えてしまうというものだ。 蒼紫の想いは聞いていない。これは一方的な押しつけかも知れない危惧はあった。以前、口づけたときも丸投げしていた フシがある。この手を跳ね除ける直接的な行為だけが拒否の意思じゃないと、この男ならあり得るからだ。 それでも欲しいと願う直裁な欲望。タガが外れたのはいつからなのか、もう覚えていない。 蒼紫の首筋に顔を埋めて唇を押し当てた。フレグランスなどつけない生のままの甘やかな体臭が鼻腔をくすぐる。 やや強引に顔を向かせ、耳朶に頬に額にひとつひとつ刻印を押す。堅く結ばれていた蒼紫の唇が開かれるのを待って、 深く合わせていった。 その体勢と息苦しさに蒼紫が躰を返した。ぶらんと垂れ下がったままの両腕が持ち上がり、斉藤の髪を掻き乱す。 風が動いて、蒼紫の体温が上昇したのが分かった。絡み合ったまま、廊下を進んでリビングへ。毛足の長いカーペットの 上に押し倒しても、蒼紫は逃げなかった。 口腔内を丹念になぞり、その執拗さから唾液が溢れる。淫靡な軌跡を舌で舐めとって、Tシャツの裾から地肌に侵入を 果たした。触れる蒼紫の鼓動。バクバクと脈打つ官能。滑る手が、わき腹と鎖骨の間を何度も上下して、彼の躰の線を 覚えようとした。 途中、弾く胸の飾り。親指でこね回すと蒼紫の背が小さくしなった。次第に浅く忙しなく、互いの吐息が部屋の室温を 上げてゆく。蒼紫の唇がなにかを形どったが、斉藤を押し返そうとする両手の動きには力がない。男のものとしては 細い腰を片手で抱きかかえ、蒼紫の素肌を晒していった。 斉藤は知らなかった。一糸纏わぬ生のままの姿を美しいと感じてしまうことを。同じ機能を持つ男の肌がこれほど までに手に馴染んで疼きを与えるということを。そして、上質の絹を思わせる肌が己の愛撫に答えて反応を返すのだという ことも。 いままで斉藤が出逢ってきた女たちほどの媚と狂態を晒してくれるわけでもない。あられもない声で男を煽るでもない。 絡み付いて擦り寄ってくれるでもない。ただ眉をしかめ息を呑んで持ち上がった顎のラインと、素直な黒髪が左右に ばらけてカーペットに散ったもの音だけで、惑乱させてしまうこの男の色香。返る反応が小さければ小さいほど、 なおも暴いて狂わせてしまいたくなる欲情を抑えられない。 色づきだした蕾のひとつにカリっと歯を立てた。舌で転がしながら蒼紫の官能を叩き起こす。軌跡を残すような作業 ひとつひとつに自らも酩酊しながら、下肢に手を伸ばしその中心の熱を包み込んだとき、初めて明確な声が聞こえた。 「――ぁ……」 空調のモーター音に負けて消え入るような声未満の音。拾って咀嚼して己の欲望が一気に弾ける。どっと重量を増した それを持て余し、たぐる指は獰猛な動きとなった。粘着質なもの音がリビングを浸食する。躰がブレて腰が揺れ、蒼紫の 解放を先に優先させた。 一度失墜させた躰に息つく暇も与えず、さらに強く翻弄してゆく。労わる気持は消えていた。それに根を上げる 蒼紫でもなかった。機能的に不可能な、それでも男の熱を唯一受け入れられる場所を蕩けさせ、深く侵入を果たしたときの 爆発的な奔流は、眩暈と共にチリリと肌が焦げるような嫉妬を呼び覚ませた。 過去、幾人の男がこの肌を通り過ぎたか知らない。曾我ひとりとは限らない。この肌膚に残る記憶の残像ひとつ、残り香 ひとつ、想いひとつ、総て消し去ってしまいたいと願う斉藤がいた。違う。願いなんて生易しいものじゃない。触れてみて 初めて知る己の強欲さ。嫉妬深さ。その総てを叩きつけ、執拗な動きが蒼紫を翻弄する。 「――ん、っ……」 昇り詰める快楽の階はどこへ向って伸びているのだろう。蒼紫がすがろうとするものと、斉藤が固執するものが同じ 天を目指しているとは限らない。そして、声を殺して喘いだ蒼紫の艶やかさだけが答えでも なく、それでも呼吸の合間に呼ばれる自分の名に、帰着点を見出した斉藤がいた。 リビングで一度、そのあとベットルームにもつれ込んで再度。うつ伏せの状態で斉藤に背を向ける蒼紫に、ようやく 落ち着いた呼吸が戻ってきた。全力疾走――もとい――ひと仕事終えたあとの一服はたまらないのだが、この部屋には 灰皿らしきものは見当たらない。試しに聞いてみたら、ベランダを指差された。さっさと身繕いを終えてそこで吸えと いうことらしい。 「この俺にホタルになれという気か」 「そこが厭なら自分の家に帰って、しこたま吸えばいいじゃないか」 すげない背中からなそんな答えが返る。斉藤の執着のあとを躰じゅうに咲かせて言えた科白でもないが、この世に 生息する嫌煙家というものは、押しなべて頑固ときているから、逆らわないことにした。いずれ、おいおい、認め させればいいだけの話だ。 「おまえ、あしたの予定は?」 「なにもない」 「だったら泊めろ」 ここにきてようやく躰を返した蒼紫は斉藤を見つめる。その際に「煙草は絶対に吸わせないぞ」という牽制球も 忘れない。忘れないがお泊まりに関しては合意が得られたということだ。だが、なんでこうも、自分の周りにはこの嗜好を 理解しないものが集まるのか。医者も呆れるほどの喫煙量を棚に上げて嘆息をつく斉藤だった。 「ま、一日くらい、吸わなくても死なんだろう」 睨んだついでに顔には、ウソ臭いと大書してある。確かのそのとおり。自慢じゃないが、一日四十本は軽いヘビースモーカー生活 は伊達じゃない。惚れた弱みでも譲れないものは譲れない。隙をみて換気扇の下か、諦めてベランダで蹲るとするか。 ニヤリと笑った斉藤は、躰を向けてきた蒼紫の顔の横に両手をつき触れるだけの口づけを送った。 この展開。どうにも高荷恵の妄想どおりにことを運んでしまっている気がしてシャクだが、この際だからたたみ かけてみる。 「おまえ、ウチのマンションに越してこないか」 「斉藤?」 「どうせ俺は泊まりの連続で週に一度の割合で帰ってこれたらいいほうだ。同居というほど気遣いはいらん。おまえも しばらくはフランスと行ったり来たりの生活なんだろう。家賃が浮くと思えばいい」 「無理だ」 「即答したな」 「おまえの部屋では、あのソファが入らない」 「なに?」 重い腕をのそりと上げて蒼紫は、開け放した扉の向こうのリビングに、鎮座ましましている革張りも重厚なソファを 指差した。確かにバカでかい。この家の二十畳はあろうかというリビングに似合いの大きさなんだが、ふつう、この展開で そうくるか。 「アレは気にいっている。寝そべるのに丁度いい」 「それが理由か?」 「入らないだろ?」 「入っても足の踏み場がなくなるっ」 そういうことだと、蒼紫はまたクルリと背を向けた。どうやらこの会話を早々に打ち切って、お休み体勢に入るらしい。 斉藤が二の句を告げない間に、蒼紫の躰の力は一気に抜け、軽い寝息まで聞こえてきた。 まあいい。この続きもそのうちに、おいおいと、だ。 蒼紫のうなじにひとつ口づけて、斉藤はその背を抱きこんだ。 end
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世にも珍しい朴念仁斉藤とボケボケ蒼紫の、さわやかな恋のお話をお届けしました。(苦笑)こっ恥かしいくらいの甘甘リリカル
斉蒼です。強引で唯我独尊な斉藤さんはどこへやら? 壬生の狼の片鱗もございません。 このシリーズはひとまず 終了です。また機会があればなにか書いてみたいですね。最後まで読んでくださって、ありがとうございました。 |