残り香〜3 |
シュザンヌも奮発してくれたものだ。 バルバスとは『アルコーン』本社前で別れ、連れてゆかれたフランス滞在中の拠点は、ヴァンドーム広場の近くに 位置し、クラシカルな中にモダンテイストを織り交ぜ近代美術館を思わせた、各国のデザイナーが注目するという 四星ホテルのジュニアスイート。 これくらいのもてなしは当然とシュザンヌは言うが、武田観柳がマネージメントの一切を行っていたときには 思いもしなかった居心地に悪さを感じてしまう。 彼が消えてからこのかた、事務所からのマネージメントも断り独立した形だから、いまさらにしてひとりで食事の 支払いをし、部屋の掃除をし、引越しの手続きをし、役所にも出向き、少しずつ社会通念も覚えてきた蒼紫だ。 海外に飛ぶ、そのひとつだって彼にしてみれば未知なる世界だったのだ。 だから、たったひとりでこの広さの部屋なんか必要ない、たかだかモデル風情に、なんていままでなら思いもしなかった だろう。 「世間知らずの深窓の令嬢が、少しはものの価値を理解するようになったのかしらね」 シュザンヌはふっくらと笑い、それならば『アルコーン』がどれほどあなたを評価しているかも分かるでしょ、 と重ねられてなにも言えなくなってしまった。 「でも気兼ねする必要はないわ、アオシ。経費で落とせる範囲ですもの」 黙りこくった蒼紫はきっと、「ケイヒ」なる便利なシロモノが世の中にはあるのだと納得しているだろう。 クスクス笑いながらチェックインを済ませた彼女は蒼紫を促した。 『パーク ハイアット ヴァンドーム』の蒼紫の部屋には、今夜のタキシードから革靴。その後の着替え、パソコンに 雑誌、また翌朝、寝過ごして朝食にありつけなかった際の軽食まで予め用意されていた。これも当然よ、と彼女は言うが、 まったくもって至れりつくせりだ。 「俺を甘やかさないんじゃなかったのか」 「女からの愛情の押し売りはありがたく受け取っておくものよ、坊や。八時前には正面玄関にリムジンを横付けさせて おくわ。気持ちよく『リッツ』に乗り込みましょう」 シュザンヌ・ブリューノ。四乃森蒼紫の唯一といっていい理解者であり友人でもある彼女は、改めて確かめたことはないが おそらく三十を幾つか越えたくらいだったと思う。それほど年が離れていないのに、 隠そうともしない母親モードはどこかこそばゆい。いまどきの、ある程度のランクのホテルならば当たり前のサービスとは いえ、徒歩圏内の『リッツ』までリムジンで移動。セレブリティを気取る意味合いよりも、かのホテルのセキュリティーは 徒歩で近づくものには至って冷たい。 また蒼紫の護衛の目的もある。 ――俺の価値。 敷かれたレールの上をただ進んで切欠ひとつで背を向けた世界が、今度は自分の意思で歩けと水を向けてくる。 両手を広げられ過分な評価に対して、自分が揺れているのだとしたら返すアクションはたったひとつだ。 けれど。 その前に今回の仕事を納得のいくものにしなければ、なにも終わらないし始まらない。 戦場に赴く前になにかお腹に入れておきましょう。そう誘うシュザンヌに、クイと曲げた肘を差し出して、蒼紫は 頷いた。 ヴァンドーム広場はオペラ座とチュイルリー公園の中間に位置し、中心にそびえ立つナポレオンの記念柱が歴史と 威厳をかもし出している。この記念柱は、ナポレオンがオーステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍から 奪った大砲で作られたのだと、彼に説明してくれたのはたぶん曾我だったと思う。 十五で父が死に、ほどなくして観柳の薦めにより日本を出た。アメリカで語学と基礎を一年と少し。カメラテストを受け、 モデルとして登録し、もっと大きな舞台を用意しました、とフランスを訪れたのは十七のときだった。 初めてこの地に足を踏み入れて――いま思えば武田観柳と曾我の間ですでに取り決めがあったのだろう――オーディション を介せずに、興したばかりの『アルコーン パリ』の社長室であの男に会い、その後『リッツ』のオーベルジュで食事を 共にした。 初めて抱かれたのは曾我のアパルトマンの一室。手にしていたフルートグラスを取り上げられ、後ろから 抱きしめられても、それは仕事の一環なのかと考えていたくらいだ。性的な知識も経験も皆無だった蒼紫に堕ちたのは 曾我の方。それでも肌を滑る執拗なその手を温かいと、跳ね除けるほどの嫌悪感はなかった。 総ての愛情に飢えきっていた躰はあっけなく開花し、妖艶さを兼ね備えた清冽さと、蒼紫が評価されだしたころでも ある。 そういえば曾我のいないパリは初めてだ。 だからなのか、この一角に身を置くとやけにあの男を思い出す。 ヴァンドーム広場周りにある『リッツ パリ』の白い日除けテントの前でふたりを乗せたリムジンは止まった。 クイーンテッドの頂に君臨するホテル面前に立つヴァレイ(パーキングボーイ)が、優雅な仕草でバックシートの扉を 開けてふたりを出迎える。 「ようこそ『リッツ パリ』へ。素晴らしい一日をお過ごし下さい」 そのまま社交会場さながらのバンケットへ。特設のステージはコレクションを思わせ、招待客、プレス、バイヤー、 カメラマンたちの間を、バルバスが泳ぐように接待していた。ふたりの姿を認め、なにをしている、早く来いと 目線で促してくる。 シュザンヌは蒼紫の腕にぶら下がったまま彼を前面に押し出すとバルバスの腕も取り、両手に華状態でプレスの 一団と向き合った。たちまち焚かれるフラッシュの嵐。懐かしい目の痛みに、蒼紫は自分の世界に舞い戻った憔悴とも 陶酔とも判断のつかない思いに襲われた。 「シュザンヌ・ブリューノ。レイモン・バルバスと並ばれたということは、今回の追悼コレクションだけでなく、 彼が『アルコーン』のメゾンを仕切ると考えて宜しいか」 「もちろん、そう思ってくださって結構よ。彼の力を経て、『アルコーン』は生まれ変わります。今夜皆さまにお目に かけるデザインの数々は、亡きソガが残したもの。その偉業に敬意を表して遺作を完成させました」 「バルバスにお尋ねします。あなたがいままで手がけた『ジャン・パトゥ』と、『アルコーン』の違いをどう乗り越えて いかれるのか」 「ありがたいことにシュザンヌはわたしの感性で、新生『アルコーン』をつくってゆけばいいと言ってくれた。もちろん、 ソガが確立した『アルコーン』のストイックまでに洗練された様式美は、わたしの憧れでもある。しかし既存の イメージに拘る必要はないと託されて、安心しているところだ。ひとりのデザイナーであっても、年月を経るごとに感性は 変わってゆくもの。わたしは、わたしの持てる能力総てを注ぎ込んで形にしてゆくだけだ」 確固たる揺るぎない自信を漲らせバルバスは端然と言い放つ。プレスの視線が流れるように蒼紫に向けられた。 「この場にアオシの姿を見つけて我々は少し面食らっている。『アルコーン』と彼とは切っても切り離せない間柄だった が、ソガ亡きいまも、その方針を貫かれるのか。つまりあなたもアオシに魅了されたひとりなのでしょうか」 際どい質問に周囲がザワリとざわめき立った。当然予想された質問だ。シュザンヌはその記者にニッコリと微笑みかけ、 バルバスは長い腕を伸ばして、シュザンヌをはさんだ向こうに位置する男の肩に手をかけた。 「彼はプロ中のプロだ。しかも世界中のどこを探してもこれほどの存在感を示すモデルは存在しないのではないか。 わたしはひととして、そして同じ業界に携わるものとして、彼を尊敬しているし魅了もされている。なにか大きな仕事を 成す場合、感性を刺激してくれる人物と組みたいと願うのは当然じゃないのかね」 「アオシは? ソガを失って引退すると予想されていましたが。なにか言いたいことがあれば」 一斉に凄まじいほどのフラッシュが集中した。 「曾我が死んでも我々は進まなければならない。俺にできることは、ただ、彼らの信頼に応えるだけだ」 欲しい答えを引き出せたシュザンヌは、嬉しそうに蒼紫に身をすり寄せてきた。 「残念ながら十月のプレタポルテには間に合わないけれど、来年二月のメンズコレクションに向けて我々は動き始めました。 哀しいことに、ソガの作品を目にするのはこれで最後となります。どうぞ皆さま、ご堪能ください」 彼女の合図を待っていたかのように室内の照明が落とされ、アップビートの音楽に変わる。一同の視線がステージに 映される中、ひとりのプレスがまだ食い下がってきた。 「アオシは? 彼はその遺作に袖をとおさないのですかっ」 「そう。きょうのところ彼はスポークスマンね」 「彼はステージの上にいてこそ評価されるべきでしょう」 それはそうだ、とバルバスは笑ったあと、 「いい加減、ソガの枷から解き放ってやりたいじゃないか」 蒼紫の背に手を添えて促して、彼はこともなげに言い放った。 そのころ東京では、第一の殺人現場のお隣に位置する『アジール』を出たあと、斉藤たちは問題のスナック 『むーんらいと』の扉を開けていた。検証は済み保存されている室内は惨劇のあともすっかり清められ、しかしなにか 渦巻くものがあると感じてしまうのは、どこの現場に足を踏み入れても同じだ。 隣の『アジール』と比べると確かに狭い。入り口から逆L字型のカウンターだけの、まさにウナギの寝床。 店の奥手前でカウンターは切れ、そこから折れ曲がった、ちょうどひとひとり立てるくらいのキッチンスペースから 店主が客の相手をするのだろうが、その切れ目にひと型のチョークの跡が残されていた。 入り口から見れば、倒れた被害者の足が突き出ていたことになる。 なるほど、確かに背を向けている。 斉藤は細長い躰を進めて形跡を消さないようにカウンターから回り込み、キッチン部分に入った。背後のつくり付けの 食器棚には酒類やグラスなどが収納されており、真ん中一直線にくりぬかれたスペースが調理台としての機能も備えている。 オープン準備の真っ最中。下準備に追われていた被害者。初めからあの位置で後ろを向いていたのか、このキッチン スペースから動いてあの場所で背中を見せた隙に刺されたのか。被害者の行動を教えるものはなにもない。 後から入ってきた安慈はカウンター席をとおり越し、収納スペースを捜査し出した斉藤に一瞥をくれた後、店の一番奥、 非常扉とサニタリーに挟まれた、扉のない物置のような場所に頭を突っ込んだ。そこには整然と酒類や備品などが 納められていた。 「確かに争った跡はないな」 物置から戻ると、斉藤はファイルのようなものを手に取って調べている。恐らく顧客名簿は証拠品として押収され、 他の班がしらみ潰しに聞き込みに回っているはず。出入り業者の仕入れ伝票も同様だ。残されたものはなにもない。 気さくな気質だったという被害者。アルバイトの女の子がふたりほど手伝っていたというが、ほとんどひとりでこの 城を守っていた主の顔もある。交情のもつれか商売上のトラブルか。あるいは単なる衝動か。通り魔か。 斉藤はいつも被害者の交友関係から被疑者を絞り込む手法を敢えて取らない。それはいつも他の班任せだ。「現場 百回」という言葉があるが、古臭くとも、現場で嗅ぎ取った残されたなにかの形跡を探ろうとした。 天井から床に至るまで網膜に焼き付けようとする斉藤の視線に、安慈も倣い辛抱強く待つ。いまは堪能したのか、 斉藤は空のファイルを安慈に突きつけると、 「第二の現場もいまのうちに検分しておこう」 そう言って安慈に背を向けた。 新宿にあるスナック『らら』も店の構造は似たり寄ったりの狭さだった。そして現場に残されたチョークの跡も同じ ような位置に記されている。位置は少しズレていいるものの、狭いキッチン部分に頭を向け、カウンターの切れ目から 両足がのぞいている格好だ。 「こうも形が酷似していると気味が悪いな」 「背後からゆっくりと近づいて一突き。衝動的なものは伺えない」 「確かに。ナイフや包丁などの凶器はキッチンに揃っているといっても、それを手にするにはマル害の躰が邪魔になる。 ひとひとりとおれるくらいの隙間しかないからな。押しのけて凶器を入手。そんな相手に背を向けるものはいない。 当然、凶器は予め用意していたと思われる」 「背中を刺してそのまま逃走。ナイフはマル害の躰に刺さったまま。返り血も浴びていないだろう」 斉藤は前の店と同じようにキッチン部分を横一直線にくりぬいた収納スペースに目をやった。食器などの他に、帳簿 類や伝票、キャッシャー、カード端末機などが配置されているのもほとんど同じだ。 被害者に倣ってキャッシャーの前に立つ。背後はカウンターの切れた部分。客が支払い申し出る。札もしくはカートを 受け取る。その際には客に対して背を向ける格好になるが、どちらも犯行時間は開店間際。一杯だけ引っ掛けて帰った客 がいたのだろうか。 「斉藤。考え込むのはあすの捜査会議を待ってからにしないか。なにか情報も入っているだろう」 「そうだな」 ふたりは灯りを落として第二の犯行現場、『らら』を出た。 二軒のスナックママ殺しの合同捜査本部は第一の現場である渋谷署に置かれることになった。朝の九時。署内の大 会議室には比古たち本庁組が乗り込み、所轄の刑事たちの出迎えを受けた。斉藤にしても警察機構に身を埋めて十年 余り。もうすでにどこかの現場で一緒になって顔見知り刑事たちもいる。 その刑事たちを親交を温める暇もなく、最前列、捜査員たちを睥睨する形でキャリア組みがずらりと並び、しわぶき ひとつない中でパソコンの起動音だけが静寂を破っていた。総ての捜査官が着席すると、挨拶も訓示 もそこそこに情報の提示が求められた。 「スナック『らら』と『むーんらいと』両店に共通した常連客はナシ。両店の顧客名簿から犯行時間帯にアリバイが なかったものは十名。それぞれ所在が確認できましたので、これから聞き込みに回ります」 「ふたつのコロシが連続ではない可能性も含みおくように。次」 「顧客名簿に記載漏れという可能性もあります。またつい最近通うようになった客は明記していないことも。 それぞれの店の常連客から、そのような客に見覚えがないか確かめていますが、いまのところ芳しくありません」 「目撃者情報ですが、あの時間帯はまだ客の出足は遅く、また付近の飲食店にしても営業間際ということもあって、 両スナックから出てきたもの、また、通路などで不審なものを見かけたものはおりませんでした」 「引き続き目撃者探しに尽力してくれ。次」 「凶器として使用されたステンレス製の包丁に指紋の付着はなし。またどちらもスーパーなどでも販売されている一般的 なもので、入手経路からの結びつけは難航と判断されます」 「マル害はどちらとも背中右わきを刺されており、この点から犯人は右利きと見られますが、現場には凶器以外に犯人の 遺留品及び血痕はなく、特定されるものがなにもありません」 「スナック『らら』の高瀬順子も、『むーんらいと』の河上由美も身綺麗なもんです。高瀬の方は、開店当初パトロンが ついていたようですが、いまはその資金の貸し借りだけの間柄になっている模様。河上は自力で店を立ち上げた独立 独歩型といったところでしょうか」 「情人は?」 「いまはどちらもフリーです。過去に関係のあった男とは諍いなく別れたようです。その男たちとはすでに接触 しています。ただしどの男も犯行時間帯には犯しがたいアリバイがありました。取引先にいたり勤務時間内で あったり、と」 「ないない尽しか」 合同捜査本部本部長に任命されている管理官がぼやくもの尤もだ。指紋は出ていない。ふき取ったかなにかで 包んでいたか。物証なく交友関係から絞り込んで状況証拠で落とすしかない。その状況に合致する人物がいればの 話だが。 痴情のもつれか商売上のトラブルか。被害者ふたりに面識はなかったと思われる。深く掘り下げてゆけばなにか出てくる かもしれない。どこかで繋がっていて欲しいと願っている捜査官もいるだろう。だが、ほんとうにふたりの接点がなかった 場合、犯行の動機がどうも弱すぎるのだ。 スナックのママならだれでもよかった通り魔的な動機だと、いくら交友関係を洗ってもなにも出てこない。 斉藤はどちらかと言えば現場至上主義者だから、殺意を覚えたであろう人物から絞り込むのではなく、その犯行が 可能だったものの痕跡を追う手法をとる。 現場はなにかを教えている。 必ず。 まだ刑事になりたてのころ、現場を仕切る鑑識調査官が身を持って諭してくれた教えだ。 たくさんの店舗がひしめき合う雑居ビル。ウナギの寝床のような狭い店内。まだ開店準備中のひと気の少ない時間帯。 背後からひと突きにされた死体。凶器に指紋を残さずそのまま立ち去った犯人。 確かな目撃情報はまだない。 あの現場はなにを教えるのか。 思わず眉間に皺を寄せた斉藤が、パイプ椅子に体重を預けたそのとき、それぞれ引き続き捜査を続けてくれ、と 覇気の消えた声で締めくくった管理官の言葉で、一回目の捜査会議は終了した。 continue
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