残り香〜1









――おまえも確かめろ。



 そう言い放って深めた口づけ。
 この行為の行き着く先になにか確かな答えがあると信じるには、重ねた齢と理性が邪魔をする。倉庫の壁に追い詰め られ、思惟の読み取れない熱を一方的に押し付けられた蒼紫はもっと切実だったろう。何度も角度を変え、次第に 濃密さを増してゆく口づけに酩酊してゆく己を見る一方、惑乱までには至らない醒めを感じ取って、斉藤は蒼紫の 拘束を緩めた。
 絡めあった互いの銀糸だけが名残惜しそうに糸を引き、もの言わぬ紫暗の瞳に引きずられながらも、その腕を引いて 倉庫を後にした。
 ここに来た第一の目的は腹をすかせた迷子の保護だ。それに付随する雑多な感情の在り処を叩き起こす には、蒼紫の状態が不安定に過ぎる。
 それは半ば言い訳で、己の分別臭さに哂いながらも、当初の約束どおり近くのラーメン屋で、大の大人がふたり、 黙々とそれで腹を満たした。心なしか、砂を噛んでいると感じないでもない。
 その後蒼紫を自宅まで送り届け、「旨かった」と、ひとことだけ呟いた背中を見送り、薄ら寒さで溢れそうになる腹は、 なにも満たしていないと思う斉藤だった。



 翌日、任意同行を求めた被疑者が犯行を自供した形で宝飾店オーナー殺人は収束し、あとは書類送検のための確認 作業となる。捜査本部の看板は下ろされ、捜査一課第三強行犯係の刑事たちが他の事件の捜査へと散ってゆく中、 デスクワークに勤しんでいた斉藤の目の端に、ドンと、麻のパンツスーツの綺麗な腰のラインが お目見えした。
 ソレがだれか確認するまでもないし、相手をする気もなかったのだが、実際そこに居続けられると作業の邪魔でしか ない。渋々視線を上げると、腕を組んだ状態で机に乗り上げ、長い足を持て余し気味に組んだ女王さま体勢の高荷恵。 顎を上げて男を見下ろす様は、さすが堂に入っている。
 そして第一声が、
「なにシケたツラ晒してんのよ」
 と、きた。無視を決め込んでもよかったのだが、そうなるとあとが厄介だし、藪をつつく真似をされるのも業腹な 話しだ。「なんのことだ」と、キーボードを叩く手を休めないで、即、文書の保存をかけたのは、以前同じような シチュエーションで生返事を返していたら、電源を落とされた苦い経験に思わず躰が反応した結果だった。
 これも高荷恵の傾向と対策のひとつだ。
「軟禁中の姫を出迎えるナイトの役を演じて、思いを遂げあったんじゃないの? にしては強面が三割ほど増しになって るし、テレ隠しかと思って見ても滲み出るものはないし。一体どうなさったのかしらって、ご心配申し上げてました のよ」
「オレは被害者が最後に会ったとされる人物を見つけ出しただけだ。朝っぱらからおまえの戯言に付き合ってるほど 暇じゃない。さっさと仕事に戻れ。ヤマは後もつっかえてるんだぞ」
「機嫌悪ぅ。まさか振られちゃったとかだったら、一緒に哂ってあげるわ。千人斬りの斉藤ともあろうものが、 男相手だと手管も尽きちゃったのかしらね」
「だれが千人斬りだ」
「あんたなら死ぬまでには絶対それくらいは軽いわよ。で、コクったの? それとも押し倒した? どこまでイってダメ だったの? っていうか斉藤。あんた男とヤったことあんの?」
 さすがの斉藤も脱力もののモノスゴイ科白の羅列だ。夏の終わりを告げる清々しい朝日をブラインド越しに浴びた 神聖なる職場で、しかも辺り憚らず、大型車種は運転できたっけ、な調子で聞くな、阿呆が。これだから好奇心に支え られた女の――特にこの同僚の相手は厄介なのだと斉藤は顎を上げた。が、沈没している場合ではない。
「おまえに心配してもらうほど落ちぶれちゃいない。仕事の邪魔だ。そこをどけ」
「見栄張っちゃって。その様子じゃチェリー君ね。なんたって相手はその道の大家ですもの。そりゃ、二の足踏んじゃう でしょ。その年で相手の手ほどきを受けるなんて、あんたのプライドが許さないと見た。たどたどしくも青臭いエッチ なんか、死んでもごめん被りたいわよね。だから、不機嫌なんだぁ」
 当たらずとも遠からずというのが癪に障る。それに、いかにもワクワクと顔に大書してある恵のそれは、もはや 好奇心をとおり越して出歯亀化している。おまえにはデリカシーという 言葉はないのかと睨み上げても、「気になって仕事が手につかないぃ〜」と語尾を延ばされた。甘え口調になる相手も 場面も間違っている。だがそこに一刀も斬りつけられないでは、斉藤の沽券に関わるし、いままでこの同僚の相手は 務まらなかったろう。
 斉藤は正面切って恵と向き合った。
「こうなりゃ、他所で練習するしかないんじゃない? あの男には黙っといてあげるから、男同士ってどんなもんか、 あとで教えてよ」
「やけに熱心だな、高荷」
「あたし相手に語っちゃう気になった?」
「いや。そう言えばって思い出したんだ。おまえ、本命を男に取られた経験でもあったみたいだな。先ほどの、やけに 痛ましい告白に、あの被疑者じゃなくても胸に迫るものがあった。あれはだれのことだ? まさかオレじゃないだろうな。 だから面白がってるフリをして探りを入れてるのか? だとしたら生憎だ。前にも言ったと思うが、オレのタイプは 清楚な美人だからな」
 恵は片方の眉を上げて睨め上げる。それを受けて斉藤も三白眼の様相で迎え撃った。いつまでもコイツの玩具に されて溜まるか。その気概は恵をして白旗を揚げさせ、
「お邪魔さま」
 と、ヒールの踵を高く鳴らして立ち去る老獪な女狐をなんとか撃退して重い嘆息を吐く。
 まったく、痛いところをついてくる厭な女だというのが正直な感想。その理由がどうであれ、あの場所で二の足を 踏んだのは事実だ。確かめろと押し付けて、その実、己はなにを得ようとしたのか。
 斉藤は作業に埋没させながらも、思惟の取っ掛かりを手放さなかった。



 翌日、被害者の最後の足取りの確認のため、第三強行犯係では四乃森蒼紫に協力を依頼した。
 日本においてのそれよりも海外での評価の方が高いというトップモデルの本日の出で立ちは、生成りのノーアイロンの コットンシャツと色あせた古着加工のジーンズ。出会ったときからこのようなカジュアルな 格好でしかお目にかかっていないが、そう言えばウエディングドレスも軽く着こなしてしまう御仁だったんだと 思い出して、少し笑みが零れた。
 改めて真正面から向き合えば、ぼんやりとパイプ椅子に深く腰掛けた男の持つ雰囲気は、その経歴に相応しいとも 相応しくないとも言える。だがどんな地味な格好をしていても、瞳に強さが戻れば放つオーラが周囲を圧倒するのだろう。 いまはすっかり牙を隠してしまって、それを望むべくもなかった。
 無愛想で寡黙な仏頂面に根気よく接し、足りない言葉をなんとか引き出して斉藤の作業は終わりに近づいた。
「それであの倉庫に着いたらすぐに曾我の携帯が鳴った、でいいんだな」
「ああ」
「そしてそのまま帰ってこなかった、と。おまえの供述は防犯ビデオからも裏づけが取れる。結構だ。手を煩わせて 申し訳なかった」
 頷くでもなく立ち上がった蒼紫を見送る形で小会議室を出た斉藤は、そのままきつい日差しが照りつける往来に出た。 いつまでついて来るつもりだと言わんばかりに振り返った蒼紫に、「昼飯でも食わんか」、と声をかける。
 バカのひとつ覚えのようにそんな言葉しか出てこないのかと苦笑するが、いまこのまま別れてしまえばそのあとの 繋がりが途絶えてしまうのだと知って、引き止める斉藤がいる。
 あのとき、不意に口づけてしまうほど惹かれていながら、このスタンスは一体どういうわけなんだろうといまさら ながらに思う。
 強く腕を引かない根底にあるのは、蒼紫のために用意した猶予か。いままで、否応のないレールの上を歩かされ、 いかなる種類だろうが武田観柳の庇護の元、思案の機会すら取り上げられていた男に向けて、自分の頭で考えろと 丸投げしている。
 無理強いは一切しない。おまえの中に眠る恋情を引きずり出すような真似もしない。衝かれたような激情で手に入れて、 あとから納得させるような行為は自分にとっても望むところではなかった。
 高荷恵が知ったら、いまさら純愛路線に鞍替えかと、腹を捩って大笑いされるだろう。そしてあの女なら間違いなく その日の内に、斉藤の腰抜けぶりを全署員に触れ回るに決まっている。
 半分は間違いなく自分の中に巣食う躊躇。年を重ねるということは枷がふえるのと同義語だ。しかしそれでもいい じゃないかと、蒼紫を追い越すと、
「この暑いのにラーメンは食いたくない」
 との答えが返った。よく考えていいお返事が出来ましたね、と大の男を幼稚園児扱いで頭を撫でてやりたい気もするが、 ここはその素直さに納得して、斉藤は彼を振り返った。
「ラーメンが暑いとなると、あとはざる蕎麦だな」
 署の近くに旨い店があると斉藤は顎をしゃくった。



 本庁から徒歩で十分ほど。斉藤が誘った隠れ家のような雰囲気を持った蕎麦屋は、喉ごしのよい江戸前二八蕎麦と、 炭火焼き地鶏がウリの店だった。夜には一品料理も備えて居酒屋として営業するのだろう。カウンターの向こう、 壁いっぱいの棚には、蒼紫が想像もつかないような日本酒や焼酎の一升瓶がぎっしりと並んでいた。
「昼はざる蕎麦と小鉢がついた定食だけになる。それでいいな」
 緩慢な動作で頷くと、斉藤はどっしりとした質感の湯のみを手にして、旨そうにほうじ茶を含んだ。そして聞きも しないのに蕎麦屋の薀蓄を語りだす。これは気を使っているのだろうか。蒼紫にとってすれば沈黙は常だ。間が もたないなどと言った感覚はないというのに。
「蕎麦は繊細な食い物だからな、季節や水で味が一変するそうだ。店主が言うには、この店の蕎麦は、実の芯の白い ところだけを使っているから白くて細く、キリリとした腰の強さになるんだと」
 口に入れば、それが極端に好みに合わない限り、食べ物に関してなんの拘りがない蒼紫に比べ、どうもこの男は 旨いものに関しては一家言ありそうだ。きっと蕎麦ならこの店。肉ならあそこ。寿司はどこそこに限ると、語りだす クチだろう。
 そんなブッた食通に対してもなにひとつ忌避するものではないが、一流の感覚は一流の環境と食べ物によって培われると 言って憚らなかった男を思い出し、ふと蒼紫の表情が翳った。
 神経質で小心者。だが世界市場を相手に渡ってゆけるだけの資質と才能を持った男だった。駆け出しの新人モデル に並々ならぬ温情と機会を与え、ほとんど観柳とふたりがかりで蒼紫をトップにまで押し上げたと言っていい。
 あの男に出会って得たものと失ったもの。その両方を天秤にかけたとしても、逸したものはなにひとつない。
 そんな想いで宙を流離っていた蒼紫の瞳のゆれに気づいた斉藤は、敢えて現実に引き戻そうとはしなかった。 思い澱むのに任せておけばいい。なにに思いを馳せているかに関しても彼は自由だ。しかしチクリと灯った胸の中の こごりを、正確に理解して斉藤は眉根を寄せる。
 そのとき、斉藤にとって幸いだったのは、大きな盆に乗ったこの店のオススメ定食が、絣の着物に身を包んだ 店員によって運ばれてきたことだ。
「おまちどうさま!」
 いつまでも生ないものに囚われていても仕方ない。
「歯ごたえがよくするために秒刻みで管理していると豪語するモリだ。もたもたしてると店主の渇が飛ぶぞ」
 さっさと食えとばかりに斉藤はパチンと高い音を立てて割り箸を割った。
 あまり食欲がないのか、それとも物を食すという行為自体に執着がないのか、蒼紫はいつもジレるくらいの速度 でゆったりと食む。生まれがいいのか、育て方がよかったのか――武田観柳の?――ただ単にトロくさいだけ なのか判じかねるところだが、食生活どころか睡眠に至るまで不規則な仕事がら、機会があればさっさと栄養補給を 済ませてしまおうとする斉藤たちの人種とはまったく異にした安穏さだ。
 だが。
 ふと斉藤は思い至った。
 そう言えば以前、果物ナイフで自らを傷つけようとした蒼紫を取り押さえたとき、エラく腰の据わった回し蹴りを お見舞いされそうになったんだ。
――美しいでしょ。所作が。あれはおそらく日舞で培われたんだと思いますよ。
 その前に蒼紫を称した武田観柳の言葉だ。
 目の付け所は間違いないと思うが、なにも所作に一本筋がとおるのは伝統芸能だけじゃない。武術全般をとおして 身のこなしに関しては厳しく躾けられる。
 どうやら見事な爪の隠し方を会得しているようだな、と斉藤は口の端を上げた。
 蒼紫が身にまとう硬質の鎧とは、亀裂が見え隠れする断層を重ねた氷壁なのかもしれない。底に湛える深淵が知りたくて つい覗き込んでしまうような。だが、危なっかしさばかりに気を取られていると、意外とどこか地続きだったりするのだ。
 これがこいつのペースなのか。
 ノソノソとメシを食うのも、瞬時に殺気立つのも。
 しかも必要なこともこちらから水を向けて聞き出さないことには、歩み寄ろうという親切心も欠如している。必要に 駆られなければスイッチが切り替わらないのだとしたら。
 かなり難物だ。
 食後に出された煎茶を含んで、引越し先は決まったのかと、口を開こうとしたとき、
「あすからパリに行く」
 と、蒼紫は食事途中ながらきちんと箸を置いて斉藤と向き合った。
「なんだ。仕事か? モデルは辞めたと聞いたのだが、別件か?」
「いや。死んだ曾我の、追悼のようなコレクションが開催される。未発表のものを彼のデザインチームが形にしたらしい。 先日事務所をつうじてオファーがあった。引退を打診したが、まだ契約期間は残っている。違約金うんぬんも大した 打撃ではないけれど、どうせならこれを最後にしてもいいかと思ったんだ」
「ほんとうに辞めてしまうのか? どの世界でもトップにのし上がるというのはそれ相当なことだと思うが」
「二十五でモデルなんて、もうトウが立ち過ぎている。東洋人だから年齢よりも幼く見られていたが、続けたとしても 限界は近い。なんの努力もせずに掴んだものに執着などないから」
「喩えそうだとしても、なんの苦労もなかったとは思わないがな」
 蒼紫が生業としていた仕事に関してなんの知識もない。仏頂面のまま服を着て歩いていればいい結構な職業だという 認識もどこかにまだ残っているが、それでも雑多な人種に囲まれて確かな地位を維持し続けられたという事実は、 評価されてしかるべきだ。
「たぶん半月ほどで戻る」
 蒼紫が言う。斉藤の思惟を超えたそんなひとことに、つい、ニヤリと笑みが零れてしまった。なんだと気味悪そうに 敵は眉を寄せるが、そうかとただ斉藤は納得した。
 イチオウ必要に駆られてくれたということだ。
 曲解だろうが誤解だろうが、この世知辛い世の中、自己中心的に解釈しなければ、渡りきってゆけないものが多すぎる。
 そんな刑事にあるまじき論点で納得して、
「帰ったら連絡を入れろ。土産なんぞ期待していない。暇があればメシを食おう」
 と、言えば、それは構わないがと声をひそめたあと、蒼紫はスっと面を上げて冷淡に言い放った。
「斉藤」
 無理をするもんじゃない、と。



continue





さぁ、斉蒼でお初を書くぞと意気込んでの続くです。ただし、考えられないくらいに斉藤が腰引けなんですよぉ。(泣) カッコいい斉藤と頑固な蒼紫ってな感じで進めばいいのですが〜(激しく希望)
とにかく、頑張ってみますっ!