かに食べに行こう! (1)






 目抜き通りを一歩裏道に入り、少し寂れた感のある雑居ビルの三階。「何でもお調べします」、 と広告の入った扉の向こうに、 「葵屋探偵事務所」がある。
 特に大々的な宣伝を打ったわけでもないが、口コミや人のつてなどで聞いてきた依頼人が引きも切らず、 結構繁盛していた。
依頼のスケールは浮気の調査から、お宮入り近い殺人事件の再調査めいたものまで、多種多様に渡っている。
 いま現在もその応接室には、ハンカチを涙で濡らしている依頼人が一人。 妻の浮気を疑っている夫からあらましを聞いているのは、 調査員の四乃森蒼紫。
 彼が一番嫌う調査依頼だったのだが、所長以下他の同僚がすべて出払らっているとあっては仕方ない。 事務所の評判を落とすような真似は出来ない。律儀な性格だけでコツコツと仕事をこなしていた。
「おかしいと思い出したのは、三ヵ月ほど前でしょうか。妻の帰りが遅いのではと感じるようになりました。 なぜって? 慌てて 帰って、取り合えず夕食の用意をしているのがアリアリなんですよ。入れっぱなしでたたんでない洗濯物とか、 夕食に出来合いの 数が増えたり、鍋などの簡単な料理だったり、やけに化粧が濃かったり、それは嬉しそうにメールの やり取りをしていたり、 といった感じです。これって確実に浮気でしょう?」
 旦那、あんたが細か過ぎるんだと言いたかったが、なんとか飲み込んで先を促す。
「一度携帯を確認してやろうとしたんですが、あいつ、ロックをかけてましてね、失敗でした」
「それはプライバシーの侵害に当たります。たとえ夫婦の間だろうと」
「おや、そうなんですか?」
 一体何が悪いのだといった反応だ。
 こういった思い込みの激しいタイプは、たとえ「葵屋」でシロと判定されても、 思い通りの結果が得られるまで調査し続ける。同業他店にとっても美味しいお客だったりする。 そう思えるほど蒼紫も達観していた。
「それで念のためにお伺いしますが、どこまでの調査をお望みですか? ご主人がご不在の時間中の尾行という 方法で よろしいですか」
「そうですね、取り合えずその方向でお願いしようかな。無論写真もばっちりお願いします。決定的なヤツをね。 それはそうと……」
 依頼人は先ほど蒼紫が差し出した名刺に目を落とした。
「いやぁ、お美しい。よく言われるでしょう。お名前もお顔立ちもお声もその指先も。あぁ、すべてがタイプだ。 いまからお時間ありませんか?」



 こういった客のあしらいは慣れている。これくらいのことで激していては、いままで何度血管をぶ千切って いたか知れない。 相手が気まずくまるまで、怜悧な雰囲気二百パーセントアップで視線を送る。 ノーリアクションほど辛いことはないはずだ。
 この方法で大概撃破してきた。しかし――。
「あぁその瞳。吸い込まれそうだ。一日中でも見詰め合っていたい。このようなムサイ事務所は君には似合わない。さぁもっと 相応しい場所を私が見つけてあげよう」
 手を取ろうとするのを思い切りひねり上げた。
「あいててて!」
 手首の一つや二つ折ったって構いやしない。
 昔習った護身術。
 近頃使用頻度が上がったのと、こういった使われ方しかしないのには 我ながら情けなかった。お得意の回し蹴りをお見舞いするほど、理性を飛ばされてはいなかったのを 感謝して欲しいほどだ。
 依頼人は自分のことは棚に上げて、失礼だとか乱暴だとか叫んで出ていった。また所長の 「翁」から小言を食らうだろうが、 追い返したものはしょうがない。口直しに淹れたブラックコーヒーを一口すすったそのとき、彼の携帯が鳴った。



 ディスプレイの表示を見てたっぷり一分は思い悩んだ。
 折角嫌な客を追いやって口直しをしたばかりなのに、敢えてむし返したく はない。諦めて切れるかと思っていても、この相手の場合辛抱強くいつまでも待つ。 それが分かるだけに渋々通話ボタンを押した。
『いつまで待たせるつもりだ。おまえ、携帯の意味がわかっているのか』
「あんたじゃなかったらもう少し早く出る」
 警視庁一課の刑事斉藤一だった。
 以前蒼紫が受けた依頼人が巻き込まれた事件を担当していた刑事で、その事件が解決してからも何かにつけて接触して くる。有体にいえば追い掛け回されている。迷惑だの、しつこいだのと言いながら引きずり回されてしまう己の優柔不断さに 泣きながら、現在に至っていた。
『随分なご挨拶を吐くようになったじゃないか。突然だがな、明日と明後日休暇が取れた。温泉に行くぞ。八時ごろ迎えに行く。 用意しておけ』
 耳を疑った。ついでに時計を確認した。金曜日午後七時。仕事が一段落したとはいえ、はいそうですかと言うとでも思ったか。
「おれは忙しい。勝手に温泉だろうと、湯治場だろうと行くがいい。用件がそれだけなら切るぞ」
『蟹が解禁になったんだ。うまい焼き蟹を食わしてやろう』
「甲殻類は好きじゃない」
 蟹、海老がどうとかの問題じゃない。したいのは、もっと根本的な部分での拒絶。しかし、
『なんだ、食うのが邪魔くさいからとか言うんじゃないだろうな』
「手間がかかるほどうまいとは思えない」
『いいもん食ってないな、四乃森蒼紫。水揚げしてすぐの蟹を茹でるか焼くかして食ってみろ。病み付きになるぞ。間違いなく 色っぽい声出して、斉藤もう一度とか擦り寄ってくるな。美味しい話だ』
「擦り寄るか! 大体、海老蟹の類は調子が悪いとジンマシンが出たり、食べるときの汁が手について痒くなったり、碌なことに ならないんだ。そうじゃない! おれはあんたと行かないと言ってる」
『仕方ないヤツだな。それならおれが殻をむいて食わせてやる。ついでに抗アレルギー剤でも貰っておくか。念のためにな。 心配するな。何も準備は必要ない。身一つで来い。じゃあ後でな』
「斉藤!」
 斉藤一、ちっとも人の話を聞かない男だった。切られた携帯を唖然と見つめている蒼紫の背に悪寒が走った。 何やら異様に血走った痛いほどの視線を感じる。恐る恐る振り返ると、腰に手を当てた少女が仁王立ちしていた。



「蒼紫さま、今の携帯、斉藤なの!」
 調査員の一人、巻町操だった。後ろに「葵屋探偵事務所」の所長、柏崎「翁」の姿も見える。怒髪天をつく状態の操とは 違い、こちらは嫌になるほど浮かれ状態のニヤケ顔だ。
「あんの、すだれ狼! また蒼紫さまにちょっかいをかけて! 今から警視庁に乗り込んで暴れてやる!」
 本当に飛び出そうとするのをお目付け役の女性調査員、近と増に羽交い絞めにされて止められている。それを鼻で笑って 「翁」が耳打ちをした。
「なんじゃ、今からでーとか? 何だかんだと言いながらおまえもお盛んじゃなぁ」
「誤解するな。そんなのではない。あいつが勝手に盛り上がっているだけだ。おれだって忙しい。そうそう振り回されてたまるか」
「まっ、そう言って叶った試しがないのがおまえらしいと言うか、相手が悪いと言うか、操が気の毒と言うか」
「翁は誰の味方だ」
「人生、修羅場と濡れ場は必要じゃよ」
 ウヒョヒョとほくそ笑む所長。蒼紫を挟んで斉藤と操のせめぎ合いを老後の楽しみにしている。だれとどうなろうが興味なし といったところだ。これ以上酒の肴にされてたまるかと雄雄しくも握りこぶしを振り上げるが、近たちの「お嬢!」の 声に戸口を振り返った。
 操が二人を振り切って飛び出していく。ちっと舌打ちして蒼紫はその後姿を追った。身軽な操は流石の蒼紫にも手に余る。階段を 三段抜きで飛び降りて、ビルの入り口辺りで漸く捕まえた。
「こんな時間から飛び出すヤツがあるか!」
「だって! 蒼紫さまがきちんと断ってくれないからいけないんでしょ! はっきり言えないならあたしがきちんとナシ、つけるまでよ!」
 静止のつもりで握られた手首を操はマジマジと見つめた。そうして向けられた視線の強さに圧倒される。
「ホントのところどうなの。斉藤に振り回されて平気なの。きちんと聞きたい。蒼紫さまの気持。答えて」
 返答に窮する。その事実に愕然とした。迷惑なんだと、困っているんだと、はっきり拒絶できないんだとなぜ言えない。その僅かな 逡巡を見逃す操ではなかった。
「ダメだよ、あんないい加減なヤツは絶対ダメ! 蒼紫さまを幸せにできる人は他にいるんだよ。目を覚まして!」
 違うと。それだけははっきりと言えた。だれかに幸せにしてもらいたい訳じゃない。ただ、 そのだれかと時を同じく。
「蒼紫さま!」
「イタチ娘の分際で、人のものにちょっかいをかけるな」
 闇から声がかかった。都会の雑踏に現れた人狼が二人の前に進み出る。琥珀より今ははっきりと金色の瞳で、 バックに月を背負っての登場だった。