宝飾店の事務所を出た途端に斉藤が大仰にため息をついたのを認めて、思わず安慈は白い歯を零した。 美貌と知性と育ちのよさで武装した参考人に、取っ掛かりひとつ見つけられず、冷静に断罪された斉藤撃沈の図など、 滅多と拝めない。恵がいれば腹を抱えて爆笑したあと、祝杯の準備を始めた場面かもしれない。 「おまえはあの手の女に弱いな」 「ふん」 気付けとばかりに煙草を取り出し、苛立たしげに火をつけると鼻白んで紫煙を吐き出した。こういう吸い方、また煙草 の本数がふえるなと安慈は思うわけだ。 「感情を顕わにする分、女狐の方がまだ可愛げがある」 「それを聞いた高荷がどのような顔をするか、見てみたい」 「白昼堂々口に拳銃を突っ込まれるのがオチだ」 だから止めてくれと斉藤は諸手を上げた。 「動機はなんだ? 怨恨か。金銭がらみか。ペアリングの片割れをだれが所持しているのか。犯人ではないまったくの 第三者か、それともすでにひとつ所持していた犯人が、二つ揃うことの意味を知って強引な手段に出たか」 安慈はふむ、と腕組みをした。なにか気になるのか思考はあさっての方向へ飛んでいる。斉藤は構わずに続けた。 「ガイシャの近くにいて、リングの所持者かあるいは事情に精通している者。パスワードは関係なく、リング本体の 金銭的な価値だけが動機だったら、女狐の言うとおり時計は置いてゆかないだろう」 「時計の価値に気づかない可能性は? わたしには何百万と言われてもピンとこなかったが?」 「それでも宝飾店のオーナーが所持している時計だ。時計、財布、指輪は残さないんじゃないか?」 燻らせていた煙草を放り投げようとした斉藤は、安慈の無言の非難を受けると肩を竦め、車の吸殻入れに捨てた。 相棒は嫌煙家であり、エコロジストでもある。 「ガイシャの交友関係をもう一度洗い直そう。だれかひとりくらい、リングのパスが何を差しているのか聞いているかも 知れない」 「最後に食事を共にした友人は、詳しく知らないと張は報告していた」 「その男からガイシャの交友関係を広げるか。友人には口が堅くても、行きつけの飲み屋のお姉ちゃんには、 ベラベラと得意に話してる可能性もあるからな」 ほう、と安慈は斉藤をマジマジと見つめた。 「やけに説得力がある。おまえも同僚友人には打ち明けられない心の内を、第三者に聞いてもらったことが あるのか」 「あぁ、道ならぬ恋のウサをな、道端の手相占い師に」 斉藤はヘラリと笑って安慈を促した。 被害者と最期の食事を共にしたというその友人は、都内に支店を持つ金融関係のサラリーマンだった。面会を申し込む と、もう話すことないけどなぁ、と言いながらも近くの喫茶店を指定してきた。十分ほど待たされて姿を現した男は、 頭をかき、童顔をしかめながらも、二人の前にドカリと腰掛けた。 「同じ話しを何度も申し訳ない。予断でも結構です。本人の口から直接聞いていなくても、リングの片割れを所持して いる人物に心当たりはないですかね」 「まぁ、そんな装飾品を送るんだから、惚れた女なんだろうけどね。あいつその手の話はしたがらなかった からな。見目もいいしね、結婚しても可笑しくないのに、ひとりに落ち着かないっていうか、邪魔くさいのか。 本命って思いつかないな」 「女性関係が派手だったと?」 「そうですね。端から見れば、とっかえひっかえ。羨ましいと思うかも知れないけど、あれはただ流してる としか言えないかな」 「流す?」 「ええ。上っ面だけで。そんな印象」 「そのたくさんいる女友達の中には本命はいないと」 「多分ですけどね。いたとしたらこっちが驚くな」 斉藤は顎に手を当て、最後にひとつと友人に問うた。 「憶測でしかないが、ペアのリングは二つ揃って意味を成すと考えられます。莫大な残高を抱えた銀行口座かもしれないし、 宝石商という立場柄、価値のある石かもしれない。リングにパスワードが刻み込まれていたんじゃないかと、同僚は 証言しています。しかしその物の正体も分からなければ、なにのパスかも検討がつかない。物品なのか、札束や証券の 類なのか。正直、銀行口座や貸し金庫のIDやパスとなると、遺族や相続人の立会いでないと解除できない。被害者には 遺産を分与する身内がひとりもいないときた」 友人はクスクス笑いながら、あいつはロマンチストだからと言った。 「わざわざ誂えてつくったんでしょう。僕は銀行の口座番号や暗証番号みたいな無粋なものを、大切な 指輪に刻まないと思うけどな」 「では、一体何だって言うんだ?」 男と別れて車に乗り込み斉藤は思わず呟いたが、その耳に無線から間延びした沢下条の声が届いた。 『斉藤さぁ〜ん、おる? はよ出て〜』 重い嘆息をついた斉藤に代わり、安慈が無線をオンにした。 『ああ、やっと捕まった。新事実発覚やで。結構みんな苦労してるみたいや。どいつもこいつも、叩いたら 埃が出る出る。世の中世知辛いわ。不景気やしな』 「安慈だ。張、分かるように言え」 『安慈さん? 斉藤さん、どうしたん?』 「何やら沈み込んでいる。それで?」 『へぇ〜、珍し。まぁええわ。なんしかみんなエライ借金抱えてんで。まっ、こんだけ日本じゅう不景気 やったら、借金ない人探すほうが大変やろうけど』 「張、みんなとはだれのことだ」 『せやから、隣人の評論家の先生と、副社長と、最後にご飯一緒やったっていう友達や』 その報告を聞いて斉藤は鷹揚に肩を竦めて無線を切った。 「純粋な物取りではないと言ったのは女狐か。高価な時計を置いてゆくわけがないと。だが顔見知りの物取りなら 財布は抜き取られていても時計を残してゆくのは頷ける。売りさばいたらそこからアシがつくからな」 「なるほど。ならば家捜しはやはりフェイクか。指輪だけを狙ったんじゃないという明確な意思表示」 「そう。あたかも金銭目当てだと、そう強調する方が不自然なんだ。空き巣狙いでも犯人はもっと迅速に行動して、 目ぼしいものを幾つか見つけたらさっさと逃亡するさ。強盗殺人犯が死体を目の前にして、リングを奪って、まだ 長居しやしないだろう」 「ただ、残念なことに、借金があるだけの理由であの三人を参考人招致は出来ない」 「ほじくり返せば、面白いものが出てくるかもしれんがな。ところで安慈、おまえの見つからない苛立ち説はどういう 到着点を見つけるんだ?」 「覚えていたのか?」 流れ出した車窓の風景に目をやったまま、問いの形で答えを返した。斉藤が拘っているとは思ってもみなかったの だろう。 「ああ。おまえはなにかを見聞きできる男だ。あの部屋の現状を見ての表現は言えて妙だったからな」 安慈は目頭を押さえて瞑目するような仕草を取った。応えは返らないが、その落ちた沈黙が、いまでもそう思っている と告げているように斉藤には思えた。 被害者の友人からは、別れ際、彼のいきつけの店を幾つか聞いていた。 ちょうど陽も傾きアチコチのネオンが灯るころだ。友人知人には話せないことを、スナックやバーの女相手にどこまで 漏らしているかは心許ないが、一軒一軒しらみ潰しで聞き込むしかない。斉藤はいける口だが、 安慈はああ見えて筋金入りの下戸だ。相棒は渋い顔をしているが、経費で旨いジュースを呑みに行くか、と斉藤は 巨体の肩を叩いた。 繁華街の一等地に店を構える会員制のものから、カウンターしかない個人経営のものまで、多種に渡る クラブやスナックをはしごし、ウーロン茶で腹が満たされつつあったふたりの刑事は、ようやく四件目にして、関わり のある話しを聞きつけた。 それは十人も入れば満員御礼の札を下げなければならないような規模の店で、婀娜っぽい年齢不詳のママとひとり のアルバイトで切り盛りしていた。いまは時間も早いのか客の姿はなく、無粋な刑事も安心して話が聞ける。 「えっ、あのひと死んじゃったの。コロシ?」 露出度の少ないワンピースを着たママは、どちらかと言えばトウの立ったOLに見えなくもない。あまり押し付け がましくない色気が好感を呼び、この店の落ち着ける雰囲気を演出しているとも見て取れた。 「ああ、ニュースは見ていなかったのか?」 「見ない、見ない。そういう時事ネタとかはね、お客さんから仕入れるのがあたしの流儀なの。例えば同じニュースでも 色んな意見があるでしょ。左右に分かれたものやら過激なものやら当たり障りのないものまで。一方的に喋ってゆく わけよ。お客さんは。だから精一杯空っぽでいるの」 なるほど落ち着けるわけだ、と斉藤は感心した。 「つい最近って、二日前なのよ。だからあんなふうになる前日ね。いつもなんだけど、水割りを一、二杯。深酒はしないわ。 スマートで支払いの綺麗なお客さま。複数で来ることはマレだわね。大概いつもひとりで、あたし相手にくだらない話し や恋愛談義をね、して帰るの。いい人でしたよ。人生って分からないものね」 頭の回転の速さを証明するかのように、ママは前倒しで説明してくれた。 「被害者の小指にはまっていたリングの話しなんだが、なにかその経緯とか聞いたことはないか?」 「ああ、あの太い指輪ね。第一関節くらいまであったわね。ダイヤが埋め込まれていて、ペアだとかいうヤツでしょ。 好きなひとに渡したかったんじゃないの。でもなかなか受け取ってもらえないとか、アレで苦しい胸のうちを語って いたわ」 「受け取ってもらえない?」 「そう。どうやら片思い。あ、けど、なんて言ってかな。『話を聞いてもらえる切欠が出来た』かな。『渡せる口実 が見つかった』だったかな? エラくガードの固い相手なんだなって思ったのよ」 「その、被害者は、いつもそんな中学生でも忘れているようなたどたどしい恋愛をしていたのか? 友人から聞いた話 とはかなり違和感があるのだが」 とっかえひっかえとまではさすがの斉藤も口に出来なかったが、ママにはつうじたようだ。 「そう思うよね。『だれも本気の恋愛には臆病になる』ってのが持論だったかしら。怯えているようにも見えた。相手 の反応にね。はっきりとは口にしなかったけど、道ならぬ恋かしら。彼氏持ち。あるいは亭主持ち。もっと歪に 親の保護が必要な子供とか、もしかして、男?」 斉藤の脳裏に、数いる女友達とはただ流しているだけだと言った友人の言葉が蘇った。そして、次に浮かんだのが、 被害者の隣に住んでいる元モデルの存在だ。名工の手によるつくものめいた美貌ながら、どこか性的な匂いが著しく欠如 しているにもかかわらず、その種の男を引き寄せる媚薬をうちに飼っている。 安慈が横で小さく身じろいだのが分かった。けれどそれに斉藤が反応するわけにはいかない。なにか矜持のようなもの に支えられて斉藤はそう思った。 「その根拠は? その、倒錯的な趣味のある男だったと予想されるものがあったんですか?」 「これって無闇に故人を傷つけることになるのかしら? 証拠もなにもあったもんじゃないんだけど。女連れは一度も なかった。友人っていうのもちょっと童顔の男性が二、三度。彼、ここは長いのよ。なんだろ。言葉の端はしに、 女はこりごりっていうか、同じ時間を所有する資格がないとか。そう言いながら女漁りしてる男はゴマンといるんだけど、 彼に関して、それは本気でアリなのかなって思えたの」 斉藤は出された――ここ何軒かの中では一番値段の安いであろうウーロン茶を飲み干した。それを見て、いままで 黙していた安慈が質問を引き取った 「最後にここを訪れたとき、被害者の様子でなにか記憶に残ったことはなかったか?」 「そうねぇ。思えば浮ついていた、かしら? やっと手に入れたんだって。なにをって聞いたら、『宝物が手に入る宝物』って、 小指のリングを撫でてた。オレが与えられるものといったら、これくらいしかない。やっと――」 そう言ってから気づいたのか、ママとふたりの刑事は同時に顔を上げて見詰め合った。 「ということは、前日には手許にあったということか? 渡していなかった。その機会を伺っていた? そして渡せる 日がきた?」 「確かにそんな言い草に聞こえるわね」 呟いたママの声と店内を流れるジャズの音色。それだけが総てを支配していた。 深夜にいたるほんの少し前、署にたどり着いたふたりを待っていたのは、仮眠室にも移動せずデスクにうっ伏した 張の背中と、その斉藤に向って差し出された女の腕だった。女性にしては上背のある、しかし、思い切り背伸びして 斉藤の首ねっこを掴んだ同僚の高荷恵は、有無も口答えも拒絶も許さずに、彼を隣の視聴覚室へと引っ張っていった。 安慈はそれに黙ってつき従う。なんだ。なにごとだ。と叫んだところで、疲労の色の濃い恵から明確な答えは期待 できないだろうし、一切の無駄を許さない。説明するから黙っていろと、目の下の隈が語っていた。 恵は日付が変わると凶暴さを増す。被害者はひとりでいいだろうとの判断だった。 どうやら本日の恵は署に缶詰状態で、マンションから押収された防犯ビデオの洗い出しを担当していたようだ。 この炎天下の中、空調の利いた部屋で内勤とは優遇されていると言ってはいけない。ただひたすら目を皿にして、それこそ 精も根も尽き果てるような鬱積の溜まる仕事だ。恐らく途中まであのマンションのマネージャーの協力を仰いで いたのだろうが、いまは恵と解析担当者のふたりだけだった。 まるで犬猫の扱いでモニター前の椅子に斉藤を押し込むと、恵は解析担当の職員に顎をしゃくって合図を送った。 なにもそこまで労力を惜しまなくてもいいだろうとは、率直な感想だ。 いったいなにが映されていたのか、押し込まれたものの、ドカとふんぞり返ってさっさと出せとばかりの斉藤も、 付き合いの長い分、恵慣れしている。 「時間を見て」 署に帰ってから初めて聞いた恵の声は表情に比例して硬かった。解析担当者がマウスを操作する。ディスク化された 映像がディスプレイに映し出された。 これは二台あるうちの地下駐車場の防犯カメラなのだろう。エレベーターホールの中に設置されているであろうそれ の視線は、ガラス張りの出入り口を向いていた。その向こうは地下駐車場。時間表示がコンマゼロ秒まで流れる中、 何人かの人物が忙しなく行き来する。 防犯の意味どおり、出入りする者のうち、侵入者に重点を置かれているのは仕方のないことで、マンションを出る者 に関してはその背中しか移らない。そう思っていると、急に恵が「十一時十五分」と声をかけた。 エレベーターからふたり連れらしい男が降りてきたのか、後姿が捉えられている。ストライプのシャツにジーンズという 軽装の上背のある男と、シャツにスラックス姿のそれよりも十センチほど小柄なもうひとり。恵が指示するよりも先に、 斉藤が「止めろ!」と叫んだ。 continue |