CHANGE IN THE WORLD



〜1






 季節の移り変わりを五感で感じる瞬間は幾つもあるが、やはり夏の場合、最後の足掻きとばかりにヤケクソを起こして 羽音をたてる蝉の存在だな、と斉藤一は報告書をめくる手を進めた。
 警視庁捜査一課、第三強行犯係室。
 真横に日差し避けの樫の大木なんぞがあるものだから、まるでそのわななきに取り囲まれている気にさえなる。
 だが集中さえすれば、それが一定のリズムに思えてくるから不思議だ。己の集中力に感嘆しつつ、 せいぜい生の証を主張すればいいさと最後の一枚をめくったとき、係室の扉が勢いよく開かれた。
 (すだ)いていた羽音が一斉に止んだ。



「連日連夜の殺しだ。暑さは人の理性を体よく吹っ飛ばせる。早く涼しくなんねぇかと心底願ってるのは、夏の 消費電力に青くなってる電力会社と全国の殺人課の刑事たちだろうよ」
 事件のあらましを告げたあと、三係長の比古清十郎はこうべを垂れた部下たちの後頭部を殴る勢いで睥睨した。 さすが肉体派。寝不足続きでもまだ余禄がある。その他の刑事たちはその軽口に応酬できないほど疲弊 しきっていた。
 これで何夜連続――と眠そうな目で三係の紅一点、高荷恵が誰ともなしに問う。
「三日? 四日? 邪魔くさくなって数えてへん。しかもなんでうちの管轄にばっか集中するかな」
 大概テンションの高いお調子者、沢下条張も目の下のクマを撫でさすりながら淀んだ瞳を返していた。
「ちゃきちゃき動きださねぇと、鑑識から死体が腐るって苦情が来るぞ! 心頭滅却すれば火の輪くぐりだってできる。 炎天下の聞き込みなんざ、熱いうちに入んねえ。警察の不祥事には昨今視線が厳しいんだ。やる気のねえデカ共の 尻ぬぐいで、記者会見で頭下げんのだけはごめんだからな」
 熱血口調なほど体育会系でもないくせに、部下たちにハッパをかけるときだけ啖呵を切る。
 あーあ、と恵が大仰にため息をついた。
「いま手が空いてる者は斉藤と安慈か? 諦めてさっさと行って来い」
「手なんか空いてませんよ。前のヤマの被疑者がまだゲロしてないんだ」
「いつまでちんたらと手間暇かけてやがる。殺さねえ程度に締め上げねえと、あとがつっかえてどうしようもねえだろう が。俺がケリつけといてやる。おまえらが現場に到着したころには送検しといてやる。心置きなく出掛けて来い」
 顎を上げて性質の悪い笑みを落とされ、斉藤は仕方なく上着片手に立ち上がった。相棒の安慈も相手が相手なのを承知 して、逆らわず斉藤に倣う。だが、第三強行犯係室の扉を閉める際、斉藤にだって毒づく気概くらいは残されていた。
「たまには現場に出ないと、足から老化が始まるぞ」
 そう言い捨て、ステンレスの灰皿が顔の横を通り抜ける中、ふたりは係室をあとにした。



 昨夜、殺人が行われたという現場の住所を告げられたときには、思い当たる節はなにもなかったのだ。
 現場は副都心を望む高層マンションの一室らしいが、そこに至る周囲の風景はどこも似たり寄ったりだし、 高級だろうが高層だろうが、洒落ていようがこれ見よがしだろうが、ただの生活基盤でありねぐらだ。他人さまの持ち 物にはその程度の認識しかない。
 けれど、さすがにこの角度で見上げた外観には既視感以上のものを覚えていて、斉藤は助手席の相棒を振り返った。
「なんでまたここなんだ?」
「確かに二度目だな。二カ月ほど前だったか」
「あぁ、もうそんなになるのか」
 斉藤はもう一度、総レンガつくりの建物を見上げる。
 一際暑かったあの日、この大層なマンションの一室で、東洋の神秘と称されたモデルに出会った。斉藤たちが扱った 殺人事件の容疑者に一番近い参考人という形で。
 薄昏い闇を引きずり思惟の総てを呑み込んで、どうにか生を紡いでいるような繊細な男だった。
 切っ先の鋭い、それでいて自身の内から流れ出る痛みや血潮には何も感じないといった風情が、妙に斉藤の気を引いた。
 四乃森蒼紫。
 さざ波ひとつ立てない湖面のような静謐さで他を寄せ付けず、なににも関わらず、ひとの繰り人形でいいと諦観していた 男だ。だが、抑え付けていたものは針の一穴から溶解し、内面にうごめく確かな怒りや哀しみに触れて、気づく間もなく 惹きつけられていた。理由は、だれもの視線を集めざるを得ない秀麗な容貌からではない。
 その見え隠れする不安定さをも含めた存在感が、かれを世界に押し上げたのだと思い至った。
 僅かふた月のうちに二度も身近で殺人事件に見舞われるという不運も、ヤツの内包した不安定さのせいなのかと、 不謹慎ながら笑えてくる。
 そう言えば転居先を探していたのではなかったか。
 以前、斉藤の自宅近くでばったり出くわしその後の経緯の説明を少しだけ受け、部屋探しの手助けをしてやったことが あった。あれから会うことも連絡を取り合うような関係ではないから、その後の動向は知らない。もしかしたら、 もうここには居ないかも知れないと思いながら、斉藤は一歩踏み出した。
 最上階でエレベーターを降り、右に折れるとすぐに立ち入り禁止のテープが見える。ざわついた喧騒の中、確かに あの日もエレベーターホールのガラス窓から見える最上階の展望に口笛を吹きつつ、この通路を辿ったのだ。ワンフロアに 戸数の少ないつくりな上に最上階。これにまだ住んでいるのなら、どうしても刑事の聴取を受けなきゃならんようだな、 と斉藤はひとりごちた。
 このマンションの住人でもあるまい、どこから沸いて出たのか野次馬たちがワラワラと周囲を取り囲む中、二人はその 一室にたどり着く。入る前に斉藤は左右の住居を見比べた。表札は上がっていないが被害者の部屋の左側が件の人物の 部屋。間違いないと確信して、安慈に遅れる形で白いテープをくぐった。



 鑑識係がたくフラッシュの中、被害者は後頭部を鈍器のようなもので殴打されて絶命してた。
 うつ伏せの死体の横にはご丁寧に血のついた花瓶まで転がっている。部屋の中はこれも至って定石どおりの物色の跡。 物取りの犯行だな――と安慈が呟いたもの無理はなかった。
 ホトケは宝飾店のオーナー。三十五才。独身。自らデザインなどもこなし、ここに居を構えられるというのだから、 結構な羽振りだったようだ。
 光沢のあるシャツとスラックス姿。争った形跡は伺えない。真後ろに回りこんだ犯人は大した労もなく、この 花瓶を振り下ろしたのだろう。そして切り取られた跡も生々しい左手の小指。
 死後直後なのかまだ息のあるうちなのか、思わず手が出るような相当ご大層なシロモノが指にはまっていたの だろう。
「男のくせに小指に指輪とはな」
 斉藤は欠損部分を指差してだれにともなく問いかけた。安慈は不思議なものを見たように眉を顰める。
「組関係からの粛清だったらどうする?」
 同僚の尤もな言い分に、斉藤は小さく哂った。
「確かに、あらゆる可能性を捨てては刑事失格だ。実行犯、もしくは遺体損壊者は、ホトケの小指になんらかの拘りが あったのかもしれんしな」
「そうだ。臓器と同じで闇で高く取引されている可能性もある」
「小指がか?」
「可能性の話だ」
 安慈の説に苦笑しつつ、ふたりはいま一度室内を見て回った。
 キッチン部分の総ての収納スペースからは中身をぶちまけられ、リビングに至っては本棚からビデオやDVDの総てを 引っ張り出し、ソファやクッションはナイフで中綿までえぐられ、壁にかけられた幾つものリトグラフが叩き割られていた。
 家捜しというよりも破壊活動に近い暴挙だ。
「これは、何か金目の物が欲しいというよりも、特定の何かを探してるな」
「うむ。見つからない、見つからないといった苛立ちが見える」
 実家がお寺。父親が住職という経歴を持つ男は、犯人の心情を読む術に長けている。現場を見回して、その場にいた 人物がなぜそのような行動に出たのか、瞑想すればおぼろながらにも見えてくるらしい。それも独断の一種なのだけれど、 斉藤はいつも安慈の直感を心の隅に留めるようにしている。
「複数犯はどうだろうか?」
 確かに一軒の家から、目当ての物を物色するにはひとりやふたりでは効率が悪いのだが、安慈は隈のくっきり残る両の 目を一度瞬いただけだ。
「幾人もの手があれば、これほど苛立たないと思うが」
「なるほどね」
 言い切ったからと言って、その考えに固執するタイプでもない。斉藤は報告書を読み上げながら実地検分を行った。
「マンションのエントランスは当然セキュリティーロックがかけられている。各部屋から解除する仕組みだ。 駐車場をとおる場合も同じ方法で解除しなければならない。エントランスと駐車場。両方に設置された防犯ビデオは 既に押収済み、と。これは別の班が調べてくれるだろう」
「人手不足だからな。わたしたちに回ってくるかもしれん」
「そうだな――」
 仕方ねえから、その仕事はオレが変わってやろうと、三係長が出張りそうな気がする。斉藤は肩を竦めた。
「とりあえず怨恨と物取りの両方で洗うしかあるまい」
 仮定の議論では埒があかない。ふたりは犯行のあった部屋でぽつねんと立たされている、管理人――いまはライフ マネージャーと呼ぶらしい――と紹介された男に近づいていった。



 ひとり暮らしの男の不審死に気づいた切欠は、玄関の扉が開けっ放しに放置されていたからだという。 朝、出勤時に廊下に出た隣家の住人が見つけた。プライバシーに敏感なここの住人がそのような無用心をする筈がなく 不審に思い、開け放たれたドアから顔を覗かせて、荒らされた室内に仰天し、マネージャーに連絡を取ったらしい。
「その第一発見者はあなたが到着されるまで、室内に入った形跡はなかったですか」
「それは分かりかねます。わたしが駆けつけたときは、開け放たれた玄関の前に立っておいででした」
「そしてふたりで室内に入られたと?」
「いえ、わたしだけです。ご隣人は玄関に立ったままでした」
「まず、目についたものは?」
「物色された形跡でしょうか。ご承知のようにリビングの扉を開けてしまえば、玄関からでも室内は見渡せます。 廊下の中ほどで床に倒れられているこちらを発見して――」
 マネージャーは収容袋に入れられて監察医に回される被害者を目で追って、口籠もった。
「通報はあなたが?」
「はい。その場で携帯からかけました」
「結構です。では早速その隣人の話を聞かせてもらいましょう」
「生憎、早朝からお仕事だからと、その足で出かけられました」
 斉藤があからさまに顔を顰めると、マネージャーは目の前で片手をブンブンと振って言い訳をした。
 何やらテレビに出ているエライ評論家の先生らしいから、身元は保証できるだという。そのエライ先生が 殺人を犯して国外逃亡する可能性など思いもつかない能天気さに呆れながらも、斉藤はもうひとりの 隣人の所在を確かめた。
「ご在宅じゃないようですよ。先ほどインターフォンを押したのですが、出てらっしゃらなかったから」
 こちらもまた世界的に有名なモデルさんでしてね、とマネージャーは聞いてもいないのに説明し出す。 どうやら著名人が多数住んでいることを自慢したかったらしい。
 あの見蕩れるくらいの仏頂面に関しては、モデルは既に廃業しているし、この腕に抱きとめたこともあるとコクって やろうかとも思ったがやめた。どうも同レベルの戦いのような気がしたからだ。
「合鍵を貸してもらいたい」
「えっ?」
 不在なのに押し入る気かと、まるでホテルのフロントマンのような出で立ちをしたマネージャーの目が泳いでいる。 それには多少強引に言い放った。
「隣家で強盗殺人だ。何か物音を聞いたかも知れん。それを確かめようとして、犯人たちと接触した可能性 だってある。本当に不在ならそれで僥倖じゃないか」
 脅しが効きすぎたのかマネージャーは震える指でカードキーの束を繰り出した。
 その場を安慈に任せて、斉藤は蒼紫の自宅へと向った。一日にして二件の殺人事件に遭遇するかも 知れない恐怖を抱えている男には申し訳ないが、斉藤にとってただ確認したいだけの行動だった。
 念には念を入れたい。ただ、それだけだ。
 以前事情聴取で入ったときも感じたが、蒼紫の自宅は相変わらずその広さを持て余しているように殺風景だった。 二十畳ほどのリビングには、友人で埋まったことがあるのかと訝る応接セットがひとつとサイドボード。テレビもなければ、 朝っぱらから点灯しなければならないほどの機能を持つ遮光カーテンが一切の彩りを遮っていた。モデルルームですら、 もう少しひとが生活の匂いを出していると思う。
 ここであの男は、斉藤たちの質問にただ胡乱な答えを返していたのだ。
 ただ、以前と違うのはリビングの片隅に積まれた幾つかのダンボール。やはり引越し作業中のようだ。
「そうそう。今月いっぱいで契約を解除されるようです」
 まだ半月ほど期間は残っている筈だが、行く先が決まったのか用意周到なのか。必要最小限の身の回りの 品とダンボールに囲まれて暮らしているといった感だ。
 斉藤はふとテーブルの上に視線を落とした。
 広げられたままのジグソーパズル。テーブルのほとんどをそれが占めていた。印象派と思しき柔らかい色彩と、幾重にも 塗り込められた油画が現れている。
 蒼紫が退屈しのぎにこれと格闘している姿を想像して顔は綻ぶが、その状態に思い至って斎藤は思わず視線を絞った。
 ほとんど完成されている。残りは十ピースほどだ。
 あの完全主義者がここまでつくって放り出すだろうか。引越しも迫っているというのに。さっさと完成 させてボンド付けする必要だってある筈だ。
 ここまで来て手を止めなければならない事態に陥ったか。
 それも昨夜だ。
 最悪の予想に斉藤は眉根を寄せた。



continue









とてつもなく久し振りに斉蒼パラレルバージョン。ちょっと照れます。
十行ほど書いて放置してたので、どういう 話が書きたかったのか自分でもわからんという。(無責任!)
何やらミステリーめいてますが、そんな大層なもんじゃございません。風味だけを味わってください(わはは)