青の軌跡 〜2







「何だおめい。大層な血臭を漂わせやがって」
 夜風どころか疾風に巻き込まれた斉藤が帰城し、与えられた自室の襖を盛大に開けると、 思わぬ人物が片膝を立てて手酌で酒を呑んでいた。珍しいこともあるものだと目を細め、斉藤は己の差料を外して 傍らに置き諸肌を脱いで傷を確かめた。
「どうしてここで呑んでいるのです。それもそんなにお好きではなかったでしょう」
「他に相手がいなかったからに決まってるだろう。それよりも何人だ?」
 何人相手にした、と子供のように顔を綻ばせたこの上司は、怪我よりも喧嘩の加減の方が気になるようだ。苦笑 しつつ、一人と答えた。
「冗談だろう」
「事実ですよ。多少相手を甘く見ましたがね」
「ふうん。信じられねえな。で、仕留めたんだろうな。長州か? 薩摩か?」
「出自はどうでしょう。結局逃げられましたから」
 本当に珍しく相手は闊達に笑った。この人のこんな表情を見るのは初めてかも知れないと、 斉藤の肩が揺れた。
「らしくねえ。油薬いるか。金創の薬もあるぞ」
「頂きます。石田散薬じゃないんですか」
「ありゃ、打ち身にしか利かねえよ。しかしヤキが回ったか、斉藤。三番隊組長ともあろう者が。 沖田がいないからって気ぃ抜いてんじゃねぇぞ」
「まったくだ。しかも小鹿のようなしなやかな相手でしたよ」
「女か」
「と、見まごうばかりの」
「色っぺぇ話だよ」
 やけに機嫌がいい。京にあったころには考えられなかった態度だ。
 この人の感情の発露は読みにくい。些細なことで狭量さを見せるかと思えば、窮地に立つと自然と腹が据わる。
 後者だなと斉藤は踏んだ。
 多摩時代からの朋友は二人ともこの城で寝込んでいる。だが、それだけではない筈だ。
「何があったんです」
 つい膝を進めて詰め寄った。
 余り酒には強くない。多少酩酊ぎみに視線を上げ、相手はへらりとその言葉を告げた。
「上さまも会津公も、老中の板倉さまも、もういねえ」
「いない、とは?」
 そして付け加える。
「逃げた、らしい」



 先ほどの謎かけはこのことだったのかと斉藤は思った。
 いい気なものだと吐き捨てられた言葉の訳。叩き付けるような怒りに縁取られた紫暗の瞳。
 ほんの僅か、それを早く知る立場にあった少年の哀しみと、人伝えに聞かされ自嘲気味に哂った男の怒りは 同じ位置にある。置き去りにする者とされる者。そのどちらをも慶喜は裏切った。
 上の思惑など如何ほどにも忖度しない鬼の副長は、それでも己が道を突き進むだろう。大層な理屈など 真っ平だと吐き捨て、だれに言われるでもなく喧嘩師の本能で前をゆく。その後姿を斉藤も追う。それでいい。
 しかし、捨てられずに捨てさせられたあの少年は、いっそ哀れだ。
 頑なに、そしてたどたどしく感情を顕わにした後ろ姿を思いやる。怒りの行き場を失ったような姿だった。
 何れにせよ、この段階で此度の戦の行く末は決まったなと斉藤は腹を括った。
 正月八日の未明、天保山沖に停泊していた幕府軍艦開陽丸は、慶喜一行を乗せ、艦長榎本和泉守を置き去りにする という形で出航。一路江戸を目指した。
 西ノ丸に帰り着き安堵の息をつく間もなく慶喜は、静寛院宮(故家茂夫人)に東帰の顛末を説明し、 朝廷に対し恭順謹慎の嘆願書周旋を依頼している。その鮮やか過ぎる手並みは、慶喜の大勢や思惑に、 鳥羽伏見の初戦での敗退など初めから含まれてなどいないとさえ蒼紫には思えた。
 人払いをさせると慶喜は小さく蒼紫を呼んだ。彼は音もなく目睫に控える。元々表情も乏しく 所作も固めの蒼紫の、更に強張った肩に慶喜は苦笑を隠しきれない。
「予に出来ることはこれまでだ。あとは意を解さぬ、血気に逸った無頼の壮士たちをいかに抑えるか。 それは安房守に一任してある」
 慶喜は総ての思いを置き去りにして既に先を見ている。意を解さないのではなく、解せないのだと、 特有の一足飛びの思考の飛躍に、だれもついてゆけないのだとは理解できないらしい。
 畏れながら、と蒼紫は切り出した。
「これから我らに如何せよと仰せになられますか」
「お庭番衆の責務を振り返れば自ずと知れよう。申してみよ」
「上さまの御身と城をお守りすることが第一の使命と」
「幕府は既に解体しておる。ここもどう相成るか一寸先は闇じゃ。そちも今後『上さま』と呼ばぬよう 心がけよ」
 将軍直属という身分ながら、その将軍職はもう存在しない。好きにせよと丸投げされた言葉に、 感情の方がついてゆかない。三百年続いた伝統が邪魔をした。それほど器用に切り替えができるなら、 いっそ自由になれたものを。
 十五年しか生きていない。それでもお庭番衆として根底に打ち込まれた責務がある。上に立つ者として 当然の言責をいともあっさり斬り捨てる潔さに、最早眩暈しか感じなかった。
「どうあっても陣頭には立たれないと仰せでしょうか」
 詮ないと分かりつつも蒼紫は重ねて問うた。
「あり得ぬ。儂が立てば戦局は一層苛烈を極める。かと言って儂の首を差し出して、幕臣一同の命乞いを したところで、状況は惨劇を重ねるだけだ。壮士たちは弔い合戦と称して鼓舞し、 戦局は拡大する。その勢いは誰にも止められん。列強諸国が舌なめずりをして日ノ本に狙いを定めているのが 分からんのか。自国の民同士で争ってどうする。儂とて身動きが取れぬのだ」
 その態度で戦はなくなりますか、とは己が時流を解さぬゆえの思いなのだろうかと、蒼紫は御前を辞した。
 同じころ、正月十二日、大坂天保山沖にあった軍艦富士山丸は抜錨。新撰組隊士らを乗せ 江戸に帰還している。



 翌二月。徳川慶喜は上野寛永寺にて蟄居謹慎。
 幕領地を押さえようと、土佐の板垣退助率いる官軍が甲州を目指している。それを抑えるために 新撰組幹部を中心に『甲陽鎮撫隊』なるものが組織されたと蒼紫の耳に入ってきた。
 甲州。
 あの男もその北征へと赴いているのだろうか。あの不埒な、人を食った男も。
 活路を剣で切り開いてゆくのは己のためだと、不敵に哂い言い切った。 慶喜の裏切りを知った上でもまだ、そんな壮言を吐き続けていられるのか。狼狽たり自失したり するような可愛げはなさそうだが、消沈の図くらいは拝んでみたい。睥睨してやりたいとは、 あの日の意趣返しでしかないが。
「甲州」
 蒼紫はもう一度小さく呟いた。幕臣たちが激しく時流に抵抗している。
 それを知って俺は何を成す。ここでの任務は徳川宗家宗主の警護だけだ。
 蒼紫はかぶりを振って腹心の部下の名を呼んだ。
「お呼びでございますか、蒼紫さま」
 真摯で一途で、蒼紫の命を至上と心得え、傅く般若面の男から視線を離して彼は告げた。
「少しここを離れる。おまえたちは慶喜公のお側を離れるな」
「どちらに」
「すぐ戻る」
「ではこのわたしの同行をお許し下さい」
「だめだ。般若までいなくなっては公のご不興を買う」
「蒼紫さまが居られないこと事態がもう立派な不興です。それにご心配されます。あの方はあなたのみを 頼みとされてますから」
「俺などいなくても公の身の安全は変わらない。いや、あの方々は変えないようにどんな手段でも講じられる」
「蒼紫さま」
 詰るような言葉に般若の体が固まった。珍しくも苛立ちが手に取るように分かる。 だが、このままではどこまで行っても平行線の水掛け論だ。仕方ないというふうに般若は譲歩した。
「では、どちらへとお聞きして宜しいか」
「言ったら般若は許してくれない」
「それでは話になりません。立場を捨てて勝手をされると言うのであれば、我が身を呈しても 止めてみせます」
 般若は本気だ。お庭番衆のためなら、どこを斬っても痛くないと豪語できる男に根負けして、蒼紫は ぽつりと告げた。
「甲州」
 途端に般若の面から怒気が湧き上がる。
「戦いに参じると仰るのか。ではなぜ我らも共にと仰っては下さらない! 蒼紫さまの命一つで、我らは いつでも官軍と一戦交える覚悟は出来ております。それをご存知ない訳ではないでしょう!」
 当然予想された般若の怒りだった。だれもがここでの不遇を嘆いている。燻る闘争心を持て余している。 動かないのはお頭である蒼紫の命がないからだ。
 命は出せない。己のために戦うと言い切れる放埓さとは無縁の世界なのだ。
「誓って言う。幕臣たちの戦に参与はしない。お庭番衆の身柄は徳川宗家のものだ。たとえ公が我らを 放逐されようと」
「では、なぜ?」
 蒼紫の脳裏にチラリと琥珀色の瞳が過ぎった。それを打ち消す。はっきりと。
「臣として、公に成り代わり、公が目を背けられる事実に直面したい。最後の務めとして」
「蒼紫さまがなさらなくとも」
「分かってくれ、般若。この目で確かめたい」



 確かめさせてくれと言い残し、蒼紫は一人で旅立った。









え〜、続きを書いちゃいました。久し振りに副長が書けるなという不埒な理由からです。(きっぱり)
パラレルでは蒼紫になかなか届かないし。だもんで。
次は蒼紫が斉藤を追いかけます〜。
般若くんも書けたし。言うことなし!