青の軌跡 〜3







 風花の舞う中。
 忍び装束を捨て、脱藩した素浪人のように身をやつした蒼紫の後ろ姿を般若は何時までも見送っていた。
 蒼紫ほどの手練なら戦場にあっても、薩長自慢のミニエー銃など小太刀で防ぎきれるだろう。
 しかし不測の事態などというものは、どう備えようが回避できないからこそ起こり得る。 どこかに潜んでいる災いなど、離れてしまえば手の届かない現実となる。お庭番衆にとって 最早蒼紫が最後の絶対者なのだ。何としても引き止めればよかった。その思いばかりが過ぎる。
 やはり、身を呈しても。
 過保護過ぎるほど蒼紫信奉率の高い般若の肩に手を掛ける者があった。
「よう。行っちまったみたいだな」
 全身刀傷だらけの巨漢、式尉だ。慰める訳でも、咎めるでも、諦観しているでもないような、 どう評してよいか分からない複雑な表情で立っていた。
 大雑把なこの男には般若のもどかしさは理解できまい。下手をすると一笑されるだけだ。 般若は言葉なく、肩に置かれた手を跳ね除けることで、その苛立ちを表した。
「何時までも恨めしげに見送ってるんじゃないぞ。帰って来るって言ってんだろう。少しは信じてやれや」
「そんなことは分かっている」
「分かってない。おまえの度を過ぎた至心はお頭を縛る。何事も程ほどが丁度いいのさ」
「貴様。愚弄する気か!」
「頭冷やして聞きな。危なっかしいんだよ。おまえもお頭も」
「フン。流石に薩摩から寝返った者は言うことが違う。人に誇れるほど柔軟だ。認めてやろう」
「それに関しちゃ、申し開きはできねえがな」
――けどよ
「お頭の我がままなんざ初めてじゃないのか? 少なくとも俺は覚えないしな。好きにさせてやりてぇ じゃないか」
「それは――そうだが、蒼紫さまに万が一のことがあれば、我らは――」
「大の男が捨てられた犬みたいな泣き言言うんじゃねえよ。お頭が帰るって約束したんだ。間違いなく 帰って来る。あの人は骨の髄からお庭番衆のもんだよ。俺たちはここに居て、使命を果たして、戻る場所を 守るだけだろうが」
「日々刻々と世情は変化する。守るだけなどと、事もなげに言う」
「そりゃそうだ。昨今、当たり前で自然が一番難しいんだよ」
 カラカラと笑う式尉の後をついて、般若もその場を後にした。



 一方、甲州では、近藤、土方たち新撰組幹部を軸とした「甲陽鎮撫隊」が到着するよりも、板垣退助らの官軍 「東山道方面軍」の先鋒隊の方が、いち早く甲府城に到着していた。
 甲府城の方針は「鎮撫隊」を待っての篭城。しかしかの隊が到着する気配は見えない。城内には 開城を迫る官軍に対して、時間稼ぎをする手立ても、その折衝に弁の立つ臣もいなかった。
 「鎮撫隊」よりも一足先に甲府にたどり着いていた蒼紫は、城代駿河守以下が顔を付き合わせる大広間 の屋根裏に張り付いていた。城内は開城か決戦かで蜂の巣を突いたような混乱の様相。蒼紫一人が忍び込むなど 造作もなかった。
 城内の混乱ぶりを反映したかのように、重鎮たちがそろうその場も、よく言えば喧々諤々。だが、ただ口から 泡を飛ばして決定を先送りしてるとしか思えない。
「遅い! 鎮撫隊は一体何をしているのだ!」
「間もなくと報告は受けております」
「言い訳など聞きたくない! 現に官軍は目と鼻の先まで迫っておるではないか! 鎮撫隊抜きで篭城は 不可能であろう」
「仰せのとおりでございます」
「しかし何の手も講じず開城したとあっては、後々我らの威信に関わりましょう。いま暫くの引き伸ばしを 提言いたします」
「しかし、明朝にはと矢のような催促じゃ」
「左様。何も手を講じずこまねいていたわけではない」
「甲州城下を守ることこそが使命と存ずる」
 要するに現状を打破するための会議ではないようだ。守れなかった言い訳。その羅列。確認するためだけに 始終している。蒼紫は舌打をしてその場を離れた。



 とっぷりと暮れた城下は既に雪化粧。深々と音もなく降り積もる。
 雪の夜は殊のほか明るい。朧な月光が雪を弾き辺りを照らしていた。
 一面の白装束。
 あらゆる万象を覆い隠し、抱き、霧散させ、その下には様々な思いが蠢いている。それでも、上塗りする ように時流は突き進んでいた。贖ううねりは一つ一つ消されてゆく。
 そしてさらに雪は降り積もる。
 江戸においては決戦を回避すべく無血開城に向けて話が進んでいるという。お庭番衆が三百年守り続けた 堅固な城が、まもなく薩長によって土足で踏みにじられる。
 その場に恐らく自分はいない。命を呈して守れと言われるのなら、城と命運も共にできよう。 潔く剣も振るえよう。しかしただの顛末だけのために、この身を置きたくはない。
 どうして俺たちは動けないのかと蒼紫は思った。
 甲州を守れと命を発したその口で、江戸城においての無謀は一切まかりならんと押さえにかかる。官軍本隊 が江戸に迫る前に、急進派を遠ざける。戦いたい者は好きにしろ――との思惑がはっきりと見えた。
 各人の権限でどこまでも贖え。どこまでも落ちてゆけ。死に場所を探せ。恭順派の与り知らない場所で。 可能な限り江戸から離れた場所で。



 ハッと乾いた哂いが洩れた。



 ふと、街道付近に目と耳を凝らせば、新雪を踏みしめる音がする。遅れて、馬を走らせ近づく人影。
 蒼紫はサラリと小太刀を抜き放った。なぜかぞくりと肌が粟立つ。相手を認めるよりも先に殺気が襲い掛かった。
 間近で、間合いを取って馬が棹立ちになる。姿勢を低く取った蒼紫の上から纏わりつくような笑み。装束に見覚えはない。 だが、殺気と愚弄とがない交ぜになったような雰囲気には、既に馴染みがあった。
「おまえか。また妙な場所で再会したものだ」
 そして耳朶に残っているその声も。
「貴様何者だ」
「『甲陽鎮撫隊』に属する。甲府城城代駿河守さまに火急の用があって参った。おまえこそ、ここで一人ぽつんと 門番という訳でもあるまい。何をしている」
 男はひらりと馬から降りると、ジリと後ずさりする蒼紫に迫った。蒼紫は男の問いに答えない。間合いも一定 距離を置いた。
「幕臣は悉く出足が遅い」
「我が本隊が到着するのは明後日になろう。それを伝えに来た。遅れを詰りに待っていたのか。それとも俺を追ってきたか。 余程あの夜のことが忘れられないと見える」
「戯言を。貴様を追ってきたのではない。徳川家の行く末をこの目で見たかっただけだ」
「何とでも取り繕え。真白い雪に漆黒のおまえ。妙な高揚感で高笑いしそうだ」
 男は一歩踏み出す。それを嫌って後ろに飛びのいた。背後は大木。蒼紫が衝突した勢いで、頭上の積雪が 降り注いできた。その場を蹴って、雪ダルマになるのだけは避けた。そんな醜態晒そうものなら、この男に どう揶揄れるか知れたものではない。
 そんな蒼紫の胸中など知り尽くしているとでもいうふうに男は余裕の様相。時間軸が食い違うもどかしさに、 蒼紫は焦れた。
「なぜ、官軍よりも早く甲府城に着けなかった。明後日などと悠長な。手遅れになる」
「思いも寄らず官軍の動きは早かったようだな」
「貴様気づいているか。この敗戦はその積み重ねだ。思いも寄らず早かった、耐えられなかった、 寝返るとは思わなかった。援軍を出さないとは思わなかった。言い訳のみで己が立つとでも思っているのか!」
「俺に当たるな」
「貴様はただの駒か? 命ぜられるままに戦いに赴くのか? 何の憤りも思惟もなく剣を振るうのか?」



「ではおまえは何をした?」



 いっそ宥めるような物言いに蒼紫の思考が止まった。その隙に斉藤は刀を抜き払う。逃げた蒼紫の、長く尾を引く黒髪が ばっさりとその切っ先の餌食となった。切れ切れに舞う蒼紫の分身。真白い雪原の上に音もなく一房横たわった。
 男は愛おしいそうにそれを手にし、唇を寄せる。そして当たり前のように懐紙を取り出すと、懐にしまった。
 何をする――という蒼紫の叫びは飲み込まれる。唖然とその様を見守ってしまった。
 男の笑みは相変わらず蒼紫の感に触る。
「折角だから頂いていこう。遺髪のようで験が悪いか?」
「き、――」
「ここから先は文字通り死地への道行きだ。名も知らぬおまえの、こんな護符があるのも一興だろう? 弾除けの なるかも知れんな。あるいはもう一度おまえと見えるための手形としておこうか」
「一体何の余興だ。使命をなおざりにして愚行にかまけるか」
「無論、戯言さ。だがな、それくらい言ってなくては、寒くてやってられないじゃないか」
 つい――とろりとした艶を含んだ笑みに魅入られた。
 気勢が削がれ萎えた蒼紫に男は近づく。頬を両手で捕らえられ、大木に背を預け、舐めるような口付けが落ちてきた。
 雪の味がする冷たい唇だった。
 男の舌が蒼紫の唇を丹念になぞる。頬を沿って耳朶を掠めまた唇に舞い戻る。何度か繰り返された後も 無反応にされるがままだった蒼紫を、男は愛おしそうに抱き寄せた。ただ抱き寄せられた。
 暖を取るように。隙間をなくすように。そして、痛みを分かち合うように。
 寒さからというのは男の言い訳。
 では、自分は何と言ってこの醜態を取り繕う。
 朽ちる屋台骨を内から支え続け、足掻くことも許されずうち捨てられ、唯一無二の居場所すら追い出されようと している。それに反し、行動の総てが己のためと言い切るこの男には、拠りどころなど必要ない。
 その潔さと、憧憬と、過去への惜別に代えて、束の間の戯言に身を委ねる。足元から遅い来る寒気に 思考力が停滞したかも知れない。
 男の腕に抱かれながら、その熱を返しながら、心許なげな般若の姿を思い出していた。


――了






式尉さんだよ〜。原作読み返しても、かっこいいよ。何でいままで書かなかったんだろ、っていうくらい 好きだったんですよ、式尉さん。
蒼紫がいっぱい書けたんで、なんか一気に弾けてます。
髪フェチの斉藤が結構お気に入り。♪