なぜという問いかけが当然口についた。 「今宵大坂城を出奔いたす。護衛は、蒼紫、そなた一人となる。行く先は天保山じゃ。そこから海路江戸へ 戻る」 「上さま――」 「よいか。これからひと時も側を離れることまかりならん。身命を呈して予に仕えよ」 下された主命に疑念や反論を口にするなどいままでなかった。下された命にはただ従属のみ。 口を挟むなど立場上許されることでもない。 しかし遥か上座に座し、諦観し切った感のあるさっぱりとした主の物言いに、反復の余地のない 下地なのだと頭では理解できた。できたが拳は震えたままだ。 ――逃げるとは。 主家の御ためにいかなる惨い命にも顔色一つ変えず遂行してきた。罪ありと災いありと知れば、 女子供と容赦なく闇から闇へと葬った。 それがお庭番衆としての務めであり誇りでもあった。 絶対無二の存在のために守護する位置にあり続けた。三百諸侯の頂点に、未来永劫君臨するであろうと 思われたこの主のために。 だが、戦端が開かれたばかりのこの局面で、東照大権現以来の英傑と、薩長側も畏怖したという 主は、戦場でなおも死線を潜ることやぶさかではないと、息上がる兵士たちを置いて逃げると言う。 ならばなぜ、先ほど軍議の場で、戦況の不利を覆すために出馬を促す臣たちの前で、鼓舞するような 言葉を使った。家康依頼の御馬標を立てろと息巻いた。味方を欺き、その混乱に乗じて城を後にする。 このような策が存在するのか。これは裏切りではないか。 面を上げることも叶わず、蒼紫の肩はただ震えていた。 「上さま……」 「時流の風は予には冷たい」 腹心の一人として、寵を与えたこの年若いお頭から視線を逸らせたままで、慶喜は呟いた。そして 騒然と揺れる城内のどよめきに、五感を巡らせるような仕草は苦渋に満ちていた。 大政奉還からときを待たずして号令された王政復古。 明けて翌年は明治元年と年号が改められた。 その正月六日。夜も更けたこのとき、江戸城お庭番衆お頭、四乃森蒼紫は深く平伏したあと、慶喜の御前 を辞した。 襲い掛かる長州勢と一戦交えるために幕軍の主力が勢ぞろいした大坂城。 あすは御大将自らご出馬と城内は蜂の巣を突いたような喧騒の中、蒼紫は泳ぐように人波を掻き分けて 裏門へと進んだ。先ほどから思考は堂々巡りをしたままだ。 他に手立てはいくらだってある。 初戦は軍備力の差によることが敗因とだれもが認識している。兵力やその士気が薩長に劣るとも考えられず、 劣勢の主のために命を呈して盛り返そうと奔走し、文字どおり 死力を尽して臣たちは戦場を駆け回ってきた。 それなのに、なぜ。 ここ何代かの主はみなどこか腺病質であったり神経質であったり、なかなか後継にも恵まれないという 不幸が続いた。それに引き換え、水戸から迎えられた主は、体格も堂々とした美丈夫で、頭脳も時勢眼も 並みいる幕臣、あまたの諸侯にも及ぶ者がいないとさえ快哉された英邁な君。 臣下に対する心情の厚さも比べものにもならない。 若干十五でお庭番衆のお頭に抜擢され、初めて目通りが叶い、徳川のために尽力を――と、張りのある声を かけられたとき震えくるものが抑えられなかった。 このお方のためならば。 体中を駆け巡った歓喜と忠信が根底から瓦解する。 立っていられないほどに。 裏門で誰何する声に城下の見回りと短く答えて、蒼紫は城を出た。一際寒さが骨身に染みる夜だった。 足元一つ一つ薄氷を踏み割る音がする。軽装のまま城外へ出たことを後悔したが、異様に高まった 人いきれの中に身を置くよりはマシだろうと、あてもなくそぞろ歩いた。 月は中天に煌々と。この明け闇の中をかの人は海を目指すという。そしてどこへ行くというのだろう。 江戸に戻り何をなすと言うのだろう。その心情を推し量ろうとは、畏れ多いも甚だしいが、同胞を見捨てた 将帥には今後一切だれも心服したりはしない。 高度な政治手腕。 時局を視野にいれた英断。 それは裏切りと同じ基盤の上に成り立つものなのか。 出口を求めて渦巻く澱を開放するかのように、蒼紫は小太刀を抜き払い、大木に切っ先だけで文様の ような傷をつけてゆく。はらりと上空から舞い降りる木の葉一枚、執拗な殺気を放って切断した。 何度か剣を振るい、立ち位置を変えた蒼紫は、背後に佇み、じっと視線を送っていた 人影に素早く反応した。 次第に乾いてゆく心根に喉が痛いほどの冷気はかえってありがたかった。 ただ立ち尽くす人影に音もなく目睫まで迫り、少なからずともその人物は蒼紫の動きに一瞬虚をつかれたようだ。 瞬時に背後を取られ、後ろから首筋に小太刀を突きつけられ、その男は早くも降参の合図と、諸手を上げた。 「物騒なヤツだな。こちらは抜刀もしてないんだぜ。問答無用かよ」 顔を見合わせているわけでもないのに、なぜかニヤリと音を立てて男が哂った気がした。 「所属と名を名乗れ」 男は、背後の蒼紫の声が存外幼いことと、己よりも頭一つ低い小柄な様子に興味を惹かれたようだ。頚部を 狙われたまま、剛毅にも振り返ろうとした。すぐさま低い叱責が飛ぶ。 「動くな」 気負いのない冷静な声音に技術だけでなく、場数も相当踏んでいると推測できた。 「長州の間者とでも思ったか? それならば何も見とれていた相手に気取られるまで、ぼけっと突っ立ってない。 月がやけに澄んでいてあまりに美しかったから、忍び歩きなんぞを。そうするとおまえさんの綺麗な舞が 目に入ったという寸法だ。別に怪しい者じゃないさ」 男はクツクツと不快な笑みを漏らした。 眉を顰めた蒼紫の隙を狙って、男は背後に向けて両肘を繰り出した。蒼紫は後方へ飛び去る。そのまま地面を 蹴り、振り返った男目掛けて刃を繰り出した。男も抜き身を払って突きつけてくる。 左に回転して一撃目をかわし、その反動で男の肩先を狙った。 微かな手応え。 しかし瞬時に男の二撃目が繰り出される。 それは忍び装束の被布を掠め、蒼紫の鼻から下を覆っていた部分が顕わになった。それを認めて、男が ほうっと感嘆の声を上げる。 つくづく余裕の様子だ。 「これは、これは」 いまだ前髪も落としていない蒼紫の容貌に、恐れ入ったと僅かに目を丸くする男。 「若い若いと思ってはいたが、まだ子供じゃないか。しかし――これは、また」 蒼紫と相対して、子供だと小馬鹿にする者にはもう慣れた。哀れみすら感じない。 その認識も次の瞬間には改めさせる腕を持っているからだ。最も、改めるまでもなく絶命する者が ほとんどだったが。 それ以上に闇に浮かび上がる蒼紫の秀麗な容貌に、喉を鳴らす者の方が多かった。 稀有な色を放つ紫紺の瞳。削ぎ落とされた頬の線にかかる漆黒の髪。僅かに垣間見える肌は息を呑むほど 白い。その毅然とした立ち姿には性別を越えた清冽さがある。睨みつける視線の厳しさには震えがくるほどだ。 言葉なく純粋に美しいと思えた。 一歩近づく男の接近を許す蒼紫でもない。名乗りを上げない不届き者と、再び払った剣先は弧を描いて 襲い掛かった。 確かに手応え。 馴染みのある血の臭い。 だが、男はその一撃を体に受けながらも、蒼紫の懐に飛び込んできた。 野獣のような琥珀色の目をした男だった。 咄嗟に取ろうとした体術は体格の差から劣勢は否めない。渾身の一撃の拳はいとも簡単に受け止められた。 悔しそうに顔を歪めた蒼紫を認めて、男は心底嬉しそうに哂った。 「ふう、やっと捕まえた。冗談抜きで命がけだな」 そのまま足払いをかけられ、地面に押し倒された。後頭部直撃を避けようと男の腕は添えられた。 「さっさと止めをさせ」 「一思いにはせん。何のために痛い思いをして、捕らえたかわからんじゃないか」 「下種が」 その手の目的のために蒼紫に近づこうとする者はいままで何人もいた。だが、それを成そうとする不埒な 行動など、蒼紫は技で持って防いできた。このような体勢で上から視線を向けられるなど屈辱以外の 何物でもない。 「そう睨むな。だがおまえのその表情を拝めるのなら、傷の一つや二つ何ほどのことかと思える」 と、閨での睦言のようなことを平気で言う。 舌を噛み切るとでも思ったのか、男は蒼紫の唇をこじ開けるように指を入れてきた。その土混じりの 異物の進入に頭を振って拒絶する。逃げる顎を押さえつけられ、引き抜かれた指の変わりにもっと存在感の あるものが押し入れられた。 ざらりとしたぬめつく男の舌は、噛み切らんばかりの意思を持った蒼紫の歯列を割り、危険と察すると 去ってゆく。しかし塞がれた唇が離れることはなかった。 男の自在な舌は本能を呼び覚ませるかのように奔放に動く。反撃の機会を伺っていた腕から力を奪うまで。 蹴り上げようと好機を図っていた下肢に痺れを感じるまで。 「――ふっ、う……」 呼気を求めて僅かに洩れた己の声の浅ましさに、意識を戻した蒼紫は、調子をよくしていた男の わき腹を蹴り上げた。 「ぐふっ!」 息を乱している場合ではない。男を払いのけ、無理な体勢からその場を蹴った。 「惜しい。もう少しだったのにな」 衣服の汚れをパタパタと払い男も立ち上がる。そのさまから言葉どおりの悔しさは感じられない。 とことん、人を食った男だ。 「おい。そのままで大丈夫なのか? 寝付けなくなるぞ。何だったら手を貸してやる。遠慮は 無用だ」 「喧しい」 「睡眠不足であすの総攻撃は辛いだろう。何せ大樹公がお出ましになられるんだからな。体調は万全に 整えておく方かいい。この俺が健やかな夜を迎えさせてやる」 「いい気なものだな」 壮絶な笑みを浮かべて蒼紫は後ずさりした。 「どういう意味だ」 「あすにはその高慢な鼻もへし折られるだろう」 「あす?」 「貴様は何のために戦い、だれを守ろうとしている。主君のためか? その主君は何のために貴様に 戦えと命じる? 薩長に剣を振るう訳は何処にある! 何が大儀だ。何が忠国だ。みな己の邪心のため ではないか!」 「おまえには守るものがあるのか」 「ある。いや、あった」 「なるほどな。決戦を前にしてその意義を失ったか。哀れなと言ってやるのは簡単だが、生憎俺は俺のために 剣で切り開いてゆく。だからだれに裏切られることもないのさ」 こともなげに言い放つ男の、蒼紫のものとは違う矜持の高さに、自然と体が逃げを打った。 男の強い視線に耐えかねて、さらに一歩遠のいた。 「貴様の主義とやら、どこまで貫けるのか見物だ」 吐き捨てた言葉は最早、負け惜しみの色を含んでいる。ニヤリと満足気に笑みをつくった男を その場に捨て去るように、蒼紫は地面を蹴った。 あの不遜な男の視線が体に纏わりつく。 それを一蹴するかのように蒼紫の姿は闇に消えて行った。 |
え〜、原作設定といいながら、見事な捏造履歴なうえに、もはや、微エロとも言えないや。
(ひたすら平伏) この状況で襲われたらあまりにも蒼紫が可哀相で。(あはは) 色々と幕末関係の小説を読んでいるうちに、蒼紫の最後の任務って何だったんだろうって思ったんです。 大政奉還後すぐにお役御免ってわけでもないだろうし、将軍職を奉還しても慶喜はその後も徳川宗家 の宗主であったし。 お庭番衆が解体されたのは、やはり江戸城明け渡しのときなのかなとか、蒼紫はその後の幕臣たちの 戦いをどう見ていたのかなとか。想像は尽きません。 |