旦那さまは魔王?
りたーんズ

(8)こんなにも





 手塚家の客間が、足元も覚束なくグラリと歪む。辺りは耳が痛いほどの静寂に包まれ、異常な速度で 流れる空気の対流は五感で捉えたものではなかった。
 ひとなき者が作り上げた亜空間。密度と濃度が凝縮され、思念が捻られたそのフィールドは、少し息苦しく さえある。混じりけのない酸素だけを吸引しているように喉が乾きそして痛かった。
 だが、この結界の守護者たちは、優雅に飛翔しながら少し高みに位置し、彼らを見下ろしていた。



 創世神がつくりたもうたこの世でもっとも美しく残酷な伝道者たち。そしてその呪縛から逃ることをよしとはしない 高貴な御使いたちだった。
 艶然と余裕を見せて微笑むのはユキムラ。口を尖らせ敵愾心顕わなブン太。その少し背後で腕を組んで視線を隙なく めぐらせているのはニオウだった。
 確かに懐かしい面々だ。
 嘗ての御前天使の揃い踏みだ。
 ユキムラの白皙がどこから差し込むのか、青白い月の光を弾いたように浮かび上がっていた。 こんな場面にあっても、だからこそなのか、彼の凛とした美貌は揺るぎない。キリと音をたてた表情が、 己の信念のために置き去りにしたなにかを、もう振り返らないと言っているかのようだった。
 憎んでも憎みきれない感情は創世神の玉座の肘掛に置き去りにした。御前に傅き、生気を失った手の甲に服従の 証の接吻を押し付け、それは最早なんの思惟も感情も含まなくて、この場に立ち尽くす意味は職務だけでしかない。
 耳に心地いい魔王の低音は、それでもさざ波を生むけれど、毅然と面を上げ続けていれば、もう己を見失ったり はしない。もたれてもいいと言ってくれる仲間たちが背中を支えてくれる。言葉だけでなく、そんな事実に目を 瞑り続けていた日々をユキムラは、今更ながら惜しいと思い始めていた。
 ついと視線を下ろせば、まだあどけない横顔をさらすただ人の男。確かに人目を惹く美貌は稀有な存在では あるが、この男がいなくても、サナダは天界に戻らないだろう。リリスがいなくてもこの男とは袂を別ったのだろう。
 それだけがなぜか胸に落ちた。
 それでいいとただ思った。
 そんなユキムラの視線を受け止め、サナダは右手に鈍色の光を集め、使い慣れた剣を召喚した。
 月の光が粒となって軌跡を弾き、切っ先でくるりと円を描けばその文様は螺旋のように捻れて消える。 己に向けて一直線に突きたてられた剣先をただただ美しいとユキムラは思う。だれにも阿ない生き様が一点に 凝縮されているようだ。
 夥しい血を吸い既に魔剣と化したその刀身は魔そのものだった。
 サナダは腕に抱いていた手塚をコトリと横たえた。天使たちが作り上げた空間で、この周囲だけに 結界を張ることは出来る。危害が及ばないようにと気を張り詰めたサナダの袖を、堕ちていた筈の 手塚が掴んだ。
 覚束ない視線の先にある者たちを認めて瞳をそばめるが、予想されていた展開に取り乱したりはしない。 それほどこの状況に慣らされてしまった手塚がいた。少しの間封じ込めようとサナダは手塚の額に手を添える。 意識を奪ってしまった方が憂いはなかった。
「お前はそのまま寝ていろ」
「そういう訳にもいかない」
「返って動き辛いと言っている。天使共に囚われるのが厭ならおとなしくしているんだ」
 目の前でブワリと熱を孕んだサナダの掌を手塚はパチンと弾いた。己の与り知らないところで、総てを決定 されてしまうのは厭だとその瞳は語っていた。守られることを善しとしない頑迷さに、サナダは舌打ちを禁じ得ない。 足手まといだと言い放っても、結界内で大人しく固唾を飲んで見守るタマでもなかった。
「安心しろ。ヤツらに捕まるようなことになれば、迷うことなくこの身体を消滅させてやる」
 そう言うと手塚はサナダの右手に召喚された剣を奪った。バチリと火花を放ち、魔王の剣は一度手塚を拒否したが、 強く握りこむと諦めたように彼の手に馴染んできた。
 使いこなせるとも思えない大振りの剣を手に手塚は立ち上がる。それを認めたアカヤが小さく口笛を吹いた。 いいんですかと目で聞いてきたが、仕方ないと、サナダは小さく呪言を呟く。 出来上がったフィールドは内からは破れない。外からの攻撃に頼るしかなかった。天使たちには聞き取れない 魔族の言葉は場の綻びを見つけ出し、鎖の帯となって外へ漏れ出した。



 手塚の存在は天界の沽券に拘ると元老院は息巻いた。何代も、そして何千年もの時の編纂を重ね、汚点であり失策 であり、頭痛の種でもあったリリスが浄化されたからと言って、彼女が創世神に背いた事実は変わらない。
 だから――
 プログラムのリセットを、と。
 総ていちからやりなおせ。
 創世神から下された最重要使命。
 なんびと足りとも造反は許さない。
 魔王とリリスの身柄を拘束せよ。そしてその存在の抹殺を。
 あり難くも情けなくも、天地開闢以来、だれひとり造反などなかった事実がここに形成される。
 絶対者に対する疑念など教えてはならない。認めてもいけない。
 間違いなどなにひとつなく。
 絶対的且つ揺るぎない存在である創世神を頂く世界は、須らく迷いを持つ弱きものたちの支えとなろう。
 総てはひとのためにと。
 それは余りにも迷いがなさ過ぎるのだけれど、とユキムラは、
「もう一度聞く」
 最後通牒のように言葉を発した。
「創世神がお許しになると言えば、お前は天界に戻ってくるか?」
「否!」
 即断された返答に後ろに控えていたブン太とニオウから、隠しようのない殺気が立ち昇った。



 高く飛翔したブン太がサナダを捉えて剣を振り下ろした。咄嗟に手塚の前に出たアカヤにはニオウが立ち塞がる。 相手を射程距離に飛び込んでブン太は息を弾ませた。
「一度あんたと剣を合わせてみたかったんだ。あっちにいたときには、そんな機会なかったかんな」
 剣気の凄まじさと一直線にサナダへと挑みかかった迷いのなさに反し、ブン太の屈託のなさは目の前にぶら下げ られた玩具へと向う子供のそれだった。
 後にも先にも嘗て熾天使長の地位にあったこの男を越える剣士は 現れていないという。天界にとってはあり難くない伝説だけが一人歩きし、それだけに対峙するだけで 足元が揺らぐ程の歓喜に震える。おまえだけは俺がぶっ潰す。そう口にするとブン太は、地面を蹴った。
 二、三度討ちあってサナダはブン太の剣筋を見極める。軽快そうな外見に反して無駄な動きはない。それも サナダのバランスの崩れを見逃さないで討ちこんでくる。意外と目筋がいい。見切る目も持っている。だが、 それも恐らくスタミナ不足を補ううえで鍛え上げられた特性なのだろう。
 惜しいな、とサナダは哂った。
「余裕顔して哂ってんじゃねえよ。胸くそわりい」
「いまのおまえでは俺の足元にも及ばない。気の毒にと思っただけだ」
「んなこと分かってらい。俺はな、難しいことは考えないようにしてんだ。ただ好きなヤツの傍にいて、そいつを 守って、そんでその相手が極上なら言うことねえだろうが。そりゃ、叶わないだろさ。けどよ。黙ってやられる ような無様な真似はしねえ。腕の一本とでも心中してやるさ。覚悟しな」
「面白いヤツだな、おまえは。あたら死に急ぐほどのことでもあるまい」
「俺がいいっつってんだからそれで上等なんだよ!」
 そうかと呟いたサナダの情け容赦のない切り込みを皮一枚の位置で交わし、ブン太は左右にと折れる。その さまを見て取ってニオウが揶揄った。
「ブンちゃん、あんまり無理すんな。もう少し粘っとれ。すぐに助太刀に行ったるからの」
 アカヤと対峙したまま剣を構えることもなく、ニオウは得物を肩に担いだままでブン太の様子の方が気になるようだった。 相変わらず間が読めない人ッスね、とアカヤは舌なめずりをした。
「残念だけど、ブン太さんを助けにはいけないッスよ。俺が相手だからね」
「どこにおっても生意気なヤロウじゃの、おまえは」
 飄々としていたニオウの瞳に残虐な色が宿った。



 迷いのない世界でひとが救えるのだろうかとか、捏造された根幹になんの価値があるのかとか、それを達成 したあとになにが残るのだろうとか、両手に浮かび上がった波動のうねりで彼らを援護して、ユキムラはふと思う。
 救いを求める者の主語はいったいだれを指すのか。人か。本当に人には檻と鎖と創世神がもたらす救いが必要 なのか。必要であってほしいと願っているだけではないのか。
 天界に君臨し続ける者たちの存在理由。
 人がいつまでも弱く迷い続けなければ神は必要なくなる。
 歴史を捻じ曲げてまで謀反や自立がそれほど恐ろしいと感じているものは、ただ被保護者に縋ってその座に 居座り続ける。
 ユキムラの手にやるせなさだけが残った。
自分は高みから、けして懐に飛び込まない戦い方に嫌気が差して、ユキムラは掌の波動を収めると剣を片手に 手塚に踊りかかった。
 手塚の剣がそれを弾く。押し返された反動でユキムラは小さく後方に跳び、そのまま着地の足を軸にして もう一度斬りかかった。
「手塚サン!」
「おっと。よそ見してる余裕なんかない筈じゃ」
 三対三の攻防でどちらかが天使のひとりを倒さない限り手塚を助けにはゆけない。ニオウに言われるまでもなく、 アカヤは目の前の敵にだけ向う。いまはそれしか手はなかった。
 駆け引きが拮抗している二組と違い、力の差が歴然としているユキムラは息ひとつ乱さず、手塚は受け弾く だけになっていた。疲れさせて弄り殺しにでもしたいのか、それとも本気で捕縛を考えているのか、 なんとなくコイツと向かい合うのは疲れると、ユキムラは一気に雌雄を決しようとする。



 懐深く入り込んで、刃が共鳴しあい、間近で視線を交し合った。
 ユキムラがつけた頬の傷。さぞかしサナダは怒り狂っただろうと笑みが零れた。本当はこうする意味なんかとうの 昔に失っているから余計だ。
「たぶん、おまえは遅れをとってしまったことに苛ついているんだ」
 それを認めた手塚が分かったようなことを言う。だから、だから余計に腹がたった。大上段から振りかぶり 息をもつかせぬ突きと払いを続けた。それを防ぐ一方とはいえ、ただ人にしては体力がある。それは 認めてやろうとユキムラはうそぶいた。
「減らず口をたたいていると舌を噛むよ」
 それでも手塚は――あれほど自分で決めろと言ったじゃないかと、荒い息の下から途切れがちに告げる。囁かれたような 声はユキムラが知っているものに哀しいくらいに酷似していた。
「本当に分かったようなことを言う」
 コイツの真っ直ぐな瞳に己が映るのは堪らなく厭だ。真っ直ぐ過ぎて余りにも深く抉ってくるから、とユキムラは 少し目を背ける。しかし、続く手塚の言葉は容赦がなかった。
「おまえも、ただ愛したかったんだろう。あのときの俺のように。己の感情の赴くままただ正直に身を委ねたかった んだ。天使にとっての最大の禁忌が邪魔をして、その一歩が踏み出せない状態でまずリリスが刃向かった。そのあとをサナダ が追った。おまえの思いの深さだけが取り残されて、目の前から二人は去ってしまった」
「だからと言って君が偉い訳じゃない」
「そのとおりだ。己の感情に正直に生きた彼女が幸せだったという保障はない。少しずつ自分を失い、無謀を 重ね愛した人を裏切りその刃を身に受けた。その都度サナダに謝りたくて、それでも同じ轍を踏んで。 サナダの腕は間に合わなくて」
 覚えていた真実と、封印されていた記憶が一気に交じり合い、束の間リリスを知り、そして感じた。 手塚は掴んだ剣を水平に立ててその刀身に己の姿を映す。サナダの剣に、天使たちがつくった空間に、 だからここなら一度くらい姿を見せろよと願うが、それも叶わない。
 それでも、喩え後悔するようなことがあったとしても、満足だった筈だ。
 後悔の部分が彼女を時空の間で漂わさせ、だがどこか満足しているから身の消滅を受け入れて、さらに実体を 伴わずにだれかの身体をつうじて魔王を見守る。
 そうなんだろう、と呟いた。
 答えは返らない。
 手塚が見せた、放り投げたようにつくられた隙をつき、ユキムラの剣は一直線に彼の喉元を狙う。 哀しくなるくらい殺意だけが霧散していったのに、身体は反応し止まらなかった。
 憎しむべき相手を目の前にして、それでも変わらなく厭い続ける執念深さが己にあったのなら、さっさと天界を出奔して 魔王の後を追えただろう。それが出来なかったのだから、この存在だけを憎み続ける謂れはない。
 切っ先は鈍る。己の心情を際限なく映して、間違いなくぶれる。なのに止まらない。ヤメロと叫びそうになった そのとき――
 堅固な筈の結界が一気に歪み、巨大な亀裂が生じて濃縮された空気が弾けたように辺りに 散らばった。






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