旦那さまは魔王?
りたーんズ

(9)愛してる





 急激な衝撃を与えた細工の美しい玻璃のように、外からの僅かな亀裂でこんなにも簡単に破られる。
 これ以上のものはないと願い。
 それを信じて遂行して。
 この結界。
 なのにこんなにも脆い現実。
 まるで俺たちそのものじゃないかとユキムラは思った。



「――なに?」
 バラバラと結界が砕け散る。止まっていた流れが正確に時を刻み始め、清浄化されていた空間に季節を感じさせる一陣の風が 流れ込んでくる。
 月の光、集きだした虫の音。堰きとめられていた風がさやりと流れ、その拍子に日本家屋が家鳴りを上げる。
 視線を上げれば、ぽっかりと開いた亀裂の先に佇んでいたのはヤナギだった。
 先ほどサナダの口からまろび出た呪言が、魔界にいたヤナギに指令した。
 疾く、来よ、と。
「ヤナギさん!」
 そこに集う者たちの動きが束の間停止し、隙をみせたブン太の傍を離れたサナダが、手塚に向けられていた ユキムラの剣を弾いた。
「――!」
「間に合いましたか?」
「ギリギリだな」
「まったく我が王は人使いが荒くていらっしゃる。私があなたに忠実なフリに、実は飽いていたとしたら どうなさっておいでです?」
「おまえはあくまで、俺の影に隠れて画策するのが趣味なのだろう。取って代われないのではなく、取って 代わりたくはないのだ」
「よく理解しておいでだ」
 ヤナギの呟きにサナダはニヤリと笑みを落とす。そして無表情のまま剣を引いたユキムラと対峙した。 ユキムラの手には先ほどサナダから受けた衝撃がまだ残っている。その掌をじっと見つめ、そして彼は顔を 上げた。
「人間界の不浄な空気はお綺麗な天使たちには毒なのではないか。さっさと尻尾を巻いて逃げ出せ」
「ヤナギが加勢に入ったぐらいで、大きな顔をするなよ」
「では天界天使軍を総動員させるのだな。本気で俺を捕まえたくば、水面下でこそこそと動き回るような まどろっこしい真似は止めて、第二次天界戦争を勃発させる気で向かって来い。尤もあの老人にその気があるので あればの話だが」
「大事になるのを好まれない。慈悲の塊だからな。それにおまえを無傷で取り戻したいのだよ、きっと」
「ふん。物のどおりが分からない老人というものは、物心のつかぬ子供よりも始末が悪い」
 そう思わないか熾天使長、と全身黒に染め上げた地獄を統べる男は、白銀に彩られた御前天使を揶揄った。
「いったいいつになったら創世神は気づくのだ。唯一己のものだと公言できるのは、忠誠を誓ったごくひと握りの 天使だけだろう。世界中の総てのものを己が意のままになろうなどと、夢物語に過ぎぬということを」
「神に比などあろう筈がない。あの方を否定するという行為は、自分自身の首を絞めることに繋がる。 総てのもののオリジナル。利己的な愛も盲目的な憎しみも、そして果て無き欲求までもが全種族の頭上に君臨 する。残念ながら、産みまいらせし父母を否定したところで、己がうちに根付く細胞のひとつひとつに渡るまで 寝食された遺伝子を消し去ることなど出来ないのさ」
 おまえの方こそ、いつになったらその事実に目を向けられるんだい、とユキムラはふんわりと笑った。
「創世神がつくり給もうたあらゆる物たちの中で、おまえが一番あの方に似ているんじゃないか、地獄の王よ」
「確かにな。だが、納得できぬままに神の庇護の元で、何も不平も唱えず憤りを飲み込み、ぬくぬくと暮らして いては、いつまでたっても親離れできない訳だ。おまえはもう創世神の過ちを知っている。知っていて、目を 閉じ、考えないふりをするなど佞臣と呼ばれても文句が言えまい」
「きさま!」
 手を止めたブン太が魔王の侮蔑に憤って食ってかかる。それをニオウは押し止めた。なぜか――
「逆臣がぬけぬけと。魔族の分際で天使に説教するんじゃないよ」
 そう言い放つユキムラが嬉しそうだったからだ。
 思えば、魔王とはこんな会話もないままに別たれたのだから。
「おまえが不必要だと断ずるのは勝手だ。だがおまえにいらないものが他の者にとって必要ないと、なぜ言える?  人がどれほど己の中に確固たる信念を持っていたとしても、揺らいで神に縋りつきたい瞬間がある。それを 持たぬ者なら尚更だ。創世神を批判するのは易しい。しかしその地位を何千年も守り続けたことに僕たちは畏怖すべき なんだ。破壊することでしか、己の拠りどころを表現できなかったおまえには、到底理解できないだろうが」
「優等生らしい答えだ」
「事実だ」
 言い切ったあと睨み合うように立ち竦む二人に、知らず、手塚がポツリと告げた。



「ではユキムラ。おまえは? 信じていない者を守ろうとするおまえは何処へゆくんだ」



 当たり前のように手塚は言った。
 天界や創世神、そして人のことは放っておいて、おまえ自身の気持はどうなんだと 聞きたかったのだろうが、恐らくユキムラ本人にとって、手塚にだけは心配してもらいたくない筈だと、その場に いただれもがそう思った。
 その辺りの捻れた感情をまったく理解しないこの男は、ある意味最強なのかも知れない。珍しくも魔王の前で ユキムラが素直に心情を吐けただけに、横槍を入れたとも水を差したとも言える言動にブン太は睨みを 入れる。
 アカヤはいい感じになってただけに面白いと思った。チラリとユキムラの横顔を伺うと、やはり不機嫌そうな 表情に変わっている。さっきまでの艶やかな笑みは消えていた。
「おまえもそろそろ己を解き放て」
 スでそう言える遠慮のなさに、ユキムラの周囲が怒気で覆われるのを知らぬは当の手塚だけだろう。だが、 ユキムラもそうそう狼狽えてもいられない。
「僕なんかのために心配してくれてありがとう。でも、そういう訳にもいかない。だれにだってそれぞれの居場所 があるんだからね。いらぬお節介だ」
「本当におまえがいいと思っているのなら何も言わない。けれど何度会っても辛そうな顔で、無理やり己を 殺して俺を攻撃しているようにしか見えなかったから。到底、心底願ってではないような気がしていた」
「辛そうな顔をしていたのは君と会いたくなかったからだ。己を殺してなどと、僕と君とではなぶり殺しにしか ならないうえでの手加減だ。仮にも天使が格下の人間相手に嬉々として剣を振るっていては不味いだろう。それだけだ」
「一応情けをかけてくれたんだな」
「どうしてそういう話になる? いっそひと思いに殺してしまえばよかった。その頬の傷。君を斬りつけたのは この僕なんだ。忘れたのか?」
「でも外れた。コントロールが悪いわけでもないだろう」
「怒りのあまりに狙いが外れた可能性は否めないけどね。僕もまだまだ修練が足りない」
「俺もよくそう言われる」
「なんの話をしているんだ!」
「テニス」
 サナダ!――と苛立ちが沸点に達したユキムラは、的外れな男から視線を外して魔王の名を呼んだ。責任者出て来い と言ったところだろう。
「この男なんとかしろ!」
「無理な注文だ」
「バカバカしい。このまま放っておいたら、ありがとうぐらい礼を言いそうだぞ!」
「言うかもしれんな。だが俺に訴えられても困る」
 やっていられないとばかりにユキムラは背を向けた。魔王が言ったように人間界の空気がどうとかではなく、 天使が精神を集中して張った結界が破られたことによるダメージの方が大きかったことも所以する。
 ユキムラは重力を感じさせない動きで地を蹴った。ふわりと飛翔し、背を向けたままで首だけ動かし、 サナダではなく手塚を見下ろす。
「見目も性質もこんなに違うのに、君のこと、何千年たったって好きになれない」
 そういい残し、二人の同僚に行くよと声をかけてその場から消え失せた。



「ユキムラ!」
 その後を追ってブン太が彼の腕を掴む。任務無遂行だ。それよりもなぜあの場を後にする必要がある。 ヤナギの加勢があったとしても三対三のイーブン。向こうは手塚を守らなければならない分、動きだって 制限される筈。なにひとつ負けていないのに、ユキムラはまさに飽いたようにあの場を蹴った。
 もういいと言っているように見える。
「いいのかよユキムラ。このまま放っておいて。創世神にはなんて言い訳するつもりだ?」
「リリスは消えました。サナダは帰ってきません、でいいんじゃないか」
「本気かよ」
 ユキムラは己の腕を掴んでいるブン太の指先から肩先を辿り、その真摯な瞳に行き当たった。
 熱く強く温かく一直線に向けられたブン太の苛立ちに、だからこそユキムラの冷静さが戻る。いつまでも 彼にこんな表情ばかりさせている訳にはいかないじゃないか、と。
「あんなのはリリスじゃない。消滅以外のなにものでもないだろ? それに拘っている魔王如きに天界は揺るがないよ。 そう思わないか? 彼らのことは切捨て下さいと申しあげる」
「ユキムラ!」
 ブンちゃん、となおも縋ろうとする彼をニオウの腕が留める。くいと顔を杓ってユキムラの横顔を指し示す その先、ブン太が焦がれて止まなかったふっくらとしたな笑顔がある。ここ何年も封印されていたなにかを 取り戻したような、そしていらないものを削ぎ落としたかのようだった。
 つくりものじゃない、ほんものの。
 それが一体なにからの起因なのか分からない。会いたい者に会えたからか。会いたくない者を知ってしまった からなのか。そして膨らみ過ぎた思念が臨界に達し、錐で突いた極わずかな風穴から爆発して霧散した。
 ユキムラにしても答えられない。あの思いは消えることはないだろう。けれど、彼にはブン太たちがいる。 だれも寄せ付けない孤高のあの方とは違う。
 いつも彼らがいてくれる。それはいまに始まったことではなかったのに。
 今頃気づくなんて。
 トンとブン太の腕を振り切って高く飛翔したユキムラを見送り、どう返していいか分からずにただ口を パクパクさせていたブン太にニオウが言った。
 たぶん、と。
「ええのと違うか、ブン太」



「行っちゃいましたね」
 ポツリと告げたアカヤの言葉がその場に集っていた者たちに心情を表していた。彼は一体なんだったんだと続け、 ガシガシと髪をかきむしる。ヤナギは顎に手をあてたままうーんと彼らしくない声を出している。
「何千年も嫌われていたのか」
 と、黒の有翼人種とはまったく違った見解を持った男が、まったく別の視点から言葉を発した。どうやら、 ユキムラの捨て台詞を気にしているらしい。
「は?」
「ならば根が深い訳だ」
 えっと、と口籠もったのはアカヤ。おまえな、と呆れたのは地獄の王。第一声がそれかとヤナギは瞠目した。
「リリスを消滅させその上資質を受け継ぐ者として確保に向かえば、出てきたのはこんな理解の範疇を超えた 惚けたただの人間だった。天使どもは幻滅したのだろうよ」
「そうか。ならば俺のお陰だな」
「なに?」
「退散させるにはいろいろな方法があるということだ。力技だけでは切り抜けられない展開だってあるからな。 相手を肩すかしさせるのも立派な戦略だ」
「計算した訳でもあるまいに、エラソウにほざくな」
「事実だ。被害は最小限に留められたんだから」
「なんの解決にもなっていない。ヤツらが諦めるとは限らんのだぞ」
「そうか? ユキムラの目は、もういいと言っていたぞ」
「読み違えでないことを祈るんだな」
「機嫌が悪いな」
「おまえと話していると疲れる!」
 なにやら楽しそうに掛け合いをしている二人を横目に、ヤナギはアカヤに持ちかけた。このまま、この会話を 聞いている勇気があるかと。
「俺たちのこと目に入ってないって感じっすね」
「俺は、あまり認めたくはないからさっさと退散する。別にこの話し合いの結果に興味はないから、 おまえ残るならそうしろ。報告は必要ない」
「心境複雑っすね」
 ヒュっと掻き消えたヤナギの残像を目で追い、いま一度二人を振り返ってアカヤは肩を竦めた。好きなだけ やっていなさい、と彼もヤナギの後を追った。



 息苦しいほどの静寂が落ちた。
 ヤナギたちがいたときは平然と続けられた軽快な会話が、ふたりの気配が消えた 途端にどちらからともなく言葉を詰まらせた。そうなると目の前に横たわった問題に手を伸ばすことは白々しく さえ感じる。
 魔王と交わした契約を。
「そう言えば――」
 徐に伸ばされたサナダの指先に目をやって、肩すかしを食わせるように手塚は告げた。ワザとらしく狂わせた 調子などにサナダの思いを遮られることは叶わず、痛いほどに掴まれた腕から彼の胸に倒れこまされた。 それでも告げなくてはいけない。
「今更こんなことを言うのは卑怯だと分かっているのだが」
 サナダには、手塚の拒絶が手に取るように分かった。
「俺に助けられた訳ではないから契約違反にはならないと言いたいのだろう」
「そう言い切ってもいいかな、と――」
「結果論から言えば守ったことには違いなかろう。それともまた、潔く身体を投げ出すか? 次は気絶しようが 止めるつもりはない」
 サナダの腕の中で手塚が小さく身じろいだ。律儀な男は己の課した約束との間であぐねいている。ユキムラを 退散させたのは自分のお陰だと言い切った割には、総合的な見地から見極められる目を持った男だった。
 それでも――
「俺はお前とは行けない」
 全体重をサナダに預け、手塚は魔王の肩口辺りに言い切った。衣服に飲み込まれ少しくぐもった手塚の言葉は、 けして彼自体への拒絶ではないと思えた訳は、その吐息が秘やかなほどに甘かったからだろう。
 これもこいつの手かと思う。しかし魔王を躊躇わせるほどの存在は、間違いなく全世界を探してもこの男 だけなのだろう。
 切っ先が鈍ったとしか言えない。地獄の王ともある者が。そう思い、それでも手塚に負けないくらいの 甘い言葉を吐いたサナダだった。
「別に構わん。別居も珍しい形ではあるまい。それに、おまえを連れ去ることなどいつでも可能だ。 生憎俺には時間はたっぷりとある」
「いつ?」
「おまえが大切にしている、テニスとやらを失ったときというのはどうだ?」
「それでも厭だ。捨て去れないものが他にもある」
「我侭な嫁だ」
「だったらおまえが来い」
 手塚の顔はサナダの腕に押し付けられ、最後はよく聞き取れなかった。だが、普段は冷ややかな男の、 薄っすらと立ち昇る激情を読み違えるサナダではない。容赦なくかき抱き、耳朶の辺りに言葉を吹き付ける。
「ならばなおのこと、お前の身体中に魔王の妻という刻印を押してやる」



 ゆっくりと意識ごとサナダに攫われた。



 人は神と悪魔の間に浮遊する生き物だと昔の哲学者は言った。魔にも聖にも簡単に行き来できるという 意味だろう。だがこの腕の中の男は、違った意味で神を翻弄し悪魔を失墜させる。
 それをヒトと呼ぶなら、おまえはまさしく凝縮された存在だと、サナダはさらに深く埋没していった。



 おまえを離さない。







end










ハッピーエンドとは 到底言えないんですが、種族間の壁はなかなか越えられないということで、こうなりました。(スミマセン)
勢いで始めたにしては楽しくてついつい長くなり、ユッキーはともかく、大好きなぶんちゃんたちが中途半端で、 それが心残りかな。
たくさん出すと楽しいんですが、ひとりひとりを書き込むのに苦労するという。 でも、またオールキャストでパラレルなんか書いちゃうんですよ。
ほんとうに長い間お付合い頂きありがとうございました(感謝)