「いい加減にしないと風邪ひくぞ?」 そう、囁いただけで耳煩いほどに反響する創世神玉座の間。瞬時には目に慣れないほどの薄闇が広がっていた。 自室にいないのならそこしか考えられない。ブン太が重厚な扉を開け放つと、想像どおり周囲に同化し滲むような朧気な姿があった。 燃えさかる蛇と称される天界最高位の天使は、重責を一身に受けそれをことなげもなく全うし、それ故に さらに信頼という名の枷を負わされて疲弊しきっている。 天界広しといえど創世神の傍に侍る権利は、いま現在、熾天使長(セラフィム)であるユキムラにしか許されて いなかった。純粋な光の思考として神と直接に交われる者は彼しかなく、創世神の苛烈な精神波動と共振して 言葉となす。 創世神に至っては、それこそ年に一二度、全天使へ向けての言葉が下されるだけで、それ故に不調なのだとか既に身罷ら れたのだとかの噂が絶えないのも事実だった。その噂には必ず次の推測がついて回る。 すなわち、創世神は熾天使長の傀儡であるという邪推が。 バカじゃないのとブン太は呟いた。 暇人が束になって口さがないのは結構だが、故ない噂でユキムラを傷つけるは許さない。 本気でユキムラがそれを欲しているのならともかく、ただ手の内に残された己の存在理由を守るためだけに 生を紡いでいる男の望みは権力の掌中などではない。そんなことも分からないのかと、火の元を突き詰めて糾弾し、 場合によっては殴りつけてもユキムラは喜ばないのに、ただ苛立ちのはけ口を求めてブン太は彼を守る。 この儚げな佳人を守る手立ては、もう――それしか思いつかなかったから。 こんな――かそけき背を玉座に向け一心に祈りを捧げている男の、こんな触れただけで悲鳴を上げそうな 頑なな姿を一度でも目にしたものなら、心ない勘ぐりも一掃されるだろうに、それはこの男が許さない。 ギリギリの均衡で保たれた矜持と自尊心の安定を、綻びかけては修復する。その連続だった。 声をかけてもまたいつものふんわりとした笑顔を繕われるだけだと知っていても、俺たちがいるからと いつもその背を見守っていた。 コトリと音をたててブン太はいま一歩ユキムラに近づく。気づいているだろうに彼は背だけをブン太に与え 続けていた。 「創世神はなんか言葉をかけてくれたのかよ」 「なに? また小言を言いに来たの?」 少し青ざめた顔でユキムラは漸く振り返った。そんなふうに表情がなくなるまで祈って、捧げて、時間をかけて、 それで聞き届けられたことが一度でもあったのだろうかと、ブン太は思う。 それはユキムラの尊厳を揺さぶる。言葉にはしていけなかった疑問なのだけれど。 「そんなんじゃねえよ。お前の欲しがってたもんをあの人はくれたのかって話」 「祈りを叶えようと思えばそれ相当の代償と代価が必要になる。叶わないということは、僕の修練が足りない か身に過ぎた願いなのか、だ。創世神がおいそれと叶えてくださる訳がない。ただ縋るだけの者をあの方はお許しには ならない。ブン太は教義を忘れてしまったのかい?」 「お前ほど高位にありながら、真摯に理を究明する者を他には知らない。そんなお前の願いが聞き届けられないのなら、 信仰なんか虚しいだけだろい。そう思えてくるよ」 「哀しいことを言わないでくれ。僕はそれほど真面目でも無欲でもおキレイでもないよ。ブン太には悪いけど」 綺麗なんだよ、お前はと呟いて彼は途切れた問いを重ねた。 「で、創世神はなんて?」 ユキムラは、それこそブン太が泣きたくなるほど小さく哂った。 「……く。一刻も――」 「えっ?」 「疾く。一刻も、と」 「それだけ?」 「そう」 高邁で専横で残酷で無慈悲なほど手前勝手な持論を振りかざし、圧倒的なパルスで世界を手中に収めた 神とやらは、どれほどの愛情をもってしても己の欲求だけを謳歌する。欲しいものといらないものでしか、 世界は括れていないのだろうと絶望した。 増徴に過ぎると天使たちを地獄に落とし、人が増えすぎたと指一本で間引きの鉄槌を下す。自分で生み出して おきながら誰一人信用などするはずもなく、それでも血であり肉であり、父なのだと傍にあった。 ――サナダとリリスを。 それが老いた父の望みだと、きつく握られた手をユキムラはじっと見つめた。 親から愛を貰えなかった子供はどこへ向えばいいのだろう。与えただけの同等のものを得られないとき、 それでも愛し続けなければならないのでしょうか。 返らない言葉にもう期待はしない。それでも、 「僕はよく出来た息子だからね」 裏切れないんだよ、と立ち上がったユキムラは綺麗に微笑んでいた。 「ユキムラ!」 つい――自分より少し背の高い彼の体をブン太は抱きしめていた。薄い肉付きの身体は芯から冷え切り、血流すら 止まってしまったかのように鼓動すら遠い。分け与えようにも届かない。いっかな扉は開かない。 開けない。それでも俺が言うから。何度でも言うからとブン太は縋りついた。 「お前には俺たちがいる。絶対傍にいる。いつだってお前の味方だから。お前を守るから。毎日だって言う から。お前ひとりじゃないから。みんなお前のこと愛してるから! だから!」 ユキムラの肩口辺りに吐き捨てたブン太の言葉に、少し身じろいだ彼が隙間を開ける。そこになんだかふわりとした 温かいものが生まれたようでブン太は顔を上げた。 くしゃりと髪をかき回され、ただ、 「うん」 と、笑ったユキムラの顔がなんだかやけに滲んだように見えたブン太だった。 叶わない夢は、いっそ掌から零してしまおうか。 更に深く沈黙が落ちた手塚家の客間。 手塚が余りにも身を固くするものだから。 しつこいくらいにサナダの親指の腹が彼の下唇をなぞる。何度も何度もそうされているうちに、固く閉じて いた唇が僅かに隙間を開けた。当然のようにスルリとこじ開けられ、侵入を許し、頑なだった牙城が指で蹂躙される。 「あっ……」 反射的にガチリとそれに歯を当てた。血が滲むほどでもないのだろう。魔王の指は何ほどのこともなく口腔内 を撫で回す。 その手を突っぱねようと仰け反る白い喉元に目を細め、魔王はクツクツと満足そうな笑みを零した。 未練を裂いたように引き抜かれた指に変わり、手塚の唇に別のものが覆いかぶさった。逃げても逃げても何度も 押し当てられるサナダの乾いた唇に、次第に昂ぶった熱を否応なく分け与えられ、粘着質な物音を立てだした。 耳を覆っていまいたくなる。 漸く離れ酒臭いと訴えても、サナダはさらに煽られたかのように貪ってくる。頭の芯からの酩酊は間接的に 与えられた酒精のせいだと思い込むことにした。痺れもなにもかも慣れない日本酒が原因だと、手塚はトロリと 溶けそうな感覚を追い出そうと躍起になる。 しかし、更に先を希った舌の侵入を許し、口腔の中で当てもなく逃げ惑う内に互いに絡めあい、また何かが昇り来る。 かみ締めようとした歯列は、突っぱねてサナダの両肩を押した拳と同じようにそれを退けることは叶わず、 次第に湧き上がる抗い難い熱に煽られて、力をなくしていった。 頭の芯がズキズキと痛む。肌が粟立ち小刻みな振るえに精神の方がついてゆかない。己から水を向けておきなが ら見せる怯懦に苛立ちが募った。 こんなことをして何から何を救ってもらうつもりなのか。 何を守ろうとして何を失うつもりなのか。 誰を敵視して誰を信じているのか、もう分からない。 どちらのものとも計れない銀糸が頬から顎にまで流れてしまうのを、サナダがその長い指ですくった。 ユキムラに裂かれた傷の上を癒すようになぞる。原因は分かっているとばかりに往復した。 触れられるとまだ痛む。だが、それは遠い感覚でしかなかった。 だらりと下がった拳はサナダの両肩を降りて、ただ、ヤツの袖口を掴むしか手立てはない。 そこだけが辛うじて自我を保っていられるようだった。 「お前から煽った割には呆気ないな。これくらいで、そんな状態では先が思いやられる」 「や、かましい……」 口腔内を情け容赦なくうごめかれ、思うが侭に蹂躙され、初めて味わう欲情に眦から溢れるのは生理的な涙。 止めようとしても、ただ、嗚咽だけが漏れた。 「……ん――」 性欲に不慣れな身体はされるがままの口付けだけで熱を宿す。どこからやって来るのか分からない奔流に まず自我が蕩けた。痙攣にも似た体の震えが抑えられない。意識が飛びそうになる。ひとりの力だけでは指一本 正気を保っていられない。 己の寄って立つ場を守るために、魔族の王に身を任せるその矛盾。何の確証もない切り取られた記憶の断片 だけに縋る覚束なさ。 それは絶対的不利に立たされた試合に似ていた。 どんな強敵にも負ける気がしない。どんな相手にだって必ず綻びは生じ、試合中に一度や二度、その機会は訪れるし、 呼び込める。そうしていままで不敗を誇ってきた。 こんな状況にあってこの男のどこに光明を見出したのか。これが打開策だなんて笑わせる。こんな捨て鉢な 試合を放棄するような行為の中に行く先が見えるのか。 見えると信じているのか。 グラリグラリと足元を揺さぶられ。 それ以上に自ら進んでその先を請うてしまいそうになって。 なんとなく、それは厭だと。 手塚はサナダの顎に一度噛み付き、そして意識を失っていった。 ガクリと堕ちた手塚の全体重をサナダは片手で貰い受けた。痛みから意識が戻り、顎に手を当てると僅かに 血が滲んでいる。 いまはただの人間風情が、堕ちる前に本気で噛み付きやがった。 この俺に。 魔族の王に。 面白いと指についた血の跡をサナダは凝視する。それは鮮やかな軌跡だった。行為に気取られて隙を見せた 挙句、魔王が押すべき烙印をこの男から受けた。 その足掻きにしかならないただの抵抗には失笑するしかない。呆気なく意識を飛ばす癖に、簡単に翻弄され手に 堕ちる癖に、牙は失くさない潔さが心地いい。本能が成せる可能な限りの抗いに、何かが込み上げてきた。 手塚の、好き勝手に伸びた前髪が、閉じてしまった瞳以上にその表情を覆い隠す。空いた手で払おうとするが、 薄っすらと汗をかいた額に幾筋かが張り付いていた。 指先が止まる。 人のことは言えない。 サナダは自嘲気味に口の端を上げた。 己の掌も同様。もしくはそれ以上か。全身でその先を希っていたことは明白だった。 手塚とアカヤとの互い違いに発せられていた呼気と心音が、より深い静謐を形どる。 どこか遠くで車のタイヤが軋む音。コチコチと鳴る時計の秒針。網戸越しに伝わる風の音は気候と相まって 少し湿気を帯びていた。 片手だけで受けた存在の重みは、華奢であるにもかかわらず手にあまり、抱き続けるには踏ん切りを必要 とした。 躊躇いなど身体中のどこを探しても見つからない。欲すれば三千世界の総てが手中の筈だ。 それが。 そう言えば、この男にだけは初めからどこか腰が引けていた。 忘れ去った記憶の断片と、それを押しのける清冽さ。 リリスは何度生まれ変わってもリリスだった。だがこの男が、彼女が失ってしまったものまで明確に継承していた から狼狽えたのだと、知った。 知りえたことはただそれだけ。 ただそれだけだった。 不意にサナダが表情を引き締めた。聞こえていたアカヤの寝息も止まる。寝ぼけ眼ながら アカヤが顔を上げたのと、周囲の空気が浄化されたようにキンと冷え、歪な空間が出現したのはほとんど 同時だった。 「この家に結界を張らなかった訳は、そんなものを僕に見せるためか?」 ゆらりと佇む影が、乾いた言葉を投げかけた。逆光を受けて表情は窺い知れない。だが、剣呑な物言いに 反して殺気も怒気も感じられなかった。その総てを凌駕したなにか。影はそれを纏って間合いを詰める。 華奢なはずの輪郭がやけに大きく感じられた。 だから敢えて魔王は、 「お前の平常心が狂うならそれに越したことはないからな」 と言い放つ。どれほどのダメージも与えていないだろうと確信しながら。
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