旦那さまは魔王?
りたーんズ

(6)長閑にも……





「おー見事な呑みっぷりじゃ。嬉しいのぉ。さ、もっと呑め」
「恐れ入ります」
「晩酌の相手がおらんで淋しいひとり酒だった。息子はいつも帰りが遅いし、国光はあのとおりだし」
「あのとおりも、そのとおりも、未成年です。お相手が出来る筈がないでしょう」
「ほらな。聞いてのとおりじゃ。儂が十五の頃は一升瓶片手に友と語り合ったものだというに。まったく、近頃の若い者は 鋭気に欠ける」
「その分常識が足りてます!」



 手塚家の一室で上機嫌に客をもてなしているのは、背筋も立ち居振る舞いも挙措もかくしゃくとした手塚家当主、 手塚国一、御年七十二歳。
 夕食前に祖父へ目通りと許可だけは取っておかなければならないと、二人の魔族を連れて行ったところ、
「サナダと申します。暫くの間ご厄介になることをお許しいただきたい」
 と堅苦しい挨拶をキチンと正座して述べた男を、礼儀正しい漢だと祖父は手放しで褒めた。
 座している姿勢だけで相手の力量が読めるという。屈強さを全身で表しているような体躯も、 くつろいでいるように見えて隙のないさまも、そして、弛緩しているようで殺気を見せれば喰らいかかるような 研ぎ澄まされた視線も、まんま、祖父好みなのだ。
 線が一本真っ直ぐにとおっていると祖父は目を細める。
 実はこの男、魔王なのだそうですよ、と告げても、何事も一番である意気が宜しいと、また別の感心をする だけだろう。
 バカらしいから止めた。
「なにか道を究めておられるのか?」
「究めるというほどのことは何も」
 そうは見えん、と祖父は闊達に笑った。
 多分、柔道や合気道といった「道」を想定しての言葉なのだろう。「魔道」というものがあるのなら、これ以上 ないというくらいに究めた男なのだ。その辺りが祖父の琴線に触れ、珍しくも相好を崩している。
「ふむ。これはどうも手合わせをしたくなった」
「は?」
「剣を嗜む手かも知れんがの。体術も相当できると見た」
「お爺さま!」
 愛孫の制止には聞く耳持たず、国一翁はすっくと立ち上がると、きょう会ったばかりの客人を威嚇するかのように 睥睨する。そんな視線を浴びせられて魔族の王が引き下がれる筈もなかった。
「飯の前に一汗かこうではないか。そこの小僧も一緒に来られるがよい」
「えっ! 俺っすか?」
 まったくの他人事と聞き流していたアカヤが、突然指摘されて素っ頓狂な声を上げた。滅相もないと目の前で 片手をブンブンと振っている。
「緊迫した場面で相対してこそ、人の本質が垣間見れるというもの。興味の沸かぬ人間を知りたいとも 思わぬわ。手塚国一流の持て成しを受けられぬとでも申すのか?」
「え〜、そんな持て成しがどこの世界にあるって言うんスか? テヅカさん、止めてくださいよ。サナダさんは ともかく、俺、そんなに格闘系って得意じゃないし……」
「護衛すると言った割にはその程度なのか?」
 アカヤの一言に、聞き捨てならないと手塚の眉根が寄った。約束が違うじゃないか、と。
「国光の護衛だと? 見上げた根性をしておる! それは愉快だ。さっさと来い!」
「どうせならテヅカさんを仕込んであげて下さいよぉ。大事なお孫さんでしょ。俺なんか相手にすることないっすよ!」
「国光はダメだ。てにすとかいうもので肘を痛めてしまってから、腕を取られるのを心底嫌がる」
 流石の儂も孫には甘いという科白すら威張って見えた。
「だからって! サナダさんは強いッスよ! お爺さんの眼鏡に叶いますって。一人で十分でショ!」
 引きずられるように部屋から連れ出されるアカヤは――俺のことなんか分かったってしょうがないじゃん、と 諦め切れずにまだ叫び声を上げている。それを認めてサナダも立ち上がった。
 束の間手塚と視線が交差するが、なんの思惟も含んでいない。言葉にすると、仕方がないといったところか。
「国光が家に泊まらせようとした友人などいままでおらんかったからの。純粋な興味じゃ!」
 カッカッカッ、と全国を漫遊したという時代劇の主人公のような笑いが、いつまでも廊下に響いていた。



 祖父に相当しごかれたのだろう。折角の夕食の場で、アカヤの瞳は焦点を失い、まさに此岸と彼岸の間を流離っていた。 それに反して、ご機嫌丸出しの祖父とサシ向かいで晩酌の相手をしているサナダは、何事もなかったかのように 杯を傾けている。
 この男にだけ祖父が手心を加えた訳ではない。がっぷりと四つに組んで、ある種の異種格闘技の様相だった。
 宿題を終えてから向った祖父の聖域、道場には、既にアカヤが大の字で寝転がっていた。その場で祖父と サナダは、目に見えるような闘気と境目の分からない殺気の中で対峙していた。両名とも肩で荒い息を ついている。
 警視庁柔術師範のそんな姿をはじめて見た。強敵相手にも、己の倍ほど体重差のある相手にも、いなせる技を持っている 祖父だ。信じられないというふうに手塚は二人を止めた。いくら気負っているとは いえ高齢だ。水を差すなと一喝されたが、その場の雰囲気を読んで、先にサナダが礼を取ってくれた。そして そのまま祖父を引きずり出していまに至る。
「久し振りに骨のあるヤツに会った。いまどきの若い者も結構やりおる」
 自然、祖父の杯は早いピッチで重ねられる。そんな姿も初めてだった。
「自慢できるほど若くもないのですよ。ご老人よりも年輪を重ねているかも知れませんな」
「わっはっは! じょーくも切れがあるのぉ。で、どういったお仕事をなさっておられるのかな?」
「まぁ、とある団体の首魁と申しますか……」
「おー社長さんか。気骨溢れているのも頷ける。どうだ! ここで会ったも何かの縁。国光と義兄弟の契りでも 交わさんか!」
 手塚家の居間は一気に時代小説の世界へタイムスリップだ。祖父は気に入った相手には必ず、固めの杯とか 誓いの血判状とかをやりたがる。任侠だの梁山泊だの桃園の契りだのが大好きなのだ。時代がかりも甚だしいと、和え物の小鉢 を突いていた手塚は、絡みつくような視線を感じて箸を止めた。
「義兄弟は困りますな。既に二世を誓った仲ですから」
「おまえ……何を――」
「手が早い。しかし男はそれくらいでなくてはならん! よし! 責任を取れ! 国光を嫁にやる!」
「お爺さま!」
「ありがとうございます」
 いつもは静かな手塚家の晩餐が宴席のような狂騒ぶりだった。



「アカヤは早々にダウンしたのか」
 ゆったりと湯につかり、自室ではなく向った客間では、既に床が延べられていた。三つ並べた布団の端で、 アカヤは爆睡中だ。この状態で、天使たちが襲来して備えられるのかと疑いたくなるくらいに気持よさそう だった。
 視線を移せば、サナダは身体半分上掛けに収まり、うつ伏せのままで何か読書をしたまま吐き捨てた。
「たるんどるとしか言えん」
「お爺さまも気絶したようにお休みだ。満足そうだった」
 フン、と鼻白んだサナダはその口調に反して無表情でページをめくっている。
 パラリと。
 その音だけが室内に落ちた。
 湯上りの、射干玉色をさらに強くした髪をタオルでふき取りながら、手塚は沈黙が怖くて、囁くように 呟いた。
「お前は強いな」
「俺を誰だと思っている。魔界を統べる王だぞ。人間如きや臣下に遅れを取る筈がない」
 当然だと語尾を上げる男の横に、手塚はタオルを首に巻いたままで座した。
「お前は俺を守ってくれるのか」
 手塚の視線は一度流離ってまた戻り、男ではなく本の背表紙だけを見つめて続けた。
 どれほど矜持を保って敵に恫喝をかましても、防ぐ手立ては何もない。それだけで相手は引いてくれない。 というよりも、一層の苛虐性が増すだけじゃないか。
 守ってくれと。俺と家族と目に映る人たちをと魔族の王に頼むのも可笑しな話だった。
「なぜ、あいつたちが俺を狙うのかまだよく分からない。理由を説明されても理解できないと思う。 俺の世界の出来事とはかけ離れすぎているからじゃない。そんなこと、望まないからだ。勝手に決め付けて、 さも当然のように手を差し伸べる。その手際が気に入らない。何がいい話だ。どこがいい話しなんだ?」
「お前の持論からいけば、望めば天界へ攫われてもいいと言っているように聞こえるが?」
 核心をつかれ手塚の切れ長の瞳が少しふくらむ。怜悧な美貌の中であどけなさが勝つ瞬間だった。
 何度も思った。何度も振り返った。これはリリスではない。救ってやりたいと、共に天界から 逃げた女ではない。
 清浄化された空間でしか生きられなかった哀しい有翼種。創世神の手の内でしか保っていられなかった 清冽な魂は、地獄の瘴気に蝕まれて徐々に狂っていった。狂わせてしまった己の不手際がいまも苛む。
 贖罪から逃れられない。
 なのに一目見たときから、この存在に憑かれた己がいた。
 そう、地獄に落ちたあとのリリスではなく、天界にいたときの彼女そのものなのだ。
 これはリリスに対する二重の裏切りだ。



 目を奪われ、迷いに乗じて行く先を示唆し、手を取り抱きしめ総てに溺れた。その瞬間こそが彼女にとって 唯一の至福のときだったかも知れない。
 堕天は何に対する裏切りか。
 堕落したとしたら何を持っての言葉か。
 そして二人して奈落の底へ失墜する。
 その後は傷の舐め合いだった。
 いま、目の前にあるのは地獄に棲む者にとっては目に痛い存在。
 手に触れるだけで、また、この身に巣食う瘴気で狂わせてしまうのがオチだろう。
 それでも。
 それでもこれは俺のものだ、とサナダは上体を起こした。
「守るというのは少し意味が違う。己の所有物に手出しされるのが我慢ならんだけだ」
「俺がお前のものになると言ったのか?」
「さぁ、言ったかも知れんな」
「ふうん。まあいい。それで助けてくれたあと、お前は俺をどうするつもりなんだ」
「……」
「お前たちはこの世界の住人じゃない。どこかへ連れ去るというのなら、お前もあのユキムラと変わらないだろう。 俺はここで生まれてここから学校へ通い、ここに帰って来る。助けてくれた見返りにそれを要求する のであれば、助けてくれなくてもいい。助けてもらったあとで拒否するのは卑怯だろうから、先に言っておく」
「律儀なことを」
「それが俺の本心だ」
「それこそが卑怯な物言いだと思わんか。いずれにしてもいまの状態で、俺に選択の余地はない。天界へお前を やる訳にはいかないのであれば、守りとおすしかないだろう。その後のことはお前の方に選択の余地はない。 魔族に助けを請うのだからそれ相当の代価が必要となる」
「どうあっても地獄へ連れ去るというのか?」
 そうだな、とサナダは膝を進めて手塚の腕を取った。
 つらりとサナダは口の端を上げている。それがまともにぶつかって、訳も分からず肌が粟だった。



 手塚の男のものとは思えない華奢な体はすっぽりとサナダの両腕に収まった。肉付きも薄く、リリスのものよりも 衝動的なものはなにもない。だが、手を添えれば肌理の細かい滑らかな頬は、吸い付くようにサナダを誘った。
 何度も何度も頬と顎のラインを掌が行き来する。そこだけ面白いように熱が帯びる。息苦しそうに顔を 背けた手塚のそれをサナダは両手で固定した。
 伏せられた視線。慄き震える瞼に口付けをひとつ。そこから手塚の怯えが伝播した。湯上りの肌から立ち昇る 石鹸の香りが一層高くなる。
 それを俺の匂いで覆い尽してやろう。
 男相手に足元から遅い来る劣情の根幹もその行く先も、何も見えてこない。だが、手塚はそれを理解して 視線を上げた。
「お前の――意のままに、と言えば多少の代価にはなるのだろうか?」
 サナダは束の間、目を見張る。腕の一本斬り取られた方がマシだと思えるような屈辱を本当は分かっていない。 ただ、目を瞑ろうとしている。
 己が望まないからと天界の意思に背きながら、身体ひとつ差し出すことくらいなんでもないと告げている。 この男にとっての一番は、己の立っていられるこの場所を守り抜くことなのだ。
 天に背き魔に身を委ねる。
 やはりリリスの轍を踏んでいる。
「潔いことだ」
 それでもこれは俺のものだと、サナダは腕の中の存在をかき抱いた。






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