それは―― 生れ落ちたそのときから目の前に立ち塞がる壁のような存在。 絶対的な力と他を寄せ付けない圧倒的なカリスマ性。 思惟の違いからの裏切りはいったいどちらの罪か。 傅いていた日々が長ければ長いほど無為だったと思わせる。 だから。 だからこそ、俺がこの手で屠ってやる。 片手に脱力し切ったユキムラを抱え、二人はなんとか無事に天上界に帰りついた。悪かったと小さな謝辞の 言葉をかけ、ユキムラはブン太の腕から逃れて綺麗に背筋を伸ばす。ここで、この世界で、創世神のご在所で、熾天使長がブン太に 身体を預けている姿を晒す訳にはいかない。 逆に疲労しきってブン太がしゃがみ込む。肉体的にではなく、あの場に居合わせた精神的なものだ。 実のところ身体や術を攻しての対峙よりもずっと堪えた。 ずっと痛かった。 そのブン太よりも彼の方が直撃弾を喰らっている。 だが、大丈夫かと言葉を口に出しかけてブン太はそれを飲み込んだ。しゃんとしたユキムラの背はそれを拒んでいる ように見えたからだ。 こんな間近にあってブン太の気遣いすらも届かない。 届けられない。 矜持という名の拒否。 誰の腕も取らないとその背は語っていた。 気詰まりだった二人に、尻尾のように後ろ髪を長くした男が軽快な歩調で近づき救ってくれた。 「お帰り。ユキムラ、ブンちゃん。地上の様子はどうじゃった?」 「ニオウ!」 「なんや、ブンちゃん。こんなとこでへたり込んで。相変わらず体力ないの」 誘われるように二人ともが詰めていた息を吐き出した。その様子にニオウが眉根を寄せる。少し顔色が 悪いユキムラの、その表情を伺うブン太などらしくない。 そして、高々人間ひとりの捜索と監視に、この二人がここまで疲弊する理由が分からなかった。 「せや、ユキムラ。お疲れんとこ悪いけど創世神がお呼びじゃ。はよ、報告してきんしゃい」 「ああ。わざわざありがとう。ブン太。お疲れ。また後で」 「うん」 ゆっくりと宮殿に向うユキムラの背を見送って、空いたその間をニオウはわざとたっぷりと取った。 何があったと問い詰めても、天邪鬼なこの男から聞き出すにはかえって時間がかかる。忍耐力のない相手には 待ちで徹するか、変化球の方が効果があることをニオウは知っていた。 「なんだよ」 「別に。腰でも抜けたかの? 立たれへんのやったら手ぇ貸そか?」 「いらねえよ、このバカ」 「機嫌悪いな。出掛けるときはあんなに元気やったろに。 テヅカって人間に手けぇ焼くとも思えんけど。それともスゴイ妖力の持ち主やったとか?」 ついと差し出されたニオウの手に、ブン太は素直にすがった。 「未知なる能力は秘めてるかもしんねえけど、テヅカに特筆すべきもんは何もない。ただの中学生だ。けど……」 「けど?」 「魔界のやつ等、既にテヅカを包囲してやがった。対応早いよ」 へえと相槌を打ってブン太を引き上げようとするが、敷石の上に体育座りしている男は立ち上がろうとしない。 片手を引かれたまま、両膝の上に重そうに頭を乗っけたままだった。 「ニオウ。俺、久し振りにアカヤに会ったよ」 「ふうん」 「楽しそうに魔族やってやがった」 「やろうな」 「おまけにサナダにも」 「そうか」 それでブンちゃんはユキムラが心配なんか、とニオウはしゃがみ込んで彼の柔らかい髪を撫でた。 嘗て熾天使長の地位にあったあの男が創世神に叛旗を翻したあのとき、天界と全天使たちは文字通り混乱を 極めた。 収束させるために奔走したユキムラが、どれほど苦しんでどれほど己の情を置き去りにしていたかを、 ブン太やニオウなどの上級天使たちは痛ましい思いで見守っていた。 天界の、そして創世神のためではなく、己のために即日の平穏を取り戻す必要があったのだと知っていた。 綺麗な笑みを絶やさなかったユキムラを見てそう感じた。 ――創世神じゃなくてお前についてく ブン太などそう言い切ったくらいだ。 だからブン太はユキムラの想いを優先する。ユキムラが大事だからと。 「でも、でも、いつまでたったって、ユキムラにとってサナダは特別なんだ!」 「そればっかりはどうしようもないの。アイツ自身の問題じゃ」 「ユキムラを支えてやってくれ。このまんまじゃアイツ壊れちまう!」 それはちいと難しいの、とニオウはユキムラを飲み込んだ宮殿を見つめていた。 夕暮れなずむ帰り道、どこまでついて来るんだと問えば、相手は、 「あなたの行く先、喩え火の中水の中、天地がひっくり返ろうが、槍が降ろうがぴったりと付き添わせて貰い ますよ。離れちゃったら護衛の意味ないっしょ」 と、人の迷惑など顧みない時代がかった返事が返ってきた。手塚はあからさまに大きく嘆息をつく。その 嫌味ったらしい態度もこの男には届かないのだろう。 「どこまでもと言っても、後は家に帰るだけだから引き取ってもらって構わないのだが」 「青春してませんね、テヅカさん。学校と家との往復だけなんスか? イマドキの小学生だってもう少し 彩りがありますよ? 護衛する身としては好都合だけどさ」 「大きなお世話だ」 とにかく、ここでいいと言ってもご自宅を襲われたらどうするんですかと詰め寄られ、ご家族に迷惑 と心配をかけてもいいんですかと脅迫されて、アカヤを家まで連れ帰ってしまった。 母になんと説明しよう。見た目には同年代に見えなくもないし、と適当な言い訳を考えあぐねいている 間に開けた玄関の扉の先、待ちかねたように母は佇んでいた。 「お帰りなさい、国光、お客さまよ」 「客? 部のメンバーではなくて?」 「ええ、青学の子じゃないわ。出かけてますって言ったら、帰るまで待つって仰るから客間にね、お通し してますよ」 「他校生でしょうか?」 「どうかしら。凄く落ち着いた方だったわよ。とても中学生には見えなかったけど」 「あ、俺ヤな予感がしてきた」 「えっ?」 「あら。そちらは?」 「どうも初めましてアカヤっていいます。テヅカさんの護衛してます ♪」 アカヤは相変わらず軽快だがこのご時世、ふつう母親がそれを聞いて平静でいられる筈がない。 「護衛って?」 「いや、これには――訳があって……」 「何か危険な目に合っているの、国光? 怪我しているじゃない。本当にそうならお友達に迷惑をかけるよりも 警察にお任せした方が。お爺さまにお願いしてみましょうか?」 警察官相手に柔術師範をしている祖父に話が通ろうものなら、電話一本で教え子たちを総動員し、国賓クラスの 警戒網を敷いてくるだろう。 そんな大げさなことにだけはしたくないし、しかも国家権力と数を頼みにしても敵う相手ではない。 手塚はブンブンと頭を振った。 「護衛というのは言葉のアヤです。そう、他府県から友人でして、都大会の偵察っていうか、じつは、大石、いや、 不二、じゃなくて他の部員の家で面倒をみるつもりだったんですが、具合が悪くなったとかで……」 行き当たりばったりの苦し紛れの言い訳で、しかも常から泰全としている息子の滑舌が悪いのだから、 怪しんで当然なのだが、そこは日頃の行いがものを言う。テニス協会と教育委員会も一目置く、絶対的優等生の申し出を母は 破顔して承諾してくれた。 「まあ。そうだったの」 「すみません」 申し訳なく思ったのは、けして暇ではない母の手を煩わせるとかではなく、仕方ないとは言えついてしまった 嘘。手塚はもう一度小さく謝った。 「いいのよ。何のおもてなしもできませんけど、ゆっくりしていってくださいね。じゃあ、あの方はコーチか なにか?」 「は?」 「男の子が増えてお爺さまが喜ぶわ。あとでご挨拶に行ってあげてね。国光の部屋は小さいから客間を使いなさい。 あなたも一緒にそこで休むといいわ。都大会って来週だったかしら? あら。それまで学校は大丈夫なの?」 家族に心配をかけまいとしてついた嘘だ。最後までつき通さなければならないのだが、不意をつかれて、えっと、 と口籠もった二人を追い越すような声がかかった。 「ご心配頂き痛みいります。それほどお時間は取らせません。恐らく二、三日で収束させて見せます」 堂々とした体格の男が玄関から続く廊下に立っていた。耳元で聞こえたのはアカヤの『やっぱり』という 諦めに似た声。アカヤの知り合いということは、この男も人に非らざる者たちと同列なのだろう。 その男からの視線を真っ直ぐ受け、手塚の内部でなにかが燻った。 なんだろう。声だろうか。厳しく射すくめるような視線か姿か、その総てか。 なぜだろう。この男を知っているというより、待っていたと思えたのは。 確固たるものは何もなく、見ず知らずの男にそう感じた。 なぜ待っていたなどと。 母の手前、お前は誰だとは聞けなかった。今晩のお夕飯は楽しみにしていてねと言って、買い物にでかける 母の背を見送って、玄関先で立ち尽くしたまま、手塚は男と向き合った。 男と手塚。二人の間に横たわる空間が、表通りの遠い喧騒と捩れて歪な形を成していた。頭の中が 鬱蒼としたモヤに覆われて、どういった言葉を選んで相手に問えばいいのか分からなくさせている。 足元すらグラリと揺らぐ。またしても既視感だ。 この男にはいつも疑問符を投げかけてきたような気がする。 「お前は誰だ。お前など会ったこともない。なのにどうして待っていたと思うんだ」 解放されたように手塚が一気にまくし立てると、男の厳しく引き結ばれた口元が束の間綻んだように見えた。 「当然だ。離れていること自体が不自然な間柄なのだからな」 「間柄? 遠い親戚かなにかか?」 「なぜそうなる」 「では、生き別れの兄弟か?」 「……遺伝子を舐めとるのか? お前と俺に同じDNAが流れているとはだれも思わんぞ、ふつう」 「腹違いなど、あの父の性格からして考えられないが――」 「血縁から離れられんのか!」 「他校の指導者では、ないな」 「当たり前だ」 「だったら何者なんだ」 「魔界の王にしてお前の旦那だ!」 どうだ参ったか、と相手は胸を張ってなぜかエラそうだった。手塚にしてみればふうんという感想しか出てこない。 「そうなのか?」 「なぜこの答えで納得するんだ、お前は!」 「何を怒っているんだ? 事実なんだろ。分かったよ。こういう展開にも慣れてきたし」 「いい若い者が黄昏るな!」 アカヤは頬の筋肉が痙攣するのを抑えられなかった。 ポーカーフェイスは崩さずに、ポイントのズレた問いかけをしてくる相手になぜか魔王は楽しんでいるように見える。 怒りながらも丁寧に受け答えしている姿などあり得ない。 リリスであってリリスでない男に執着する理由などない筈なのにと、アカヤは二人の様子を下から睨め上げていた。 嘗て魔王の妻であったリリスは、肉体の消滅と共に核であるプリマ・マテリアを分離させ、何代もの依代を変遷させて 手塚に行き当たった。 そしてその形跡はこの男で途絶えてしまっている。 リリスの記憶だけが残っていると言ったのは魔王。テヅカは凝縮させたリリスそのものだ、とユキムラが称したことを知らないアカヤ だったが、そもそも死すら簡単に叶えられない魔族である彼女が、なぜ消滅してしまったのだろうか。 口で言う程あの淫婦に興味がなかったから、いつの間にか消えていたいう認識しかアカヤにはない。 魔王の妻を死に至らしめることが出来る者は限られている。 彼女を創生した者。 彼女より上位の天使たち。 そして彼女の夫であった魔族の王。 魔王が天界を出奔したあのときを除いて、天使たちとの抗争は途絶えている筈だ。 何千年も彼女を追い求めてきたこの男こそ、そうなのだろうかとアカヤは思った。
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