旦那さまは魔王?
りたーんズ

(4)触れた!





 かけがえのない大切な人たちだから、チームの仲間を守るにはどうすればいいのか、それだけを 考えていた。



「ユキムラ、さっきあのテヅカってガキ、本気で殺そうとしたろ」
 引き千切るようにその場を離脱し、空間の間に浮いたままで、ブン太は不機嫌な相棒の背に語りかけた。
 温厚で人当たりがよく慈愛に満ち溢れ、創世神の寵愛を一身に受けた御前天使筆頭。いつの世も最高の 賛辞と羨望は彼のものだった。愛の精霊の名に恥じない物腰が、ただ一点あの忌まわしき称号を与えられた者たち に関してのみ掻き乱される。
 その事実を知っている者はごく僅かだ。
「生殺与奪権は僕に委ねられている。なびかぬ場合は抹殺も已むなし、だろ。創世神はそう仰った。当然の判断だ と思うけど。ブン太に咎められる謂われはないよ」
 ユキムラはニコリと心にもない穏やかな笑みを落とす。その薄ら寒くなる笑顔は嫌いだと、ブン太はピシッと 彼を指差した。
「最初から殺す気だった。最初から連れ帰るつもりなんかなかった。俺はそう言ってんの」
「ブン太。聞いていて分からなかったのか? あれが説得に応じるとは思えないじゃない。それに言っただろ。 リリスを消滅させてなお、凝縮させたような魂。反逆者の血が脈々と流れているんだ。時間の無駄じゃないか」
「それはお前が判断していいことじゃねだろ。創世神がお決めになることだ」
「創世神もどうかしているよ」
「ユキムラ!」
 はっきりと言葉にして口籠もる。ユキムラは少し辺りを伺いながら長い嘆息をついた。
「天界最大の汚点など早く忘れてしまえばいい。裏切られた事実をいつまでも覚えているから、こんな目詰まりを 起こすような発想が出てくるんだ。いいじゃないか。あんな裏切り者がいたって。それに追随する天使が 出たって、それ以上に僕たちは忠誠を誓ってお傍に侍る。それだけじゃ満足しないとでも仰るのか」
「落ち着けよ!」
「落ち着けだって! ブン太に僕の気持なんか分からない! 許せないよ。どうして彼らなんだ!」
「バカヤロ。お前らしくもねえ、筒抜けだぞ! 不穏当な発言は慎めって!」
「僕らしさって何だ。誰もが認める優等生が創世神批判。でも、その方が我が主の覚えもめでたいかも知れないよ。 魔王とリリス。あの二人に対しては未だに反抗程度の認識で、迷える幼気な子羊に手を差し伸べようとは、 強欲な話だと思わないか?  最初に寵愛を傾けた魔王だから可愛いのか、手のかかる子供だから目が曇るのか。 試してみる価値はあるかもね」
 二代に渡って御前天使が、叛旗を翻しでもしたら、少しは目を醒まされるかも知れないとうそぶくユキムラの 襟首をブン太は捻り上げた。
「その名をここで口にするな!」
 それに――と、彼は腹の底に響くような声を出す。
「お前があの男に裏切られた瑕を創世神なみに覚えていたとしても、今度はその痛みを俺たちに与えるのかよ。 置き去りにされる哀しみを知ってるお前が、する側に回るのかよ。俺たちが何人いたって、あの男の代わりには ならないっつうのかよ」
「ブン太……」
「それこそがお前らしくないって俺は言ってんの」
 悪かったとユキムラが囁くより早く、耳朶の最奥で覚えている声が彼らに覆いかぶさってきた。



「あの男、あの男と、そう連呼するな」



 天界とのゲートを開こうとしていた彼らのその僅かな隙に、黒い影が目の端に映り、臨戦態勢を取るが 接近を許してしまった。そのモノに腕を取られたユキムラは、宙に浮いたままで凍りついた。
 ブン太が毛並みを逆立てて威嚇する。いつだってマイペースを崩さない彼の余地のなさがユキムラに伝播した。
「――!」
 怯えではなく、けれど困惑と呼ぶには余りにも激しい震えが、己の腕に噛み付くような指先を辿り、その人物へと 視線を移すことを拒絶している。
 耳鳴りがする。鼓動が耳に煩い。酷い痛みと同等の歓喜が足元から襲い来る。
 手の届く位置にそれはある。もう二度と触れることなど叶わないと、諦めた指先がそこにある。染み付いてしま っているのか地獄の瘴気。それでもこの男の匂いは覚えていた。
 ユキムラは努めてゆっくりと視線を上げる。
「お前か、魔王」
「久し振りだな」
「呼んだ覚えはないけどね」
 サナダと、呟いたブン太が近づくのを手で制し、その手をどけろとユキムラは顎を上げる。この男に隙を見せては 総てを持っていかれる。御前天使としてそれだけは避けなければならない。
 それは何を差し置いても保たねばならない矜持。そしてそれが彼自身の存在理由。
 この男はれっきとした反逆者だ。
 何の用だと絞り出す声が震えていないか、ユキムラはそれだけに腐心した。
「天界は、創世神はテヅカに何をしようとしている。リリスが消滅してしまったいまになって、なぜあれが 必要なんだ」
「そんなこと僕が答えるとでも思っているのか。昔のよしみを引っ張り出して懐柔できるとでも?  随分と安く見られたものだな」
「大体の想像はついているがな。可能であるならば確認したかっただけだ。それと――」
 久し振りにお前に会ってみたかった、と蕩けるような笑みがユキムラを包んだ。
 彼は身構える。この程度の揺さぶりで掻き乱されるようなら、あのとき生木を裂くように袂を別つことなど なかったのだから。
「心にもないことを」
「そうでもないさ」
「あの男の守護者となるために、お前までも地獄のアナグラから出向か。いつから魔族は人間の番犬に成り下がった んだ? 地に落ちたものだな」
「番犬? ふん。己のものを横から掠めようとする不届き者がいるのだ。当然だろう。俺はアレを誰かと 共有するほど懐が深くはない。それだけのことだ」
 しれっと睦言を言って憚らない男にチリチリとどこかが焦げる。それすら男の手口だと分かっていても、 毛穴が開くほどの苛立ちが体内を駆け巡る。その根源を睨みつけることでしかバランスを保てない己に、 呪いの言葉を吐き捨てたいとさえ思った。
「お前には失望したよ、魔王。崇高な理念に基づいての堕天と思いきや、所詮は恋情がらみ。それをいまも 引きずって、あの女のためにご出陣とは、お前に付き従った魔族たちに同情したい気分だ」
「誰も付き従ってなどいない。己の欲望のあるがままにそれぞれが行動したまでのことだ。俺のひととなりに 心服した訳ではないと豪語した輩もいたな、そう言えば」
「アカヤ辺りが口にしそうだ」
「よく分かるな」
「アイツとは短い付き合いではない」
「そうだな。俺とお前もな」
 と、強く引かれサナダの腕がユキムラの腰に回る。その慣れた仕草に抗議の声よりも先に、体中を駆け巡る 電流の衝撃にユキムラは声を失った。



「お前の身体はまだ俺を覚えているのか」



 間近でそう囁かれ、全身が覚えていると叫び声を上げる。けれどこの腕に身を預け睦言に蕩けた日々は、 もう数えることも出来ないほどの遠い過去だ。
 取り戻すことは出来ない。
 先に後ろを見せたのはこの男。
 置き去りにされ、裏切りを知り、それでも顔を上げて立ち上がり、熾天使長と称されるまでに幾年の歳月を必要と したかこの男には分からないだろう。
 恨みと同等の恋情。痛みに駆逐されてしまう慕情。
 この先何年苛まれ続けなければならない。
 これは俺の渇望が見せたまやかしだと、ユキムラの手はサナダの頬をはり飛ばしていた。
 パシンという高い音にサナダが気を取られた隙に、ユキムラは腕の中から抜け出した。
 身体に残った温もりが火照りへの予兆を知らせてくる。長く囚われてしまっては、総てが脆くも崩れ去る。
 ひとつひとつ手探りで昇りつめて来た階段は、後ろを振り返れば下が見えないほど長く続いている。それほどに 長い年月だった。
「地獄の瘴気に塗れた手で僕に触れるな。本来ならば同じ空気を吸うことさえもおこがましい。 熾天使長たる僕と接したければ、創世神に膝を折って禊を済ませてからにしろ。尤も、お前が清浄化されるには 気の遠くなるような時間が必要だろう、地獄の王よ」
「随分と高飛車に出たものだ。昔はあんなに従順だったのにな」
「反逆者たるお前がそれを期待するのも傲慢な話だ。ときの流れは人を変える。 それに先に変わったのはお前の方だろう。敵対する者に一片の情けをかけるほど僕たちは甘くはない」
「そうか。それでも本質はなかなか変わらぬものだよ」
 お前は相変わらず儚げで美しい、という言葉を厭って、ユキムラは更に高く飛翔してサナダから離れた。
 聞いていられない。特にお前の口からそれを言うなと叫びだしかけたとき、ブン太の腕がそれを止めた。 間近にいて腕を取ったブン太だから気がついた。
 ユキムラが小刻みに震えていることを。
「孤高を気取っていられるのもいまのうちだ、魔王。何れ餌を眼前にぶら下げられて、お前が忌み嫌った 創世神の前に跪くしかない。お前の腐ったその舌も、創世神を褒め称える言葉しか紡げなくなるんだ!」
「餌?」
 ブン太は小さく舌打ちし、ユキムラの腕を引いたままさらに高く飛翔し、強引に天界とのゲートを押し開いた。 このままこの場に留まっても、傷つき壊れるのはユキムラの方だ。それほどいまの彼はバランスを失っている。
 それでもユキムラはいいと言うのだろうか。けれどブン太にはそれが許せない。
「帰るぞ!」
「ブン太――」
「無駄な時間をかけ過ぎたってえの!」
 ブン太はサナダを見下ろす。
 サナダはただ見上げる。
 煮えたぎる。
 行き場のない怒りがこみ上げる。
 ユキムラが怒れない分、哀しむしか手立てがない分、それはさらに増幅されたようだった。
 口の端を上げたまま二人の姿を見送るサナダを、ブン太はゲートが消滅するまで睨みつけていた。



「ちっ、逃げられたか」
 さして無念そうでもないサナダの背後からヤナギが姿を現した。常から表情ひとつ変えない男が小さく哂って いる。
「なんだ?」
「いえ、あなたにタラシの才能があるとは思いませんでしたから」
「ふん。お前に覗き見の趣味があったことも初めて知ったぞ」
「ユキムラも可哀相に。さぞかし今夜の一人寝は堪えるでしょうね」
「下世話な表現をどこで覚えてきたんだ」
「アカヤを真似てみました」
「お前までも世俗に塗れてどうするのだ」
「あなたの色じかけよりはマシだと思われますが」
 どこまでも冷静で相互理解を得られない会話を打ち切って、サナダは腕を組んだ。
「ユキムラは面白いことを言ったな」
「そう、餌と」
 サナダはヤナギの視線を外してあらぬ方向へと漂わせた。不穏な風が通り過ぎ、それがかえって肌に纏わり つくようで居心地が悪い。
 天使たちにとって、魔族が纏う地獄の瘴気は身体を蝕むらしいが、彼らから言わせればそれはお互いさまだ。 己のためだけではない。迷える子羊たちへの施しと、本気で信じているヤツらの放つ傲慢な空気の方が 余程心身に悪い。
 それも相互理解を得られる話ではないが。
「彼で釣ってあなたを跪かせる、か。気の遠くなるような年月を経て、子の過ちには目を瞑ってやろうと いう親心でしょうか。どうもはた迷惑なほど激しい愛に包まれていますね」
「情け深くて涙が出そうだ。いかにも強欲な創世神らしい」
「永の親不孝をお許し下さいと、舌をかまないで言えるように練習でもしておきますか」
「そういう状況も愉快かも知れん」
 しかし、とサナダはゆっくりと辺りを見回す。そして心底楽しそうに呟いた。
「ならばなおこのと、アイツをくれてやる訳にはいかんな」






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