氷帝公邸前に陣取っていた小隊と合流した手塚たちは、彼らに守られ城市からの脱出を果たした。 振り返ればほんの僅かに滞在した街。入城するときには気づかなかったが、街並みや城壁は華やかで 堅固でもある。統治者の人となりがどうであれ、潤っている国であることは確かなようだった。 跡部に囚われ振り回させた数日間。拭いきれない傷の、さらにその上に抉られた擦過傷を残されただけ だというのに、あの悲哀の深淵に沈んだ男の行く先を懸念する。 捨ておけ、と。 もう関わるなと振り切った。 だが―― 生きているだけで騒乱の種を蒔き育てる我が身の置き場は一体どこにある。 知らなければならなかったこと。そして決めなければならない事実が確かにある。 それに直面しなければならない。もうだれにも 振り回されずに済むように。 そう思って一歩踏み出した。 城市郊外に展開している部隊の旗指物を見て、手塚は漸くこの男が何処の国に身を置く者なのかを 知った。 「立海国の――方なのか」 「太師の真田と申します」 男は袍衣を払って手塚の足元に拝跪した。 砂が舞う中を左右の兵たちも次々とそれに倣う。 地位を、そして総てを失った身に受ける敬服が、これほど居心地が悪いものなのかと手塚は少し後退った。 「御身の危機とは申せ、数々の非礼をお許し下さい」 この罰は如何ようにもお受けします、と重ねる真田の手元に手塚は片膝をついた。 「どうぞ、そのような真似はしないでください。わたしは、いや、俺はもう太子でもなんでもない。 あなた方が傅く謂れはないんだ」 「現状がどうであれ、我らにとっての太子は手塚さま、あなたお一人です。氷帝の専横を許しておくわけには 参りません。そのための尽力を立海は惜しまぬ所存です」 その頃になると公邸を退出した公子の赤也の一隊も姿を見せた。一つ年下の従兄弟はニヤリと笑みを落として 真田と同じように叩頭し、丁寧なお悔やみを述べた。 「久しいな、赤也。おまえは変わらない」 「嬉しいなぁ。覚えていてくださるとは。幼少の頃にお会いした限りですのに」 「頼むから顔を上げてくれ。これでは話ができない」 赤也はお言葉に甘えて、と立ち上がり立礼に変える。だが、真田は許しが出たと少し背を上げたが 、面は地を捉えたままだ。 「何卒、氷帝国打倒の下命を賜りますよう伏してお願い申し上げます。氷帝公は宣臼さまの践祚に向けて画策 しております。一刻の猶予もございません。このような場で不敬とは存じますが、一言お声を頂ければ、 太子の元に参じる諸侯は氷帝側を凌駕いたしましょう」 何卒――と続けられて空を仰いだ。 生き永らえたのは、失くした王位を取り戻すためではないと口にしてみた。予想どおり真田の肩がびくりと 動く。赤也だけが好奇心一杯に瞳を膨らませている。 「父王の恨みはもういいんスか」 「忘れた訳ではない。また、氷帝の意のままに王位を御されるのも、それを諦観するのも嫌だ。だが、 俺は知らなさ過ぎたんだ。なぜ、父上は討たれなければならなかったのか。五覇の諸侯との間にどんな軋轢 があったのか。なぜ、回避できなかったのか。だれを信じてだれを疑えばいいのか。それすら わからないようでは、たとえ王位を頂いたとしても父上の二の舞になると思われないか」 顔を上げて欲しいといま一度懇願され、真田はすっとその面を上げ、手塚を真っ向から捉えた。 「恐らくいまの俺の気持を知れば、父上は黄泉の下で歯がみされるだろう。父上の仇を討つよりも 母上を取り戻したい。それが唯一の願いなんだ。母上は氷帝国公、榊どのに囚われていると聞く。 それは確かだろうか」 「そのように報告は受けております」 束の間――秀麗な手塚の表情が歪む。送られた視線の先にあるのは鎬京郊外に展開する氷帝陣営か。 何かを飲み込んで、そして彼は一気に吐き出した。 「俺は宣臼さまに、兄上にお会いしたことはない。父上亡きいま王位継承権の第一は兄上にある。それが 天命なのではないか」 「それは――」 「どんなふうに氷帝に揺さぶりをかければよいかは分からないが、宣臼さまに王位を継承して頂く。 氷帝の傀儡ではなく唯一の王として独立される手助けをしたい。そして俺は母上を取り戻す。 幾ら嘆いても父上はもう戻らない。 奪われたものだけを取り返す。過剰な報復は連鎖を生むだけだ。助けて頂いたうえに こんな俺に忠義を示してもらってありがたいと思う。でも――」 ――俺の願いは違うところにあるんだ。 最後は消え入りそうな声だった。 真田は善処いたしましょうと答えるしかなかった。その言葉に全幅の信頼を置いたのか、手塚は小さく 微笑むと、左右を兵に守られながら用意された天幕へと向って行った。 真田はというと庇護欲を十分に刺激され、やや唖然としながらもその姿を無言で 見送っていた。 ほうーと吐き出された重い嘆息に赤也は苦笑しきりだ。 「あんなふうに微笑まれては向うところ敵なしだ。一種の凶器ですね。傾国の誉れ高き皇后陛下の存在は、 異性にのみ苛烈だったみたいだけど、太子のあれは、全種、全年齢対応って気がしますよ」 腕組みをしたまましかめ面の真田に、赤也は表情を引き締めてさらに問うた。 「で、どう思いました、老師。本気で宣臼と氷帝とを引き離そうと考えているみたいだけど」 「純粋培養の太子らしいと言えばらしいが、実際問題不可能な課題だ。叶える気もない」 「老師らしい辛らつさだ。確かに人の立場と機微に疎すぎる。宣臼がいま何を考えているかなんて子供にでも わかりそうなものなのに、王位について頂きたいときたもんだ」 「だが、約定を違えると飛び出しかねん」 「そうッスね。天然なヤツに限って求心力があるからな。引きずられないように頼みますよ」 「問題ない。だが、そうだな。折角の太子のお声掛かりだ。我侭を一つだけ叶えて差し上げるとしようか」 真田は衣服の埃を払って立ち上がった。 「一つだけ、ね」 「氷帝の好きなようにはさせん」 「ぶっ潰すいい機会かも知れないしね」 事もなげに言い捨てる公子を真田は複雑な表情で見送った。 その日のうちに跡部は廃嫡された太子、宣臼を伴い国許を出立し嘗ての京師へと向った。 宣臼。年歯は二十歳前後。 十五年前、一夜にしてその地位を失い、転がり込むように母堂と共に氷帝国に身を寄せ、影のように日々を過ごし、 故に鬱積する昏さが具現されたような男だ。今回、父王の弑逆により降って沸いたように脚光を浴びる形となったが、 その事実のみににやける男を跡部は好きにはなれなかった。 まだ形にもならないというのに当然のように天子の扱いを要求する。 氷帝公の天幕に到着した宣臼は、公以下主従が傅く中、優雅に首座へ歩を進めた。 初めて体験する周囲からの憧憬と畏怖の眼差し。 宣臼に太子の地位にあった幼少のころの思い出などない。 気づけば王宮を追い出されていた。 氷帝国に身を寄せながら、毎日を泣き暮らす母の側で恨み言を聞かされるのが苦痛で、よく飛び出しては 帰らなかった。その母が心労から鬼籍に入ったときも、ただぼんやりと立ち尽くすだけだった。 怒りの矛先も向け方も分からなかったからだ。 いまになって、あのときの怒りが沸々と沸いてくる。母の死は当時よりも今のほうが数倍悔しい。それを 表現できる機会を手に出来たからなのだろう。 しかもその相手から総てを奪ってやったという陶酔感に震えがくる。 高笑いしそうになるのを何とか堪え、傅く氷帝公の前を通り過ぎ、顎を上げて振り返った。 「宣臼さまには遠路ご足労頂き恭悦に存じます。未だ洛陽の都は京師と呼ぶには不十分なため、このような陣屋 に足をお運び頂くことになりました。明後日にも五覇の諸侯がこの地に集結致します。周王室、正統な 王として各諸侯にお声を賜りたく存じます」 臣下が拝跪したまま叫ぶ言葉は、さながら地の底から湧き上がり、足元を伝い体中に伝播する。その快感 からくる眩暈に耐えながら宣臼は大仰に言い放った。 「氷帝公には何から何まで手を煩わせた。この場に迎えられた姿を是非とも母上にお見せしたかった。 それだけが心残りだったのだが、母上も草葉の陰で袖を拭っておいでだろう」 と、悲壮な声を上げる。白々しいと跡部は小さく吐き捨てた。 「面を上げられよ、氷帝公。そして公子」 許しを得て榊と跡部は少し目線を上げた。その先にある宣臼の口元は愉悦に歪んでいた。 「太子、手塚を弑し奉ったのは公子と聞いた。その果断に謝辞を述べたい。戦褒は思いのままだ。 その手で屠ったのか? 出来得れば、様変わりした美貌の形相をこの目で首を拝みたかったものだ。なぜそれがない?」 跡部は答えに窮する。 まさかあの場で取り逃がし、執拗にその足跡を追い、手中にしたかと思えばまた攫われた とは口が裂けても言えない。だれにというより、己が父親に対して。 その父は、ちらりと視線を送ってきた。何を口籠もっていると言わんばかりだった。 「畏れながら――」 と、跡部はひりつく喉から搾り出すような声を出した。 「太子手塚におかれましては、崩れ落ちる後宮と命運を共にされたと思われます。火災が収まりました後に ご遺体を捜させましたが、その特定は叶いませんでした。ですが、あの状態で生き延びられているとは 到底思えず――」 「身罷られたと断定もできぬ訳だ」 一刀の元に断罪された。 だが、後宮の残骸の中を探させたのは事実だ。その状況と可能性を氷帝公に報告した。そのあと、逃げ出した 可能性にかけて、女衒業にまで捜索の手を伸ばしたのは、ただの希望だ。そこまで報告する義務はない。 父もそれ以上追及はしなかった。 だが、宣臼の恨みはそんなところには留まりはしない。 「詰めが甘いと言わざるを得ないな、氷帝公。もし、生き延びておられたら如何する所存だ。太子の 御位は未だ手塚の頭上にあるのだぞ。その地位を利用しようとする不届き者おらぬとも限るまい」 ――明日。 そこで宣臼は言葉を切った。吸い込むように顎を上げ、一気に吐き捨てる。 「明日、五覇の諸侯の眼前で、前の太子、手塚の葬儀を盛大に執り行う。その際に皇后陛下の処刑も同時に 行ってはいかがだろう、氷帝公」 榊が飲む息の音が聞こえた気がした。 跡部はまともに父の顔を見られない。 皇后、褒ジが榊の元で生き延びていることを知っている。 どこからその情報を入手したのかなど瑣末事だ。宣臼の頭上に王位が転がり込むと当て込んで追従を 囁く輩はどこからも沸いてくる。それは乱世の習いだった。 「父上も大概甘いことだ。溺愛の美貌の太子のためを思うなら、いっそのことわたしを屠ればよかった ものを。その方がマシだったよ。欲しくもない憐憫の情からか、生かされたことが今回の 禍根を生む結果になったのだからな」 宣臼は顎を上げたままで榊を見下ろす。主従が逆転した状況を把握させておくべきだと判断した。 「このわたしが即位するまでに身辺は綺麗にしておきたい。幽王陛下が皇后によって狂わされ、国政を 悪戯に弄び、快楽のみに執心されたとは 民草に至るまで周知のことだ。元凶が生き残っておいでとは片手落ちではないか。 それに陛下におかれても、あれほど 慈しまれた皇后と引き離されていてはお辛かろう。皇后陛下は殉死されるべきである」 「御意のままに」 榊は表情一つ変えず下命を受けた。 |