未だ齢が浅く、削ぎ落とされたような僅かばかりの月の夜。総てを侵食せんばかりの闇は辺りを覆い、
葉ずれの音さえも遠くまで運ぶ。 そんな中を闇と同体するかのように進む影があった。 立海国陣中とあって深夜でも篝火は絶やさない。それでも闇の深い場所から更なる闇へと、吸い寄せられ るように影は飛翔している。 離れては重なり合う影の数は二。ヒュンと風を切り、木々の枝から枝へとムササビのように跳躍する。 ワサッと枝が揺れても次の瞬間には別の枝へと移動していた。衛兵が訝かってもその場に彼らの 姿はもうない。 その身軽さで生業を立ててきた彼らを、一介の衛兵如きが留められる筈もなかった。 「あそこだね」 小声で天幕の一つを指差すのは不二。それに答えるのは英二だ。 「うん、間違いないよ。昼間にあそこに入っていくところを確かめたからね」 彼らは彼らの情報網を持っている。 陥落前の鎬京の豪族たちを震撼させた盗賊集団「墨」。 その名前の由来は、巫祝のように顔を墨で縁取っているところから来ている。見分けと年齢を偽り、相手に 恐怖を与えるための策だが、それでも彼らが少年である事実は知れていた。一種の虚勢だからそれでも 構わなかったのだ。 目的の天幕前の入り口には、二人の屈強な衛兵が固めている。力技で叶う相手ではなさそうだ。 対等に渡り合えるなど思ってもいない。 「それじゃ、手筈どおり」 「任せてよ」 二人同時に木の枝から袂に着地した。 天幕の入り口まで一直線。不二を先頭に重なるように二人は駆け出した。 先をゆく不二が衛兵の足元に小石を投げる。その注意と視線をギリギリの位置で釘付けにしたところで、 直角に右に折れた。 「おい!」 「何者だ!」 さっと緊張を走らせる彼らだが、流石にそれだけでは持ち場を離れない。だが、ほんの少しの暇、 視線を逸らせればよいのだ。彼らが注意を戻す前に素早い動きの英二が天幕内に滑り込む。 衛兵たちの間に風が通ったほどの認識でしかなかったろう。 息を凝らして帳を払えば、僅かな燭台の灯りが朧に揺れる室内。 英二はゴクリと息を呑んで最奥に位置する牀まで足を忍ばせた。 音なく一歩踏み出した筈なのに、むっくりと背を上げる人物に心ならずとも足を止める。 相手は深夜に忍び込んだ不審者に無言で視線を合わせていた。出そうと思えば大声で助けを呼べる筈だ。 驚愕の余り身動きできないのはないだろう。そのもの静かな表情で窺い知れる。 降参の意味で、英二は諸手を上げて軽快に近づいていった。 「手塚でしょ。ごめんね、こんな夜中に、勝手に押し入っちゃって」 敢えて調子を上げてニコリと微笑む。害するつもりなどないとの意思表示。実際、そのために危険を 犯してまで会いに来た訳ではない。 ほんの少し視線を絞っただけの反応で、相手はやはり無言だ。怒るなり驚くなりしてもらわないことには、 話が続かないじゃないかと、英二は頭をかいた。 意を決して半身を起こしている相手の間近にまでにじり寄り、その両脇に手をつく位置まで接近した。 それには流石の冷徹魔人の涼やかな瞳も大きく膨らんでいる。してやったりと英二は極上の笑みを送った。 「あは、驚いた顔って可愛い。そうやって澄ましてるよりずっといいよ」 「な、何者だ、おまえ」 急接近だ。ほとんどくっ付かんばかり距離まで許してから言う科白でもない。 「美人だ、美人だって聞いてたけどさ、スカした猫がきょとんって感じで可愛いじゃん」 どっちが猫だ。英二の大きな瞳から目を逸らせて手塚は呟いた。 「何の用だと聞いている。こんな夜更けに不躾にも程があるぞ」 「ああ、紹介がまだだったにゃ。俺は英二。よろしくね」 ぴょこんと頭を下げられ、つられて会釈を返す手塚だった。 「君の無事を誰よりも喜んでるヤツから言伝があってさ。 それと、どうしても今晩のうちに話しておかなきゃ ならないこともあったから」 「誰よりも――喜んでいる?」 「そ。海堂のこと」 弾かれたように前のめりになった手塚は、思わず英二の肩に手を掛けた。こめる指先の力に加減ができない。 痛い――と顔をしかめられて慌ててその手を離す。小さく詫びを入れた己の手が震えているのに気づいた ようだった。 英二ははにかむように微笑むと、海堂もね、と続けた。 「手塚が無事で鎬京の近くまで来てるって知ったとき、肩震わせて泣いたよ」 あの日――手塚が氷帝に捕らえられたと知り、よろけながら飛び出した海堂を押さえ込み、俺たちに任せろと 約束したのは、人の情理など仮借しない不二の方だった。 英二のように流されている訳ではないとその表情からも分かる。興味があるのでもなさそうだった。では、 なぜと英二は口にしてみた。 不二から答えは返らなかった。 ただ、行くよ、と走り出した背を英二は追った。 追跡も潜入もお手のものだ。 情報を集め足取りを追い、氷帝国公邸前まで辿りついたときあの騒ぎを知った。一歩遅かったと知り、 手塚を奪取した立海国の動きを見張り続けてここに至る。 「よく聞いてよく考えて欲しいって俺たちからの忠告。あした、鎬京で君の葬儀が行われるのって 知ってる? え〜っと君の兄さんが執り行うんだって。ここで相手の思惑を許してしまえば、君は歴史的に葬られて しまうんだ。折角氷帝から救い出されてホッとしてるところだろうけど、ホケホケしてる暇はないんだよ」 「兄上が――」 自分はあの王城が落ちた日に死んだことになっている。それに王位を取り戻すために生き残ったのでは ないと明言もした。過去を捨てて地位を捨てて、失った者だけを取り戻し、その後は 慎ましく生きてゆくのもいいかもしれない。 ただ、改めて抹殺される心地悪さが付きまとうだけだ。 そう思った矢先、英二の一言で冷水を浴びせられた。 「ぼうっと聞いてる場合じゃないよ。いい? 君の兄さんは、その先触れとして皇后陛下をも処刑するって 宣言してんだよ!」 英二が手塚の天幕に侵入したのを確かめ、衛兵の嫌疑をやり過ごした不二は、潜んでいた木陰からいま少し 安全な場所へと移動した。大木の上に陣取って英二を待つつもりで手をかけたそのとき――間近まで許した 気配に小刀を抜き払った。 この至近距離だ。目測のも誤りはない。だが、何の手応えもなく空を切る小刀ごと背後の大木に 縫いとめられ、もう片方の手は喉を圧迫しにかかる。あわやのところでしゃがんでそれをかわし、 それでも小刀を持った片手は吊り上げられた不安定な状態だ。逃げることも出来ない。 ちっと舌打した不二の耳に低い声がかかった。 「立て。そのままだと肩の関節が外れるぞ」 「可哀相に思うんなら右手を離してよ」 「立場を分かっとらんようだな。このまま切り落としてやってもいいんだぞ」 いま一度立てと命じられて不二は従った。相手の声音が激昂していない分、慎重を要する。 よろよろと立ち上がった不二の視線は相手のそれとかち当たる。 存外、若い。そう値踏みした先にニヤリとした笑みが落ちた。 「『墨』の首魁だな。義賊風情がここで何をしている」 「僕だけ知られているなんて気味が悪い。あんたも名乗りなよ」 「質問に質問で返すなど躾がなっていないな」 「生憎、叱ってくれる親がいないもんでね」 「その年になっての不始末は己の責任だ。転嫁は見苦しい」 「こんな場面で説教する? 相当ウザイよ、あんた」 あんた呼ばわりされたのが気に入らなかったわけでもないだろうが、男は小さく名乗り、それを聞いた不二は 肩を竦めて哂った。 「立海国は人手が足りないの? 太師自ら夜警に回ってるとはね」 不二の軽口にも反応せず、真田の真顔は急に凄みを増す。そのまま首をへし折られそうな 殺気に身震いした。 「我々をずっとつけ回していたな。いま、太子と接触を図っているおまえの連れは何をしようとしている」 「見張ってた訳?」 「どこの国にも属さぬようだから、泳がせた」 余裕だね、と不二は虚勢を張る。睨めつけることしかできないが、そのあとぽつりと詩的に告げた。 「百の情報と一の助言を」 「なんだと?」 「ひょんなことから太子の従者と知り合ってね。義侠心と退屈しのぎと哀れみから、 互いの無事を教えて上げようと思った訳。 それと太子の状態も知りたかったし、状況は刻一刻変化してるし」 真田は押さえつけていた手を離した。無理な体勢から開放され、そのまま樹の根元にしゃがみ込む。 「太子がどの陣営に囲われているのが最良かなんて僕らには分からない。だけど、 あす、鎬京で行われようとしていること、情報は掴んでいるんでしょう。それを太子は知ってるの?」 「まだ、お教えしてはいない」 当然のように返されて不二は視線を絞った。 「なぜ? 五覇の諸侯も揃い、宣臼は太子の抹殺と己の践祚を同時に公表しようとしている。あすは転機点でしょ。 本気で太子を擁するつもりなら蜂起する絶好の機会じゃない。それをいまになって当の太子が 知らないってどういうこと?」 ――本気で擁するのなら 不二の射るような睨みが入る。 「立海は本気じゃないってこと? だったらなぜ太子を手元に留めようとする。必要ないじゃないか」 「その当の太子が御位に未練を感じておられない」 「本気で言ってるの? 太子も。あんたも。それを真に受けて――」 「どうやら太子は本気のようだぞ。俺に言わせれば考えられないが、あの調子なら余程のことがない限り 動かれないだろう」 落とされたうす昏い笑み。 不二の背に冷たい汗が伝った。 それを言う。太子を助けたその手でこの男は。 未だ熱気の冷めやらぬ晩夏の夕闇。 そこだけキリと冴えた陰気に支配された。 喉を鳴らし、声を押し殺して不二は叫んだ。 「立海は――宣臼の手で皇后を殺させようとしているのか!」 真田は否定も肯定もしないで、手塚の天幕を振り返った。 その残酷なほどの沈黙。 罵倒を浴びせようが誹ろうが、一切忖度しないであろう落ち着いた素振りにより一層の憎悪が募る。 この男の出会わなければと思う。 傍観者であり続けただろう。 英二が何と言おうと、海堂の無事を伝えたら手を引こうと思っていた。ぐずる英二を黙らせる方法なんか いくらだってある。これでもよく付き合った方だ。 出会ってしまった災禍に漬かりきるつもりはない。政治的な思惑に関心もない。上がどう入れ替わろうが 自分たちの生活に影響があろう筈がなかった。 怒ることもない代わりに諦めもしない。強かに生を紡ぐ。それが心情。 「それが大国の采配ってわけか」 この男に出会わなければ。 「国を預かる者の当然の責務だ」 どこかに収納していた怒りの発動の方法を思いつかなかったろう。 「太子は知ってしまったよ。そして僕たちも知ってしまった。ここから彼を連れ出せないけど、 大国の思惑と王位を伺おうとする者の専横をぶち壊すことくらいできる!」 バカみたいに正々堂々と敵対の意思を表して。自分を見失って。 「太子に教えて差し上げなくてはならない」 邪魔をするなと斬りかかられて逃げきる算段もないくせに。 「誰かれ構わずに信用するなって?」 「その地位にありながらの無欲は、けして美徳ではないということを。何れの諸侯もただの盾ではない ということを」 ――そして。 「先王が討たれた訳は、皇后褒ジさまにあったということを」 「そんなの理解できるか!」 激情に任せて叫び、燐粉球を足元に叩きつけて発光を促した。一瞬の真昼のような煌きから 真田は袍衣の袖で目を守る。 合図は英二にも届いている筈だ。 その隙に跳躍を見せ眼前から姿を消した。 騒ぎを見咎めた衛兵がワラワラと集ってくる。多分英二は心配ない。 天幕を出てどこかの闇に紛れてしまっただろう。不測の事態での対応も何度も経験済みだ。合流地点は幾つも 用意している。 不二は後ろを振り返らずに足元を蹴った。 「賊だ!」 「太師!」 「太師! 如何されました!」 射られた光で闇と同化しない瞳を何度も瞬かせ、真田は後方の衛兵たちを振り返った。 風情と言い放った義賊たちを見失い、それでも彼の沽券などには掠りもしない。根本が揺るぎさえしなければ、 拘りは捨てるべきだ。 「太子はご無事か」 「変わりございません」 「護衛を三倍に増やせ。畏れながらも天幕内にもだ」 傅いた何名かの衛兵は下地と同時に飛び去った。残った兵の一人が当然のようにいきり立つ。 「賊の追跡をお命じください! 立海の威信にかけましても捕らえさせます!」 「構うな」 「太師?」 「捨て置け」 そう言い捨てて真田はその場を立ち去った。 |