風蕭々と 〜転機





――皇后陛下をも処刑するって宣言してんだよ!



 さざ波たつ。
 つむじ風のように飛来してきた少年は去り際も同じように唐突だった。
 静寂が蘇った天幕の中、一人取り残された手塚は膝から萎えたようにその場にしゃがみ込んだ。
 何も望まない。時流に贖わない。ただ一握りの渇望。
 それさえも許してもらえないのかと。
 家を奪われ家族を失い、そんな遺失は己だけのものではないけれど。
 ただ人に紛れて暮らすなど不可能だとは思っていたけれど。
 甘えたことを。それでは母の死を座して待つつもりか。啼き濡れて暮らすつもりかと内なる声がする。
 何かを成し遂げる――母を救う力は彼にはない。だが、手に入る。
 太子であったという事実。その地位に寄りかかるような真似はしたくなかったが、いまここで力萎えたように 膝を折っていても状況は何も変わらない。
 一度だけと呟いた。
 母のためと言葉にした。
 見上げた視線の先に、いつ天幕に入ってきたのか、ただ佇む真田を発見する。
 忠誠を誓うと一度膝を折ったその男はいまでも変わらないのだろうか。
 酷く利己的な、およそ時期継承者とは呼べないような卑怯な自分を見透かされているような気もする。
 破砕する。自ら課した壁を。
 立ち上がる手塚。
 入れ替わるように傅く真田。
 手塚は真田が揃えた両手の指先だけを見ている。表情は伺えないが、決意を促すように固く力の入った そこに向って手塚は宣言した。
「氷帝を討て」
 当然のように更に深く叩頭する立海の太師に手塚は更に続けた。
「しかし、この使命はあくまでも母上の救出にあることを第一と致せ」
「我が身に変えましても」



 立海国の陣営を抜け出した不二たちはその足で青学陣営に向った。この国の公子の元に身を置いている乾に 会うために、今度は正面切って堂々と乗り込んだ。
 その旨を衛兵に伝えると、訝しそうに睨められたものの、追い返されることなく、待てと告げられた。 ここで乾の名は無礼講なのかもしれない。
 ほうと息をついて沈み込みそうになる。
――どうかしている。
 元皇后を救い出すと宣言したこともそうだが、その無謀さに乾を引きずり込もうとするなんて正気の沙汰じゃ ない。いや、共に戦おうなどと言えた義理でもなかった。
 伏して請うのか。
 見逃せと。
 ほんの僅かの猶予でいい。目こぼししてもらえれば活路が見出せるかもしれない。そう考え至ったときに 乾その人が姿を見せた。後ろに小柄な少年を伴っている。
 久し振りとでもいうふうに片手を挙げた乾は、不二の普段にない切羽詰った様子に眉をひそめた。
 自立こそが矜持のすべてとの言葉どおりに体現している少年が、どのような堅固な警備であろうと、これと 決めた標的には毅然と挑む気概を持っている少年が、そのような表情を見せたことは一度もない。 厄介なことだと、乾は内心舌打ちをした。
 仕方なく、すがる視線を受け止めて頷く。それを合図に不二は小さく頷き、込み入った話になると、 乾の傍らにいる少年の存在を暗に示した。
「あぁ、紹介がまだだったね。こちらは青学国の公子であらせられる」
 咄嗟に膝を折ろうとした二人を制したのは青学国公子、リョーマだった。
「止めてよ。楽しいことが起こりそうな予感がしたから、乾サンについてきただけ。時間がないんでショ。 こんな夜更けに人ンちを訪れたわけをさっさと説明したら」
 乾は肩をすくめて続きを促した。不二はもう迷わない。
「あす、処刑される皇后をお救いしたい」
 大して驚きもせず、乾はなぜと問うた。
「答えられない。体裁を繕う優等生的な答えなら、為政者の意のままに人の生き死にを弄ばれるのが堪らない、 かな」
「正直な人だね。不二さんだっけ? じゃあ、本心は?」
「ムカついた」
「あはははは!」
 リョーマは体を二つに折って爆笑した。乾は不思議な物を見るように頭をかいている。
「いいよ、いい! その理由。やっぱそうじゃなくっちゃね!」
 なぜそこまで快哉されなければいけないのか理解に苦しむが、少年公子のツボを突きまくったようだ。
「で、うちに何をして欲しいって?」
「何もないよ。ただ諦観してもらえるといいかな。青学国の立場もあるだろうから」
「分かってないね。氷帝に刃向かうんでショ。処刑される皇后を奪おうとする輩が出現して、何もしないこと 自体が既に謀反じゃない。加担したと思われても仕方ないんスよ」
「じゃあいいよ」
 即答だった。
「そちらの乾とは浅からぬ縁だし、一応筋をとおして挨拶に来ただけってことにしといてよ」
 不二は英二を伴って踵を返した。覆いかぶさるようなリョーマの声がかかった。
「それってズルくない?」
「そうだね。ズルいかも知れない。好きにするって言いながら、どこかで期待しているんだ。でも君には 一国を預かる立場ってものがあるんだから、判断を誤っちゃいけないと思う」
 無理強いする気はないと振り返った。そして見惚れるほどの笑みで満足げに微笑んだ。
「僕たちは鎬京を震撼させた盗賊集団『墨』だ。私腹を肥やした豪族連中の鼻っ柱を叩くことが存在理由。 人を攫うなんて初めてだ。それも何の依頼もないのにさ。 どうかしてるよ」
 もう一度、どうかしていると言い残して二人は去っていった。



 深夜の氷帝陣営に(しつ)の音色が響き渡る。
 どこか引っ掻くような鈍色の弾奏に夜警の兵たちも、その在り処を視線で追った。
 寝付けなく、天幕を出て草むらに横たわっていた跡部も耳を傾ける。
 頭上にある削いだ月に溶け込むような調べだった。
 その弾奏者と共にいる父の現在の心情は分からない。揺れ動いているとしても、その機微を息子にだろうと 悟らせる可愛げもない。
 あす行われることを彼女は知っているのだろうか。知っていてこの無情に啼く音色を出しているのだろうか。
 あの父が素直に宣臼の命に従うわけはなく、だが、何を起こすかは聞いてもいない。執着した女の首を本気で 差し出すつもりでもないだろう。
 だが、不必要とあればその執心も斬り捨てる非情さも持ち合わせている父だ。
 信用されていないからか。
 だから公子の自分に何も語り掛けないのか。
 吐き捨てた重い嘆息だけで気が滅入る。
 一度引っ掻いた音を立てて音曲は消えた。それも束の間緩やかにまた演奏は始まる。
 原始――瑟は五十弦だったという。その音色が余りに哀れなので 伏羲(ふぎ)が二つに割って二十五弦にしたと聞いたことがある。
 割ったところで音色のもの哀しさは変わらない。人は何かを忘れたいがために無心で楽を鳴らす。 だから中は空洞なのだとか。
 後にさらに二つに割られて十三弦となり(こと)と呼ばれるようになる。
 手塚にこの奏でが届くだろうか。
 同じように欠けた月を見上げているのだろうか。
 皇后は氷帝陣営で生きたいと願っているのだろうか。
 ふと、朧々と流れていた音色がぷつりとかき消えた。
 その唐突さに苦笑が洩れる。
 天地広しといえど、先の皇后褒ジの無事を心底願っている者は、あの父と手塚だけかも知れぬと 跡部は思った。
 その想いの丈は様々で、まんじりともしない夜が明ける。



 いかにも質量のありそうなどんよりとした曇天。雨を呼ぶ湿気蒸した日だった。
 塵芥と化した嘗ての王宮跡。
 瓦礫は取り除かれ、悠久の歴史と繁栄はただの更地へと姿を変えていた。 その場には神儀を司る祭壇とその奥には天幕が張られている。 ものものしく警備兵に守られた幕内の様子までは伺えなかった。
 宣臼が用意したその舞台に五覇の諸侯が一同に会し――とは言っても実質不動峰国が主だった席に 呼ばれた試しはなく、今回の宣臼に よる召集も、事後承諾で済ませるハラらしい。
 成り上がりの新興勢力に対する中原の対応はいつだってそんな ものだ。いまさらそんなことに憤る青臭さを背負っていては、不動峰など何度潰されたか知れやしない、と 一介の剣士に身をやつし民草に紛れ込んだ国主はヘラリと嘯いた。
 橘は少し見晴らしのよい場所を見つけ、ここで繰り広げられる茶番劇を見守ってやろうと前のめりになった。



 神託を得るために巫祝が舞う。
 背後にはうず高く積まれた木々がパチパチと爆ぜる音を立てて炎を巻き上げていた。それを見守るように 毅然と整列を見せている五覇の諸侯とその兵士たち。それぞれの盟主を先頭に頂き、 巫祝の動きを目で追っている。
 揺らめく炎は周囲の空気を膨張させ、巫祝の姿を包み込み、見る者を恍惚状態へと誘う。
 本来ならそこで使われる (にえ)は牛や豚などの家畜類。だが、縄目を受けて 引き立てられたのは遠目にも一目で妙齢と知れる女性だった。
 先の皇后、褒ジ。遅れて大刀を手にした執行人。
 橘は息を呑んだ。
 その場にいて、さっと緊張を走らせる者の数は知れている。野次馬や一般の兵士たちは 巫祝の舞の洗脳を受け、皇后の首に当たり前のように刀が振るわれたとしても、気づいたときには粛清は 終了している手はずなのだろう。
 橘は思わず刀の柄に手をかけた。
 そのまま周囲に目を凝らせば、祭壇に向けて殺気を放っている射手の姿がそこここに。だれを射るつもりか、 だれに標準を合わせているのか、その者の姿は一国だけではないと橘は見て取った。
 祭壇付近でもいまにも 刀を払って斬りかかりそうな殺気が拮抗している。
 大国同士の鬩ぎ合い。権力を伺う者の目論み。
 もしくは刷新。
 からくりは二段、三段に交錯している。
 血を見ないでは収まらないなと、緊張を走らせたそのとき――
「その皇后は偽者だ!」
 幽玄の河岸を彷徨っていた意識を呼び戻すような声がかかった。



――恐らく、ぎりぎりの頃合で気勢が削がれたのか、射手の殺気が行き場のない袋小路で喘いでいる。 斎場付近にざわりと動揺が走った。
「偽者とはどういうことだ、氷帝公! 替わりを立てて憚るつもりだったのか!」
 そう叫び天幕からにじり出る人影。橘はあれが宣臼なのかと視線を絞った。
「身代わりだとしたら如何される、宣臼どの。あなたに褒ジさまの見分けがつくのですか? 生き延びた 旧臣たちのほとんどは屠られ、唯一の係累は行方知れずだ」
 一歩前に出た榊は、縄にかけられた褒ジの前に立ち、立海国の面々が陣取る一角に視線を合わせた。
 赤也の後ろに真田が立ち竦む。そのすぐ真後ろに居る肩衣を目深に被った男を捉えた。
 真田はその視線から庇うように男を隠す。
 一兵卒に身をやつした手塚だった。
 動こうとする手塚を真田は無言で押し留めた。
 榊は見抜いている。手塚が生きていることも、そしてこの場に居ることも、何もかも承知だったようだ。
「やはり手塚は生きているのか!」
「この際かの方の生死は関係ございません」
「何が関係ないものか。臣下の分際で王位を操ろうという魂胆か!」
 榊は一歩宣臼ににじり寄る。彼にだけ聞こえるような小声で続けた。
「その分際でございますが、わたしがあなたなど知らぬと言えば如何あいなりましょう」
「貴様!」
 神輿は担いでやった。その実情は傀儡でなければならないと冷たく言い放つ。
 敢えて宣臼の命に従う素振りを見せ、この場にまで引き伸ばし、衆目の面前で権威を失墜させる。
 不二たちは混乱を呼び込むために褒ジが偽者だと叫んだが、いま縄目を受けているのは間違いなく 本人。刑の執行直前で止めて、宣臼に決定権などないと内外に知らしめようとした。
 真田たちに二人の会話は聞き取れない。だが宣臼の激昂した様子から凡その内容は窺い知れた。
 立海は射手を配している。当然氷帝もそして宣臼に組する者たちもいた。こうも標的が一所に集結 しては狙えない。彼らは互いを牽制し合っているだろう。
 そして刀の柄に手をかけた者たち。
 均衡がぐらつく。
 だれが仕掛ける。
 榊はそれを待っている。
 宣臼が口火を切るのを。
 意に染まぬ者として屠るつもりか。
 背後の手塚は母の姿を目の前にして焦れている。
 真田は彼を庇うように臨戦態勢を取った。