風蕭々と 〜処断





 ギリギリの状態で保っていた均衡が宣臼の叫びと共に崩れた。
「氷帝を討て! 謀反である!」



 敵味方が入り乱れた斎場付近。真田は赤也に手塚を守るよう指示し、自らはその中心部へ躍り出た。 母をと暴れる手塚を目で制し、任せろと一声かける。矢は射かけられない。目標たちがあまりに 集中し過ぎたからだ。
 そんな中――突端を開いた宣臼のその言葉に、一番間近にいた榊はひっそりと笑い剣を払って 斬りかかった。
「氷帝公!」
 罵声が飛び交う中、宣臼が配した護衛兵がそれを弾く。
 肌が粟立つほど、そこだけ切り取られたような静寂に包まれ、氷帝国を挙げて時期王にと頂いた廃太子 に、帳を蹴破って襲い掛かる。
 当然のように。
 それがあたかも決められていた事象のように。
 いっそ穏やかな狂気が周囲を包んだ。



 どういうことだと不二は英二を振り返った。英二はその傍らにいる乾に視線を移す。
 青学公子リョーマと共に この地に足を運んだ縦横家は、斎場で二人を見つけるといつの間にか側にべったりと張り付いていた。
「見張り? それとも牽制?」
 邪魔だとばかりに睨めつけるとおどけて肩を竦めてみせた。 その男が射るような視線を斎場に送っている。
 虚言でこの場を掻き乱す。混乱に乗じて海堂や不二たちが斎場に乗り込む。元皇后褒ジを救えるとしたら、 それしか方法はないとの算段だった。
――しかし。
 ガツンと金属同士が弾ける音。氷帝公の剣が二合三合と、宣臼を取り囲む衛兵と打ちあっている。
 激した様子もなく冴えた瞳のままに謀反の剣を振るう主に、氷帝国兵は縫いとめられたように動けないで いる。跡部にしてもそうだった。あまりのことに声も出ない。
 これがあの父親。
 非情なまでの現実主義者。徹底的に感情を廃し、国のためになら怨恨も捨て膝を折れる。冷徹ともとれる 明晰さで氷帝国を維持してきた男が、ペタリと尻餅をついた宣臼に刃を向けていた。
「何をしておる! 処刑を続行せよ! 他の者は氷帝を討て! 氷帝公を殺せ!」
 宣臼は後ずさりしながら悲鳴を上げるが、その周囲を守る者は、ほとんどが氷帝国とその属国になりつつ ある銀華から配された兵士たち。 我が主を見失い、どの命に従えばいいのか右往左往している。
「お、親父!」
 跡部の枯れてしまった喉からは絞るような声にしか出ない。一歩踏み込んだ息子に榊はちらりと視線を送って よこす。激情ゆえの所業ではない。榊の目は心底冷えていた。



 そして、飛来するようにその場に躍り出た立海国太師、真田。



 真田は榊の剣を弾きその眼前に立ち塞がった。その背後で宣臼は歓喜の声を上げている。それに真田は 応えない。ただ、榊だけを捉えていた。
「貴様!」
「立海国はここで大勢に阿る所存か」
 激した跡部に反して榊は何があっても動じない。それを認めて真田も小さく哂った。
「この国に大勢などありましょうや。朝に保護していた者を夕べには屠る。大勢とはそのように千変万化する ものではありません」
「では聞くが立海の大勢、もしくは信条は何処にあると申される」
「歪めることなく正当なお方の手に」
「なるほどな。それで今度は立海が宣臼さまを擁するのか」
「勘違い召されるな。大勢を歪めた咎として貴国には滅して頂こう」
 真田はスッと榊に剣を突きつけた。
「一度ならずも二度までも、国権を蹂躙する罪は万死に値する。国柱を守ってこその五覇が権力の 妄想に取り付かれたか。太子手塚の名を持って氷帝公を打破する!」
 真田の瞳も放った言葉に反して冴えている。
 それを認め、榊は心底満足そうに笑みをつくった。
「言わせておけば!」
 榊の制止を振り切って跡部は真田に斬りかかった。それを両手で受け止めて刃を交える位置で 互いに睨めつける。血走った跡部の様相に真田は小さく囁きかけた。
「剣を収められよ、公子。氷帝公の御心を徒為となさるおつもりか。ただ闇雲に激情に流されると 大局を見誤ってしまう。我々としてはそちらの方が好都合だが」
「何だと!」
 跡部、引けと信じられないような父の声を聞いた。
 その背後から忍足がゆっくりと近づいてくる。何もかも諦観しきった表情の忍足に、跡部の方が気後れする。 彼は強張った跡部の肩に手を置き、無言のまま剣を下げさせた。
「忍足――」



「母上!」
 混乱極める中、唖然と立ち止まってしまった赤也の隙を縫って、手塚が褒ジの前にまろび出た。 しまったと赤也が舌打しても周囲は氷帝兵や宣臼の兵たちで一触即発。身動きできない各々の兵たちに 切欠を与える結果となる。
 赤也も剣を払って前に出た。
「手塚さま!」
「海堂!」
 同じように、目の前で繰り広げられる混乱に、満身創痍の海堂が手塚の元へ参じる。 幼き頃より常に傍らにあった少年の無事を確認しホッと息をつく間もない。
「母上! こちらへ!」
「太子、来てはなりません!」
 手を差し伸べる手塚に褒ジは背中越しで言い放った。いままで見せたことのないような叱責。纏まり を失くした髪に覆われた肩は小刻みに震えている。我が子と顔を会わせようとしない拒絶に手塚の足が 止まった。
「このような咎人に、高貴な御身、触れること叶いませぬ。何卒捨て置きください」
「どうして! 一体母上に何の咎があると言われますか! なぜそのような! なぜ、こうして お会いできましたものを拒絶される!」
「第一の咎は皇后として。第二の咎は母として。そして第三の咎は女人として。贖わねばならぬこと ばかりのこの身は、朽ちたいと望んでおります」
 震える指先が母の肩に触れる。声にならない慟哭が伝播し、漸く心に届いたのか、母はゆるりと 気持半分だけ振り返った。
 あの日――別たれたままの母がそこにいた。簡素な衣服如きが嘗ての姿を損えることなどなく、 温かかった手はゆっくりと手塚の頬に添えられる。
「幾分かお痩せになられましたね」
「母上のご苦労に比べれは俺など――」
「わたしはそれ相当の報いを受けただけのことです。運命など変えられると信じておりましたが、 日々ただ生を紡いでいたのでは、そのような力も与えられる筈はありません。太子」
「はい」
「変わらぬもの、滅びぬもの、壊れぬものなどこの世には存在しません。 途中でだれかに手折れるか、それとも朽ちてしまうかの違いはあれども、 その破滅の一端を担った者には、それ相当の咎が派生するのです。わたしはそれを受け止める義務が あります。でなければ陛下に顔向けができません。海堂」
 褒ジは手塚の側に控える少年の名を呼んだ。
「はい」
「いつも手塚に尽してくれてありがとう。礼を言います」
「そのようなお言葉、もったいのうございます!」
「お一人になってしまわれる太子をこれからも――どうぞ」
「母上?」
「陛下!」
「ご無礼仕る!」
 僅かばかりの邂逅の、その隙をついて斬りかかるのは宣臼が配した兵士。
 赤也は間に合わない。手塚の背後から襲い掛かる殺気を認めた褒ジが悲鳴を上げた。
「太子ー!」
 頭上から振り下ろされた刀を寸でのところで受け止めたのは、手塚の見知らぬ男だった。 身なりは質素ながら堂々たる体格の美丈夫。背中越しに、立って剣を取れと大喝された。
「乾! アレは誰なの?」
 不二の問いかけに乾も驚きを隠せない。
「分からない。いや、もしかして――」
 榊は宣臼を。その榊を立海の真田が狙い、宣臼は積年の恨みから褒ジの処刑を叫んでいる。皇后を 助けに入った太子と海堂。それを庇うのは見知らぬ剣士と立海国の公子。
 青学はどう動くのかと、乾は自国の兵の動きを封じているリョーマに視線を送った。
 その青学国の公子は興味なさそうに状況を諦観している。敢えて混乱を招く真似も、収拾させようという 気もさらさらないらしい。
 さては最後に残った駒を拾うつもりか、と乾は斎場付近に視線を戻した。



 手塚は助けてくれた剣士に小さく礼を告げると、動こうとしない母の手を取った。周囲は 総て敵に囲まれ、剣を頼みに突端を開くしかない。
「あんた誰?」
 赤也は敵の攻撃を軽くいなしながら、隣を守る男に語りかけた。一介の剣士とは言えないような 堂の入った剣さばきは瞠目に値する。
「名乗るほどの者じゃない。京師での土産話しに、ちょっと首を突っ込みたかっただけだ」
「ふうん。不動峰に帰ったらさぞかし自慢できるんじゃない」
「えっ?」
 男はなぜ知れたと尋ねた。
「訛り。微かだけど南方訛りが消えてないからな」
「はは。田舎者丸出しだったか。立海国公子は剣の腕前だけでなく、洞察力も備えておいでか」
「そっくりそのままお返しするよ」
 余裕の笑みをつくる男に只者ではないなと察するが、気にかかるのは一人で氷帝公と対峙した真田の方。 ぐるりを氷帝兵で囲まれた真田に気づき、赤也の足が完全に止まった。
 その元へ加勢しようと身じろいだ赤也に真田の針のような叱責が飛ぶ。持ち場を離れるなという 厳しい視線が送られた。だが、いつか出会った巨漢の男をはじめ、腕に覚えがある者たちの ピシリと音がするような殺気が拮抗した中、真田は一人で立ち尽くしている。
 赤也は次第に焦れ出した。



「忍足! なぜ止める!」
「氷帝のためや。堪えてくれ」
「おまえ、何を――」
 なぜか蚊帳の外。跡部に知らされていない、酷く冷淡な事象が起きようとしている。
――親父は何を考えている。
 氷帝には力を持たない宣臼一人、傀儡に封じてしまうだけの力はある。だれが靡こうがだれが阿ようが、 両手両足を削いで孤立させる冷淡さも持っている。そのつもりで担ぎ上げただけの男の、 一体何に激して剣を振るうのか。
 褒ジを弑せよと命じられたことだけではあるまい。
 突然不必要になった訳。
 跡部の苛立ちと憔悴感を一掃するように、氷帝公は剣を払って真田に斬りかかった。
「老師!」
 それを受け止めるような形で真田は剣を構えた。しかし豪胆な男は微動だにしない。氷帝公の剣は一直線に 突き出された。
「――!」
 ザシュー。
 肉を裂き骨を絶つ音に遅れて迸る鮮血。
「老師!」
 赤也が駆け出す。なぜ、なぜだと手を差し伸べた。
 真田の背後が血に染まり、心なしか青ざめた表情が見て取れた。
「どうして!」
 しかし――
 くぐもった声にならない音を立てて崩れ落ちたのは、真田の背後で守られていた筈の宣臼 だった。



「ぐっはぁ!」
 榊の剣は真田の脇を掠め宣臼の腹を一突きにしていた。
 その瞳は驚愕に見開かれ、信じられないとばかりに何度か瞬かれた。逆流するものが口から迸り、 詰る言葉すら出てこない。
 精一杯伸ばされた手は何度か空を掴み、一歩踏み出して真田の袖にたどり着いた。
「な、なぜだ……」
 そう、なぜ。
 その場にいる者の視線が一点に集中した。
「なぜとは、面妖なことを仰る。先ほどのわたしの言葉をお聞き頂けませんでしたか、宣臼さま。 王位は正当なるお方の手にと申し上げた筈。それがわが国の大義」
「貴様! 臣下の分際で……よ、よくも!」
「勘違いなさっておいでなのはあなたの方だ。氷帝公には公なりのお考えがあろうが、 かの国が独善で掲げた太子を我が立海国は認めない。ただそれだけの話だ」
 冷淡に言い放つ真田の袖を頼りに、宣臼は崩れ落ちそうになるも氷帝公に向けて一歩踏み出す。 なぜだと聞かぬうちには力尽きる訳にもいかないと、ただそれだけで二歩進めた。
「閉じ込められた……牢獄から、救い出し――その、手でまた、奈落に突き落とすか…… なぜだ! 屠るために救い出したのか! 答えろ、氷帝公!」
 肺腑の底から吐き出された怨嗟の声に、周囲が凍りつく。荒い宣臼の息遣いと、引きずる沓音だけ が世界を支配した。
「――ならば、なぜ捨て置かぬ。手駒に……感情は、ないと……思うた、か」
 宣臼の渾身の叫びと共に口から鮮血が迸り、支える力を失った体はドサリと音をたて、 そのまま地にうっ伏した。
 血の海に沈みこんだ亡骸に真田が膝を折る。その様を認めた榊は、一体だれに諭すつもりなのか、 ゆっくりと口を開いた。
「手塚さまが生きておられたことが、あなたにとってもわたしにとっても運の尽きでした」