「手塚さまが生きておられたことが、あなたにとっても私にとっても運の尽きでした」 シンと水を打ったような斎場で、だれ一人身じろぎ叶わない修羅場で、人の波を泳ぐように 榊の前に進み出たのは前の皇后褒ジだった。漸く取り戻した母は一人息子を置き去るように その手から剣を奪い、振り返ることなく歩を進める。 途中、前の皇后はちらりと動かなくなった宣臼の亡骸に視線を送り、小さく瞑目した。 礼を取ることすら畏れ多い。それもこれも 総てこの身が招いた災いと、彼女には宣臼を哀れむ資格すらないと承知しているかの様相だった。 榊はちらりと顔を上げ、こちらに向って歩いてくる褒ジの手に握られた剣を認め、満足そうに口の端を 上げた。 「――親父」 ついぞ見かけたことのない父の笑みに跡部は体を振るわせた。その震えは背後の忍足に伝播する。 跡部の肩口を押さえていた忍足はその力を強めるしかなかった。 榊の視点は褒ジにのみ合せられ。 吸い寄せられるように彼女もそれを受け止めた。 その胸に去来するものは言葉で説明できる筈もなく、ただ、怨敵に身を委ねた訳はこの一瞬にある。 先の皇后は風に煽られたように少し体を傾けて榊と対峙した。 「ついに念願が達せられますな」 「榊どののお陰と礼を申します」 欲しくもなく、無理やり賜った皇后位に何の義務も感じず無為に過ごした日々。 王位にあったかの君の、軌道を逸した執心を疎ましいだけと、諌めることもなく。 世情も理解せず、王を弑せしめられた一端を担い、略奪に合いながらも死を賜ることすら出来ず、 せめて一子の無事だけを願う母の慕情だけで生きてきた。 だが、幾夜も臥所を共にしたこの男にとって、褒ジの決意などすでに範疇。それを受ける度量は 甘さからではない。褒ジの共感はその行く末だった。 「国家の安寧と氷帝国の隆昌にこそ私の意義がある」 「ご立派なお覚悟。褒ジがしかと見届けました」 一言一言褒ジは榊に近づく。それを迎えるように榊も微動だにしなかった。 親父――と跡部の言葉は声にならない。その肩を抑えている忍足は顔を背けた。母の後を追うように 手塚が一歩踏み出す。一度手塚の視線と跡部のそれがかち合った。 榊と褒ジの距離が少しずつ縮まる度に、二人同時に制止の言葉が唇に上がる。それは発せられることなく、 止めてくれと、止めさせてくれと、互いが懇願の視線を送った。だが、地に縫いとめられたように 次の一歩が踏み出せず、ひりついた喉は悲鳴を飲み込んだままだった。 ただ、褒ジの凛とした声がひそりと静まり返った斎場に流れた。 「畏れ多くも臣下の分際で陛下を手にかけ太子を亡き者にせしめんとし、また、宣臼さまを祭り上げ、 国政をほしいままに画策し、内争を呼び寄せようとした氷帝公の咎は、いかなる理由があろうと 免れるものではない」 「もとより承知致しております」 「また、不必要とあらば、先の太子を何の憐憫の情もかけずに処断する不敬と非情さは、諸侯の地位に ある者のなさり様とは申せまい」 「……」 氷帝公に合せていた厳しい視線を上げて褒ジは、周囲を振り返った。次に紡がれる言葉を固唾を呑んで 見守る衆目の中から、手塚を探し出し、差し出してしまいそうになる手を懸命に堪えた。 振り切る。 それがこの場に存在する唯一の意義であると。 褒ジは言葉尻を上げた。 「その暴挙は公の独断であると判じてよろしかろうか」 「御意にございます。あのままご主君がご存命では、人心と諸侯の混乱がさらに助長されたは自明の理。 私は一個人としてご主君に滅して頂いた。凶刃と誹られようが、振るった剣に些かの 悔恨もございませぬ。天道は我に是と申せましょう。が――」 榊は自嘲気味に小さく哂った。 「『天に二日なし、地に二王なし』。宣臼さまが唯一のご血統であられたのなら、かの方を掲げて 氷帝国は覇王の道を突き進みましたものを。まこと、手塚さまは運がお強い」 そういうことかと、跡部の肌が粟立った。手塚の生存に奔走した己の両手をじっと見つめた。 榊にとっての優先順位。 幽王亡きあと、王家、姫氏の生き残りとして宣臼を擁する算段であっても、そこに 嫡流である手塚が生きていては、彼の寄って立つ場所は存在しない。一度廃嫡させられた宣臼に 太子という御位を授ける権限は榊にはないからだ。 序列を曲げ、あたかも玉座についたかの専横を振りかざすほど恥知らずではない。それを許そうとはしない。 それほどまでに王家の権威を重んじようとした結果だったのだと跡部は知った。 「氷帝公の身を呈したご忠節、陛下に成り代わりお礼申しあげます」 「勿体なきお言葉、歓喜の念に耐えませぬ」 「――」 「!!!」 手塚はその場に立ち尽くす。 跡部は悲鳴にならない声を飲み込んだ。 舞うように目の前を過ぎる褒ジを真田は膝をついて礼を取った。 つきたてた刃を胸に抱いた褒ジを榊は受け止めるように切っ先を向けた。 迸る真紅の花片。二人分の血の饗宴。 身を滅する抱擁に、互いに刃を向けるしかなかった邂逅に、歓喜の悲鳴を聞いた気がした。 「――母上!」 飛び出しかけた手塚を赤也が留める。 まだ幕は下りていない。真田の厳しい表情を見て取って、赤也はそう感じた。 肺腑を一突きされた褒ジは、悲鳴も総て飲み込み、身を預けるように榊の腕に収まり小さく痙攣を 繰り返したあと、だらりと力をなくしていった。 榊は致命傷に至らなかったのか、荒い呼吸を繰り返しながら、その抱く手に最後の力を注いだ。 一つ息を継ぎ、空を仰ぐ姿にだれも身動きがままならない。 荘厳な二人だけの儀式。そこに余人が踏み込む余地などなかった。 一同固唾を飲む中、音もなく立ち上がった真田は、わななく跡部の前に膝を折った。 肩で呼吸を整えようと躍起になっている跡部に真摯な視線を送る。跪く真田を跡部は顎を上げて捕らえた。 「幽王陛下におかれましては、常軌を逸し、また数多の諸侯を蔑ろにされたお振る舞いの数々、我ら 心よりご懸念申しあげておりました。お諌めの諫言もご主君には届かず、心痛も耐え難く、大逆と忠節の狭間で 意を決して刃を振るわれた榊さまのご決断に、敬意を表したいと存じます。が、それでも此度の騒乱の禍根は 処断せねばなりません」 氷帝公跡部さま、と真田は礼を送った 「な、何を――」 「跡部さまが氷帝国領を継承されることを心からご推挙申しあげます。が、しかし、立海国と致しましては、 儀礼として首魁であられる榊さまの御首を頂戴せねばなりません」 こともなげにそう言い放った。 国を大事と思うなら、榊の差配を無駄にしたくないのなら、太子手塚に恭順の意を表して、跡部自身で 父親の首を献上しろと真田は言っている。 「そのような儀礼は必要ない!」 跡部が激する前に手塚が叫んだ。 「己自身の父を手に掛けなければならないような形式に何の意味がある! 父上の仇は母上が 討たれた。それでもう十分じゃないか! これ以上、怨恨を残すような惨劇は俺が許さない! 立海国太師どの。この俺を太子、太子と敬意を払うならその脅迫を取り下げてくれ。これは命令だ!」 畏れながら太子、と珍しく激昂した手塚に真田は視線を向けた。 「これは榊さまのご意思と見受けられます。それに、褒ジさまの刃は未だ致命には至らず、榊さまは断末魔の 苦しみに耐えておいでです。お楽にして差し上げるのもご子息のお役目ではございませんか」 最後は跡部に向けられた言葉だった。 「跡部」 背後で取り押さえていた忍足がその戒めを解いた。そのまま膝を折り、新たに誕生した主君に礼を取る。 後ろを見ずに跡部は腹の底から絞るような声を出した。 「忍足――おまえまで!」 「立海国太師の言うとおりや。ご父君は総てをお一人で引っかぶる決意でことを興された。苦渋の決断やったと その心中を察したれ。おまえは何も恥じる必要はない。この国のために身を呈されたご父君を誇りに思え。 おまえの逡巡は悪戯に苦しみを長引かせるだけや。跡部、いや――」 跡部さま――と忍足はさらに深く叩頭した。 「跡部! 止めろ!」 「クソったれ!」 手塚の制止を振り切り、跡部の白刃は弧を描いた。 望んでいない。誰も。少なくとも己は。 身を犠牲にして何を、誰を守れるという。そうまでして。 それを成そうとして何処へ行く。 これは誰が始めた連鎖なのか。王か、皇后か。 弑い奉るまでに諌められなかった臣たちか。 荒い呼吸の下、父は息子に応える。 その答えは誰にも分からないのだと。 幾年経ようとそれは――誰にも。 人の命を絶つ刀がこれほど重いのかと始めて知った。 跡部の刀が悲鳴を上げた。 手塚は両膝をついて空を見上げる。 茜に侵食される雲が身を切るように流れて行った。 |