風蕭々と 〜終章





 茜に侵食する雲が身を切るように流れていった。



 惨劇から目を背けるように不二は踵を返した。隣に佇んでいた乾はじっと動かない。立ち去りかけた ものの、乾と背中合わせの状態でふと立ち止まる。
 拳に力が入ったままだ。
 一部始終を見守るしか手立てはなかったのかと、不二はついと手を伸ばして長身の男の服に爪をたてた。 そこから苛立ちが乾に伝播する。さぞかし満足なんだろうね、と不二は 誰にともなく呟いた。
「満足、かな?」
「どこまでがあの男の描いたとおりに動いたかまではわからないけど。手塚を手中にした立海の権威は磐石だ。 後ろ盾のない太子はあの国に頼らざるを得ないじゃない」
「氷帝も株を上げたよ。一人舞台を演じた感があるけどね」
「身も骨も削られて損害は甚大じゃない。で、さ、乾。君の雇い主は動けなかったの? 動かなかったの?  今回得たものってあの祭器だけでしょ」
「氷帝が仕掛けた段階で青学は既に出遅れている。それに追従するようなお国柄じゃないんだね。 祭器を所持しているところから、次王践祚の折の祭祀一切を取り仕切る権利はあるかな。 でも、まぁ、あの邪魔くさがりも、太子が亡くなられていたら、どういう行動に出たかは分からないけど」
「また、その理屈か。太子って地位がそれほど犯せざるべき聖域だとは思えないけどね、僕には」
 どっちにしても立海の一人勝ちじゃない、と口を尖らせた不二の指が顎の辺りで止まった。かなりの 恨み節を警戒していた乾は、黙りこくった不二にちらりと視線を送る。
「僕を侮るなよ」
「相当恨みがあるみたいだね。立海も『墨』の不二を敵に回して、草の根水準の嫌がらせに見舞われるのか。 気の毒に」
「ちょっとくらい意趣返ししてやりたいじゃない」
 剣呑な口調とは打って変わって、見惚れるくらいの笑顔で不二はニコリと笑った。



「で、一体いつからあんな予定調和がなされてたんですか、老師。あたかも榊さまと意思の疎通が 出来ていたような振る舞いだったじゃないスか」
 事後処理のために五覇の諸侯が一堂に会したが、その後の取り決めはさながら権力争いの様相を呈する。 当の手塚はその場への列席を拒んだ。投げやりに見える。あのような惨劇に見舞われて当事者としては、 仕方ないとの見方が大勢を占めた。
 だが、真田の眉間の皺は寄りっぱなし。 その抑圧感から沸騰気味の真田を誘って赤也は陣屋を出た。
 夏の盛りは既に過ぎ、乾いた風に初秋の色が混じりかけている。足並みの揃わない諸侯たちの言い分だけで、 騒乱の種がいつ芽吹くか計り知れない。 そんな鬱蒼とした予感を孕んだような静けさだった。
「取り決めなどあろう筈もない。ただ、氷帝公の人となりを鑑みて、太子が生きておいでと知れば どのような手段を講じられるか、それだけに意識を集中していただけのこと。再び刺客を差し向けるか、 あるいは――」
「あるいは宣臼さまの方を闇に葬るか?」
「愚直なまでに筋道を通される方だったので、驚いたくらいだ。だが、蜂起されたときから決意されて おいでだったのだろう。その後の展開は状況次第で変更されるくらいの柔軟さは持たれていただろうしな」
「となると、太子をお助けした跡部がその一端を担ったことになるんスね」
「そして恐らく褒ジさまの存在が――」
 言葉尻を濁した真田に赤也は小さく頷いた。
 見ていて気の毒なほど手塚は憔悴しきっていた。理解の及ばないどこか根底で触れ合ったような 二人の最期を目の当たりにして。
 刃を向けながらその腕を欲した母。誰にでもなくその人の刃で 処断されたいと望んだ父の仇。 引き裂いて別々に葬ることすら憚れるような亡骸から、離れようとしない姿が目に焼きついている。
「でも、まぁ、何て言うか。何もかもその掌で承知されてた筈なのに、一番御し易いと踏んでた太子が、 一番意のままになりませんでしたね」
「その面あては甘んじて受けましょう」
 苦虫を踏み潰したような真田の表情に赤也は口の端を上げた。



「剣の指導をお願いしたい」
 酸鼻を極めた斎場も一切清められ、犠牲となった三人の葬儀が行われた翌日。あの日以来抜け殻のよう だった手塚が真田に声をかけてきた。空いた時間があるときだけでいいから、と神妙な顔で朴訥と告げられた。 思うところはあるだろう。己に力があればと、身に染みたのかも知れない。
 憔悴仕切った彼の、幾許かの気晴らしにでもなればと真田は快諾した。
 立海陣営を出て見晴らしのよい草原で  手塚と初めて手合わせをして、それは出来ないのではなく、ロクな指導を受けてこなかったのだと初めて知れた。 脇が甘いと指摘すれば次の瞬間には直っている。その場で矯正できなくても翌日にはモノにしてきた こともあった。
「剣術はあまりお好きではなかったのか?」
「必要ないと言われた。側仕えの海堂には厳しい訓練を要求したのに。だからその海堂からまた聞きで 教えてもらった。でも、海堂は手加減をするから」
「それはそうでしょう。お怪我をさせては手討ちですからな」
 真田の剣を弾いて手塚が胸元にまで斬り込んできた。それを難なくかわすが、意外と目筋がいい。 真田がどう動くか見極める冷静さを持ち合わせていた。基本はできている。思い切りもいい。 教本どおりかと思えば急に不意をついてくる。場数を踏めば化けるかも知れない。
 剣を繰り出す度に不揃いの手塚の黒髪が踊り、上気した肌から汗が飛び散る。漆黒の瞳は真田の 剣先しか見ていないのだろうが、意外と役得だったなと笑みが零れたとき、
「なんか楽しそうだなぁ」
 間延びした赤也の声がかかった。
「太師、時間だそうです。お偉方がお呼びですよ」
 とぼとぼと剣を肩に担いで近づいてくる。意図も顕わで苦笑しか出てこない。
「赤也さまにご足労頂くとは、立海の兵たちは一体何をしている」
「あっ、俺が買って出たから怒んないでやってください。太子、変わって俺がお相手仕ります。 中原一の遣い手と称された太師真田の一番にして唯一の弟子なんスよ、俺。資格は十分でしょう」
 確信犯だ。手合わせをしたくてウズウズしていたのだろう。ほうと溜息をついて、真田はその場を譲った。
「余り無理をおさせにならないように。太子は私との修練以外にも鍛えておいでです。疲労は怪我に繋がります。 お心おきください」
「何もかもお見通しのようですよ、太子。うちの太師の目を掠めるには至難の業だ」
 揶う赤也にお任せしますと言い残して、真田は手塚に礼を送った。立ち去りかけてふと振り返る。 賑やかな赤也の軽口に小さく微笑んだ手塚が目に入る。煩わしい雑務のために去らなければならない 我が身を呪いながら、思えばこのときから二人の間で盟約が取り決められていたのだと、 後から知る真田だった。



 五覇の諸侯が揃って手塚の前に拝跪し、一日も早い践祚をと促しても、手塚は首を縦には振らなかった。 それこそ何人も入れ替わり立ち代り、何日もかけて説得を試みたが未だに色よい言葉は返らない。 これ以上、王座の空席は民草のためにならないと、だれもが言葉尻を上げた。それに対して、
「太子手塚の葬儀は済んでいる」
 そう、ポツリと言葉が返ったらしい。自身はもう死人なのだと言い放った。 不貞腐れているのか周囲が愛想をつかせるまで待つ算段なのか、子面憎いとはこのことだ。
「太子に教えて差し上げなくっちゃな。うちの太師は気が短いって。鉄槌を下される前に さっさと即位された方が身のためだってね」
 どこか飄々とした立海の公子は他人事のようにヘラリと哂う。どいつもこいつもと吐き捨てかけて、 真田はふと気配を察した。
「で、その死人の元太子は何用があって参られた?」
 そう、赤也の背後の茂みに向って語りかけた。
 カサリと音を立てて姿を見せたのは、予想に違わず手塚と隋人の少年。どこかさっぱりとした佇まいに、 思わず真田の眉が吊りあがった。軽装といっても明らかな旅装束。真田の無言の恫喝に手塚は小さく哂った。
「鎬京を離れようと思う。ここで言葉の応酬を続けても何も変わらないし、この足でこの国を 見て回りたい」
「到底許可致し兼ねますな」
「まずは母上の故郷を訪ねてみたい。その後は古の京師朝歌や文王、武王の王墓に参拝を。祖先の 霊を鎮めるのは子孫の役目であろう」
 許可など必要はないとばかりに手塚は続ける。
「見聞を広められるのも、ご先祖の墓陵に参られるもの結構ですが、まずは践祚遊ばして、京師を整えられ、 天と地を拝し、祭祀を滞りなく収められてこそが、王としての為さりようではありませんか」
 詰る口調を可能な限り抑えて真田は語った。手塚はもとより賛同が得られるとは考えていない。
「太師はまだ俺が太子の地位にあると言い張るのか?」
「平行線の水掛け論でしょうが」
 姿勢のよい長身の真田に睨めつけられて、手塚は、では、と赤也の前に膝を折った。
「太子手塚の名に置いて禅譲申しあげる。立海国公子赤也さまに――」



「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 老師! 太師真田!」
 言い出したら聞かない、説得にも応じない、そのうえ最後の手段とばかりの荒業に出た手塚に、赤也の方が 面食らった。真田の舌打は最早何の効力もない。
「何度もお話申しあげました。玉座が空だというだけで人心は惑い、諸侯に動揺が走ります。それでも 王位を捨て民草を捨ててお逃げになると言われるのか」
「お飾りだけの王が欲しいならだれが玉座を暖めても同じだと思う。姫氏の名が欲しいならそのように 仕立て上げればいい。俺である必要はないだろう」
「私どもがいつあなたを飾り物に据えると申しあげた!」
「太師、もうよそう」
 激昂しかけた真田を手塚が諌めた。自然、腹の底から絞るような声になる。
「私に剣術を習われたにはこのためなのでしょうか」
「そう、そう取ってもらってもいい。あり難かった。まだ、皆伝には至らないけれど」
 母上をお救いしたかった、と手塚は痛いところをついてきた。約束を反故にしたのはそちらだろうと、 暗に仄めかされている気もする。
「俺は知らなければならない。以前にも言ったと思うけれど、父上の轍を踏んでは母上に顔向けができない」
 真田は深く瞑目した。
 なぜ幽王は討たれなければならなかったのか。そして戎狄との軋轢や諸侯が抱える問題など、王宮深くに篭り 祭祀のみに耽っていて勤まらないと。だが、ある意味これは前進ではないかと思えてきた。
「期限を切って頂けますか」
 言ってしまってから、甘いことだと臍を噛んだ。帰って来るとは限らない。長時間の 空席は王家威信の失墜に繋がる。それでもその言葉が口をついて出た。
 切れ長の手塚の瞳が角が取れたように丸く膨らんだ。
 言わば大人たちの都合と意地の鬩ぎ合いの結果生れた最たる被害者が、取り戻せた笑顔にどこか安堵する。
 許したものの、諸侯を相手取って、説得、折衝、折り合いの毎日が続くだろう。それを押し付けて我がままを 許せと甘えられるのもいいかも知れない。吐き捨てるようにもう一度、甘いことだと言ってみた。
「安心してください、老師。俺もついて行きますから」
 手を挙げて申し出る赤也にそうなんだろうなという感想しかなかった。
「これも予定調和なんでしょうか、赤也さま」
「いやぁ、諸国を回った話を太子にお教え申しあげていたら、酷く興味をもたれてね。老師もご一緒に どうですか?」
 無理だと判って聞いてくる。既に出来上がっている話というわけだ。どこまでも小面憎い。
 確かに折れたわけは後ろめたさにあった。
「条件がございます。幾つかの約束を守っていただきたい。行く先とご所在の明確な提示。定期的な連絡。 無謀を慎み、危難を回避され、御身を慈しまれ、そして――」
「まだあるんスか?」
「必ずお帰りいただくこと」
 きっぱりと言い切ってから、真田は袍衣を払って叩頭した。
 手塚の唇が何かの言葉を形どり、一度飲み込んで、思いもよらなかったのか、疑問が口をついた。
「待つと言われるのか」
 策士に似つかわしいしかめ面だけの男が、口を開けば諫言と儀礼の言葉ばかりだった男が、人の心情など 解せず盤上の駒のように扱った男が、はんなりとした笑みを浮かべた瞬間だった。
「お帰りを心よりお待ち申しあげます」



「へぇ、とうとう折れちゃったんだね」
 彼らの出立を見送るつもりもなく、ただ気の抜けたようにその場に立ち尽くした真田の背後から揶うような 声がかかった。途端に視線を絞るが、飄々とした相手には効果はなさそうだった。
「お尋ね者が何用か」
 ふふんと『墨』の首魁は満足そうな笑みで相好は崩れっぱなしだった。
「貴様、太子に何を吹き込んだ」
「何も、そんなに嫌なら正式に御位を譲る手もあるんじゃないってことと、いまの状態で言われるがままに 王位についたとしても立海国の傀儡だよってことと、対応できるだけの力を備えた方がいいって お教えしただけ。後はあんたの 袖すかしを食った顔を拝みたかったから様子を伺っていたんだ。でもさ、あんたたちの手法に比べれば 可愛いもんだと思うよ」
「十分だ」
 十分過ぎるほど太子の背中を押してくれたと、一人ごちる。
 さらさらと手の内からすり抜けていったかけがえのないものを、繋ぎとめておく方法はなかったかと 悔いるのはもう止めようと、真田は不二に背を向けた。小首を傾げた不二はその背に向って言い放つ。
「帰って来ると思う?」
「必ず」
 即答で返して真田はその場を立ち去った。



 幽王歴十一年(前七七一)。戎狄と結託した諸侯が京師鎬京を襲い、西周王朝は一朝にして滅びた。 幽王と皇后褒ジは僅かな禁軍に守られて逃走するが、 驪山(りざん) の麓で捕らえられ首を刎ねられている。褒ジが産んだ幼い太子も同じ運命を辿ったという。
 その後、一諸侯が京師を東の洛陽に定め、廃嫡された元太子の宣臼に「平王」を名乗らせ「東周王朝」を興す。
 事実上力を失った有名無実の王朝だったと物語りは伝えているが、細部に渡るまで知る者はいないだろう。


――了







よ、漸く終了しました。ほんとに長かった。
自己陶酔と自己満足以外の何物でもなかったんですが、最初のペースに比べて、 めっきり力が衰えて、最後なのに時間が空いてしまいました。でも、こんな話が書きたかったんです。(へへ)
色々と反省するところや、活かしきれなかった伏線や、書き直したい部分もあって、後悔は山のようにあるんです。 何よりも手塚が かっこよくなかった!(致命的なミス!)
ホントは跡部に復讐するために、手塚は剣の指導を真田から受ける って場面にしようと思ったんですが、変わっちゃったし。
でも、書き終えてちょっと満足です。今度パラレルに挑戦するときは、もう少し精進したい!(しなさい!)
こんな長いだけの話、読んでいただけた方々に心からお礼申しあげます。 m(__)m