立ち尽くす。その朧な足元に確固たるものがなにもなくても。 現状を把握する。流されずにすむように。 自分を害する者かそうでないのか。 望むらくは今より少しの改善。それ以上は空しいだけだ。 手塚は忍足と黒衣の闖入者の両方をしっかりと捕らえた。 「念のために聞いとく。太子助けてどうするつもりや」 そう尋ねる忍足の表情には余裕がある。闖入者の方は解しかねているようだった。手塚に視線を合わせず、 しかし当然のように言い放った。 「正当な後継者としてお迎え申し上げる」 「へ〜。うちと真っ向から、事構えるつもりか?」 「当然、そうなるな」 あのときの声はこの男からのものだったのかと、今更ながらに納得する。しかし――後継者とは。 「あんたんとこにも後継者候補がおった筈や。国を割るつもりか」 「いま現在、一枚岩で統一はできている。懸念には及ばん」 男の斬り捨てるような物言いに、忍足は刀を捨てて諸手を上げた。判断できないというふうに男は 凝視したままだ。 「うちの公子を足止めするにも限度がある。騒ぎは伝わってる筈や。公子が戻る前にその別嬪さん連れてはよ 姿消してくれ。俺にしても一度助けたもんに、もう一度刀を振り下ろすのは気が進まん。丁度よかったわ」 真意は掴めない。油断させる手かも知れないが、男は手塚に向ってこちらへ来るよう促した。 「太子。どうぞこちらへ」 その手を取っていいものか逡巡する暇すら時は 与えてはくれないらしい。運命の転がる先に曙光が見えるのかは分からない。ただ、ここに留まるよりは と一歩踏み出した。 「跡部が戻ってきたらややこしいのはわかってるやろ。はよ行き」 しっしっ、と蜂でも追い払うような仕草だった。男は手塚の背に手を添えて踵を返した。その背に 間延びしたような声がかかる。 「ちょい待ち」 「やはり一騎打ちか」 「違う。ちょっとした保身に協力してもらおうかと思って」 「保身、か。なるほどな」 「ひと思いにやったって。けど、二度と剣が持てんようになるのは勘弁やで」 「問題ない」 男は言い切ると忍足の肩口目掛けて斜めから刀を振り下ろした、ザシューと迸り辺りが朱に染まる。 反動で背が弧を描くが、忍足は呻き声すら上げずその衝撃に耐えていた。 「……見事なお手並みや。あんたやったら、腕切り落とされても気ぃつかへんかも知れんな」 「何れどこかの戦場で見えることとなるだろう」 それまでに傷を癒せと言い残し、二人は私室を後にした。それを見送って忍足は堪らず呻いた。 「っう。やっぱ、痛い!」 爆発音に跡部は弾かれたように立ち上がった。バタバタと駆け回る兵士たちの沓音。遠くの方で 誰かが何かを叫んでいる。跡部が罵声を発する前に、報告の兵が公子たちの前に傅いた。 「館内で火災が発生した模様です。同時に複数箇所から火の手が上がっております! ただ今 消火活動に向っております故、公子にはこの場を動かれませぬよう、お願い申し上げます!」 「離宮の母上にご避難を!」 「いち早くお知らせしております」 跡部は背後の赤也を努めてゆっくりと振り返った。 「貴様! もう一度聞く。何が目的だ!」 「何のこと?」 「ばっくれるんじゃねぇ。てめえんとこの仕業だってのはお見通しなんだ!」 「頭冷やしたら? 公子の俺がここにいるのに、立海がやったって言うんスか? 巻き添え食っちゃうじゃない。 それほど邪険な扱いは受けてないよ」 跡部はスッと目を細めた。 「なるほど。一触即発状態の立海国公子が、背後に大軍を率いてお見えだ。うちとしては当然厳戒態勢でお迎えする。 意識が外に集中すると踏んでのこの騒ぎ。しかも、大事な公子を囮にしてまで手に入れたかったもの、か」 「へぇ〜。そんなに大事なもの、もしくは高貴な方がこの館にいらした訳? 初耳。この際だから言っとくけどね、 他所の家に火を付けるような 下卑た真似は俺の趣味じゃないね。後々修理代を請求されてもイヤだから責任の所在ははっきりしておく」 勝手にほざいてろ――と跡部は赤也を振り返りもせず賓室を飛び出した。 手塚はただ男の促すまま後に従った。一歩前をゆく男が黒衣を脱ぎ捨てると、その下は氷帝国の衛兵と 同じ装束が現れた。用意周到なことだ。 二人は混乱を来たしている兵士たちの間を縫い、館内を知り尽くしているかのような男の後をついて 裏門を目指した。 途中何度も行く手を阻まれたが、男の堂に入った命令口調に尋ねた衛兵の方がたじろいで道を開ける。 「どこの部署の者だ。何処へ行く!」 「立海がことを仕掛けてくるかも知れん。衛兵は表門へ集結との命令だ。早く行け!」 「待てそっちは裏門ではないか!」 「忍足卿よりの密命を受けている! 一兵卒の分際で任務を足止めさせる気か!」 勢いに推された衛兵が怯んでいる隙に堂々と館内を進む男の胆力に、手塚は目を見張った。 右手をゆるりと刀身に手をかけ、ぎりぎりの殺気を押し込め、それでも立ち塞がる者には容赦はないと 気を張り巡らせている男。 他を圧する荘厳な雰囲気は手塚が見知っているだれとも違う。父王のものはいま少し典雅であったし、 跡部の持つ研ぎ澄まされた緊張感ともかけ離れている。 地に根を張るような、覆い尽くされるような一種の圧迫感に恐れすら感じた。 中原一の遣い手だと称されていた訳が少し理解できた気がした。 二人は裏門にたどり着く。 そこを守る衛兵の数は四。ずっと手塚の横に付いていた男はその姿を認めると、 前のめりに刀を払い脱兎のごとく前に出た。 音もなく、言葉もなく、そして衛兵たちは叫び声を上げる暇もなく血飛沫をあげて崩れ落ち 四つの骸を晒した。 「――……」 瞳を瞬く間も与えない早業に怯む手塚を相手は忖度しない。 促されてハッと気づき、二人は氷帝国、公邸を脱出した。 振り返ると――。 公邸は未だ燻り続け、外からでも邸内の混乱が伺えるようだった。まさに蜂の巣を突いた状態なのは推し量れる。 不始末のうえに手塚の姿が消えたとあって、あの矜持の高い跡部の憤慨をこの男はどう受け止めるのだろうと、 詮ない想いに囚われた。 「あの火災はあなたたちの手によるものなのだろうか」 「誓って申し上げますが、我らの所業ではございません」 つい漏らした問いかけに男は低く端的に答えを返した。 公邸を抜け出したといってもまだ氷帝国の城市内。その錯綜は取りも直さず城市の警備にも 波及し、衛兵の身なりをしているとはいえ、挙動が不審なのには変わりない。この厳戒な警備の囲みをどう 突破するのかとたじろいでいると――お許し下さいと小さな声がかかった。 男は懐から縄を取り出すと素早く手塚を罪人のように縛してゆく。その細身に食い込まぬような心遣いに 手塚はされるがままに従った。 「この上、縄目の屈辱を経験するとは思わなかった」 非難するでもない口調に男が失笑する。不敬の誹りはこの後いか様にでもお受けします、と男は 氷帝国の衛兵の身なりを脱ぎ捨て、努めてゆっくりと歩き出した。 「何者だ! 何をしている!」 当然、途中詮議を受ける。その対応も堂々としたものだった。 「立海国に身を置く者だ。我が陣営から逃げ出した不届き者を捕らえさせて頂いた。貴国に害は与えていまい。 そこを開けてもらおう」 「公邸に火を付けた輩がいる! そいつが犯人なのではないのか!」 男は手塚の肩を掴み衛兵たちに見せ付けるように前に差し出した。 「そのような手練れに見えるか。道を開けて頂こう」 凛と言い放ち、衛兵如きが他国に干渉する権限はないとその囲みを破った。 判じかねると背後がさんざめく。照会するまで待てとの声もかかった。 裏門の衛兵の死体が発覚するのは時間の問題。 だが、公子、赤也の護衛の小隊が公邸まえに陣取っている。そこに合流してしまえば城市郊外に展開する 本隊までどうにか逃げおおせる。 けして後ろを振り向くなと言い聞かせ二人は目的地へ急いだ。 消火活動に慌てふためく兵たちを押しのけ跡部は自室へと向った。大した火災ではない。ただ充満する 煙が厄介だった。もうもうと煙る中、自室の扉を蹴破った。 「手塚!」 閉じ込めた筈の奥の扉が開いている。一歩踏み込んで、血に塗れた忍足が座り込んでいるのに 初めて気づいたようだ。 「忍足――」 手塚はどうした――と気遣うより先に問うてくる公子に失笑を覚えた。忍足の配慮が跡部に理解されること はけしてない。嬉々として逃がしたと知られては、五体を切り刻まれるかも知れぬと昏い笑みが落ちた。 「誰にやられた! 手塚はどうした!」 「恐らく、立海国やろうな。確証はないけど。太子は――すまん。連れ去られた」 その言葉が信じられないのではなく、ただ弾かれたように手塚を封じ込めた部屋へと向った。 空虚な寝所は以前の姿そのままを留め、何事もなかったようにひっそりとしていた。 閉じ込めた。この場所に。 籠の中に封じ込めた。 それは失うことが恐ろしかったからだ。 ――恐ろしい? なぜ? ガッシャーン。 気がつけば手燭を壁に投げつけていた。草案をひっくり返し、棚の竹簡をぶちまける。投げる物がなくなると、 次は刀を払い所構わずに斬りつけていた。 部屋中散々たる状況に暴れつくし、肩で息をつくほどに乱れて漸く収まったようだった。 「気ぃ済んだか」 「煩せぇ! てめぇは何やってたんだ! 連れ去られるのを指をくわえて見てたんじゃねえだろうな!」 戸口にもたれて佇む忍足の怪我の様子などなど省みず、跡部は襟首を鷲づかみにした。 その跡部の瞳は怒りよりも悲しみが勝つ。 哀れな、とその視線から目を逸らした。 「兵を集めろ! 立海公子の首と胴を切り離してくれる!」 「殴られたいか。ちょっとは頭冷やせや」 「こんな屈辱を甘んじて受けろって言うのか!」 「戦おっ始めるつもりか。言うとくけどな、ここに太子がおること自体あり得へんねんぞ。立海公子は 表敬訪問に見えられただけ。そのとき偶々ボヤ騒ぎがあって、奴婢の一人が行方不明。この理由でどうやって 氷帝公にご報告申し上げるつもりや。氷帝国の兵はおまえの命では動かん。それすら分からんのんか!」 跡部は忍足の肩口の傷を思い切り捻り上げた。苦痛から彼の表情が歪む。跡部はそれ以上に蒼ざめ、 腹の底から搾り出すような声を出した。 「てめぇはだれの味方だ」 「おまえや。大局を見失ってるおまえの目を覚まさせてやりたいんや!」 冷静に凄まれ、跡部は忍足の肩を抑えていた手を離した。同じように血に塗れ、たった今気づいたとばかりに 血濡れた手を凝視する。 「ええか、跡部。取り戻したかったらな、名目探せ」 ハッと視線を上げた先に氷帝国一のくわせ者の顔があった。 「立海潰したいんなら手順を踏め。五覇じゃなく、ただ一人の覇王になれ。だれの命も受けんで済む。 おまえの野心をそっちに向けるんや」 「おまえまで親父を殺せってか」 「アホ。方法はなんぼでもある」 ――俺がおまえを王にのし上げる。 そう言って忍足は肩口を押さえながら跡部の足元に膝を折った。 |