風蕭々と 〜争奪





 氷帝公榊が太子に立てようとしている宣臼の名で発した檄は、京師周辺を警護する五覇の諸侯に終日の 後に届けられた。
 混乱を来たしている王室と人心を速やかに安んじるために馳せ参じよと、その混乱のおおもとが 背後で操っているのは周知のこと。
 氷帝公に王位を決定する権限はない。あくまでも先の太子が協力を呼びかける体裁が取られる。それに不承不承 と同じるか、もしくは宣臼に準じる後継者を新たに立て反乱の兆しを見せるか。だが、榊には諸侯の動きは 掌だという自負があった。
 鎬京近郊に布陣した氷帝公の陣屋。
 榊は腹心の将校――鳳を相手に杯を上げていた。宣臼が国許を立ったという 報告はなされていないが、それも時間の問題だろう。
 黙々と杯を重ねる主従の前に、血臭に塗れた別の兵がご報告をと傅いた。
「九鼎を紛失の憂き目に合わせた不届き者の始末を済ませました」
 そうかと、王家の至宝を奪われたにしては、執着のない生返事を返している。その態度に鳳 が苦笑いを送る。
「不始末のお怒り具合から察しますと、車裂にでも処されるかと思いました」
 刑罰の中では一番惨たらしいものだ。それくらいでなければ収まらない筈だと周囲は判じかねていた。
「わたしの趣味ではない」
 榊は一刀の元に斬り捨てる。そんなものを見せられては叶わないと渋面を送った。
「あれはただの祭器。儀式のときにだけあればよいもの。それに九鼎の姿を見知っている者がこの世に 何人いる? つくりだすことも可能だ」
「つくる?」
「そう、南の銅の産地。そして匠の国。もう打診はしてある」
「不動峰は同じましたでしょうか」
「それこそ忠誠の度合いが知れようというものだ」
 五覇の中で南に位置する不動峰国はつい先ごろ代替わりを果たしたばかり。君主はまだ二十歳前と 若く、そしてその経緯から今まで外交の表舞台に出る機会もなかった。
 銅の産地をいくつも抱え、それを加工する技術で潤っている国だ。装飾品から装身具、陶磁器などの 生産がかの国の産業の基盤でもあった。
 世代交代をどうにかこなし、機会が与えられたと思ったら、 此度のような瀬戸際外交。 老獪な国々に囲まれご苦難なことだと、鳳はその心中を察した。
「青学と立海は、それぞれの公子を覇王にと虎視眈々と狙っている。隣国の銀華は最早我が属国と言って よろしかろう。南の不動峰が何処につくかで状況は変わってくるが、かの国の公はまだ若い。 懐柔させるに何ら時間はかからぬ」
 総ては掌にと豪語するにしては榊の目は冷めている。気負うことも浮き足立つこともなかった。 堅実に足場を固める習い性。創業は易く守成は固しと言うが、榊は守成を堅実にこなせる質を持つ。 現状を打破し、切り開いてゆくのは公子の跡部の方だ。
 その逆転がなぜか心落ち着かなくさせる。
「それにしても、立海の動きは早い。二軍を動かして国許と鎬京との牽制を同時に図るとはな。 やはり侮れんか」
「青学の公子を立てた軍も既に間近に迫っております」
「ふふ。いつの世も覇権を巡る争いは目まぐるしいものよ」
「鍵を握るのはやはり不動峰の動向でしょうか」
 どうかな、と言い捨てると榊は天幕を払って陣屋を出た。陣営の周りを囲っている逆茂木近くまで来ると、 立海国の陣営が肉眼でも確認できる。
 どこが阿るか。そしてどこが牙を向くか。それはこれからの差配次第だと榊は目を凝らした。



 今や美術工芸品では中原一と称される不動峰国領は、京師から最南に位置する。五覇の中でも最大の 領土を抱え、背後に滔々と流れるのは長江。しかし南蛮に隣接していることから、 いつの世も文化的に軽んじられる傾向にあった。
 領土が広いだけに手付かずの荒野はさらに寂寞さを助長し、定住民の確保に泣き、税収もままならない。 先代が崩じてのち十四才の若さで不動峰公に就いた橘は、国力の安定にとまず農地の整理と戸籍の改革に 取り掛かった。税収の安定のためである。
 そしてもう一つ着手した国家的事業が匠工の育成と擁護だった。
 幸いにも産出された銅には事欠かず、次第にその能力と感性は周囲を唸らせるだけに成長し、先ごろ 斃れた周王室と各公家は贔屓筋といってもよかった。
 武器をつくるのとは完全に別の事業形態を取り、不動峰の国威を上げるために始めた苦肉の策が いまは功を奏している。
 その件の若き不動峰公、橘は氷帝公の使者を貴賓室に迎えていた。
 五覇の諸侯の中に優劣はない。敢えてつけるとしたら、王家と縁戚関係の深い立海国となるのだろうが、 氷帝国公の使者から首座を要求される謂れはない。不動峰公の周囲が眉を潜めた。
「氷帝国に身を寄せておられる宣臼さまが、貴国に所望したい品があると仰せです」
――赤銅色の三本足の(かなえ)を。
 使者の言葉の意味がつかめず顔を見合わせている周囲に対して、橘はあからさまに顔を顰めた。
「鼎と申されたか。三本足の。二つの耳を持つ」
「いかにも、そのとおりでございます」
 傅く使者に立ち上がった橘は睥睨するかに厳しい視線を送った。が、それも見咎められることなく 柔和なものに変わる。
「君命もだし難し――と立ち返り氷帝公にお伝え下さい」
「不動峰公のご配慮に公もお喜びでございましょう」
 使者どの――と橘は聞き咎めた。
「宣臼さまが、でしょう」
 失礼致しましたと、にこやかに立ち去る使者を不動峰主従は複雑な面持ちで見送った。



「橘さん! いや、失礼。我が君。なぜだ。君命ってどういうことですか!」
 不動峰国公の側近の三人に官位の上下はない。その総てで補佐する体勢が取られていた。 何れも橘よりも年下の、国政を預かる身になるよりも以前から、付き従ってくれている若き重鎮たちだった。
 その中の一人巨漢の石田が食って掛かるように国主に詰め寄った。
「石田の言うとおりッスよ。使者の最後の言葉だって聞いたでしょう。宣臼さまの名を使えば 誰もが阿るって思ってやがる。氷帝公の言いなりでいいんスか?」
 同調した神尾を制したのは伊部だった。
「なんか考えがあるんですね」
 冷静にそう尋ねられて即答できる行動理由は何もない。かの地で起こったことは放った細作より情報は 順次入ってきている。ただ、遠い。実感できないもどかしさがあった。
「鼎は――そうだな。つくれ。不動峰の威信にかけて飛び切り振るったヤツをな。祭器として使うか どうかなんざ、俺たちの知ったこっちゃない。氷帝に献上する気もないさ。どこかで使えるかも知れん。 もし、無駄に終わったらどこかの好事家にでも売りつけてやるから心配するな」
「橘さん」
 橘はどかりと座り込むと、人差し指をクイッと曲げて三人を間近に呼び、近くの市場に物色に 行くような調子で言った。
「悪いけどちょっと出掛けてくるわ。鎬京まで」



 封じ込めていた意識が戻ったとき、すでに跡部の姿はなかった。褥の中で四肢を動かせるも 悲鳴のように軋んで、身動きがままならない。
 これが世に言う陵辱というものかと、男にいいように蹂躙された体を見つめた。
 情欲がどういうものか理解できない。愛情などそれ以上に分からない。だが、男の体というものは時折 意に反した行動を見せる。恐怖や吐き気を凌駕する快楽。それに委ねた一瞬がなかったとはいえない。 凋落した太子の末路を哂い、いつまでもこのような肢体を晒すわけにはいかないと、 身づくろいを整えた。
 母は生きているとあの男は仄めかした。
 わが身の悲痛を嘆く前に母を思う。せめて、せめて非道な仕打ちを免れておられるよう、それだけを 願う。
 失って辛いのはその地位ではなく、取り戻したいのは母一人の身。身を呈しても必ず奪い返す。
 天と地に拝し血を啜って誓いを立てる。
 わが身が辛いと流す涙はもうたくさんだ。立ち上がるだけで痛む体はいつか癒える。心さえ朽ちてしまわない 限りどこかに活路は見出せる。そのためにはここから脱出の準備を。いつ来るか知れないだれかを待つだけでなく、 何が出来ると辺りを見回した。
 出入り口は跡部の私室へと続く扉のみ。天井近くにある明り取りの窓は、土台を作ったとしても人が通れる 大きさではない。当然武器になるようなものもない。
 扉に近づき背中を使って衝撃を与える。掛け金に置かれただけの閂が外れる様子もなかった。
 物音に何の反応もないことから隣室に跡部はいないようだ。だからといってこのまま衝撃を与え続ける わけにもいかない。何れ警備の者に気取られるだろう。何も策はないのかと落胆したとき、 書架に丸められた竹簡に目が行った。
 いま一度扉に取り付く。観音開きの両の扉に僅かばかりの隙間がある。手塚は書架に戻ると、竹簡の一つを 解き始めた。解体された一枚を両の扉の隙間に――閂の下方向から縦に差し込む。銅で出来た閂の重さに 耐えかねて、一枚はあっけなく割れてしまった。補強するにも二枚は入らない。もう一枚を今度は余計な負荷が かからないように真っ直ぐに持ち上げた。
 閂は支えていた掛け金から持ち上げられ、ドンという鈍い音と共に隣室の床に落ちたようだ。
 扉をこじ開け隣室へ移る。
 執務室のような様相の部屋で何か武器になるような物はないかと物色した。手近な短剣を帯び、これで身を守るしか ないと振り返った先に、刀を携えゆらりと立つ氷帝国太師、忍足の姿を認めた。
 ドンという鈍い音とともに何やら周囲が騒然とし出し、きな臭さが漂ってきたのはその後だった。



 同じ五覇の公子と言えど、その出自によって格差は生じる。年下だろうがニヤけ野郎だろうが、 今は亡き王の妹を母に持つ――王族腹の 公子の方が身分は上。跡部は舌打をしながら立海国の公子を上賓の礼を持って迎えた。
「お目にかかるのはこれで二度目ですね。跡部どの」
「立海公子はいかがわしい場所がお好きと見える」
 お互いにね、と赤也は屈託がない。
「それはそうと、貴国に置かれては随分と暗躍の様子。本来なら王を弑した簒奪者としての誹りは免れないところですし、 天道を得ておられるとも到底思えない。当然、討伐軍を編成するという意見もあったのですが、 中原と戎狄を巻き込んだ戦渦に発展することを我が立海公は恐れられた。状況の把握の方を優先した というわけ。しかも我が国が氷帝公の檄に応じる謂れはないのだしね」
 公子赤也は軽い口調で言い放った。その言い草にカチンときた跡部も儀礼を吹っ飛ばして 慇懃さ丸出しで答える。
「大国の自尊心と牽制と及び腰はしっかと聞き及んだ。ふん。結局兵を動かすだけの決断力 に欠けていただけの話じゃねえか。で、一体何の用でここまで足を運ばれた?  氷帝公は鎬京にと仰せだったはずだ」
「相変わらず機嫌が悪いね、跡部サンは。ものは相談なんだけどさ、宣臼さまに会わせてもらいたい。 一応、俺、従兄弟だし。父王の訃報にさぞご心痛だろうと思ってさ」
「それも俺が鎬京にお連れしてからでは遅いってか」
「肉親の情ってヤツ? 一刻も早くお会いしたかったので通らないかな」
「宣臼さまは廃嫡なされたのちも、絶えずわが国でお世話申し上げてきた。この混乱に乗じて、今更 どの面下げて会いたいだと?」
「その混乱を生んだ張本人がよく言うよ。それにお世話じゃなくて、囲っていたでしょう。 十五年も前からこの日が来ることを予測されていたとしたら、大した行動力と慧眼だ」
 小癪な物言いに跡部は不快感を顕にした。それを認めてさも可笑しいと赤也は破顔する。
「まさか、いないって言うんじゃないだろうね。ホントウはもう亡くなってらっしゃるとか」
「わが国が諸侯を謀っていると言われるのか。無礼にも程がある!」
「じゃぁ、出し惜しみは必要ないでしょ。さっさと会わせてよ。それに宣臼さまのご心情もお聞きしたい。 氷帝公の檄文では、いかにも宣臼さまが率先されたって感じだったけど、そんなことある訳ない っていうのが一般論」
「檄が発せられる前から国許を立たれたにしては、白々しい理由だな。何が目的だ」
 人聞きが悪いなと公子赤也がヘラリと哂ったそのときときだった。



「火がついた! 敵襲か!」
「兵を回せ! すぐに消火させよ!」
 そこここで兵たちが叫び声を上げていた。廊下は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていても この男は相変わらず飄々とした姿を晒している。
「意外とやるな。抜け出してるとは思わんかったわ」
 忍足は当然のように刀の切っ先を手塚に合わた。
「悪いな。助けたり、命狙ろうたり、忙しいやろ。混乱に乗じて逃げ出した太子は、事情を知らん兵によって 討たれたってことで跡部には納得してもらおう思て。チンケな筋書きやけど」
「別に、言い訳する必要もあるまい」
「そう言うてもらえると助かる」
 手にした短剣で防げる相手でも得物でもないと承知で、 手塚も構えた。何れどこかで失う命なら、いまここで前のめりのまま受け止めよう。覚悟を決め一歩踏み出したとき だった。
 廊下へ続く扉を背にしていた忍足が、急に左方向へ飛びのいた。
――ガツン!
 黒い影が飛来し、忍足の袍衣の裾を裂いて、元いた床に刀を突き立てていた。
 場の均衡が崩れるも微動だに出来ない。黒ずくめの闖入者と忍足、そして手塚はちょうど三角形を成して 立ち尽くした。忍足はさも可笑しそうに高い口笛を鳴らした。
「危なぁ。もうちょっと太子の美貌に見とれてたら、頭から真っ二つにされるとこやった。 あかんなぁ。人んちに入るときはちゃんと名前を名乗ってもらわな」
 黒ずくめの男は軽く舌打をしながら、床に刺さった切っ先をゆるりと上げて対峙する。
「巫山戯けたことを。氷帝の太師は一筋縄ではいかんと専らの噂だったが、どうやら本当のようだな」
「あんたもな。中原一の遣い手って聞いてたけど、流石や。殺気が読めんかった」
「存知上げて頂いているとは恭悦至極」
「あは、おもろい喋り方するお人や」
「互いにな」
――誰だ?
 話の方向性が読めない。忍足はこの黒衣の男を知っているようだ。手塚はただ構えたまま立ち 尽くすのみだった。